「さゆりの所にはちえりが顔を出していたから、何かあれば教えてくれると楽観視していた。…………でも。…………急だったわね」
悲しげに溜め息をついた百合さんは、視線を上げて広いリビングの隅にあるサイドボードを見る。
その上には家族写真が沢山飾ってあり、中にはさゆりさんとおぼしき若い女性の写真もあった。
「仏壇と位牌は仏間にあるわ。あとで手を合わせて」
百合さんに言われ、私はハッとする。
事故後、尊さんは篠宮家に引き取られたけれど、さゆりさんのお骨や位牌等は速水家の管理下にある。
尊さんは篠宮家に行くまで入院していて、四十九日の間、彼はお母さんと妹のお骨の側にいてあげられなかった。
そして納骨後も、位牌に手を合わせられなかったんだ。
(どうして今まで気づかなかったんだろう。……あのマンション、さゆりさんとあかりちゃんとの家族写真すらなかった気がする)
大事な事に気づかなかった自分が情けなく、私は顔を青ざめさせる。
尊さんを見ると、彼は私の考えを悟ったように微笑み、手をさすってきた。
「ありがとうございます。あとで拝ませてもらいます」
「私も拝ませてください」
百合さんは頷いたあと、尊さんを見つめて尋ねた。
「年明けに篠宮家が大変な事になったようだけど、あれはあなたがやったの?」
「はい。証拠を集めて母と妹を殺すよう指示した者に、法の裁きを受けさせたいと思い、篠宮ホールディングスが大打撃を受ける事も承知の上で、決着をつけました」
尊さんは祖母を見つめ返し、淀みなく答える。
百合さんはしばらく尊さんを見つめていたけれど、力を抜くように息を吐き、小さく微笑んだ。
「よくやったわ。私たちは真実を知らず、あなたが篠宮家で虐待を受けていた事にも気付けなかった。立場上、継母に快く思われていないのは察したけれど、篠宮家の中で何が起こっていたかは分からなかったから……」
その声には深い後悔と悲しみが滲んでいる。
「……あなたが篠宮ホールディングスに入社したと知ったあと、うまくやれているのかもしれないと思った。だから篠宮家の人間として生きていくのだと思っていたけれど……」
百合さんはそこまで言い、溜め息をついた。
「気付けなかった私を許してちょうだい」
力なく言った彼女は、ずっとこうして謝りたかったのではないだろうか。
きっとその謝罪はさゆりさんと、一度も顔を見る事なく亡くしてしまった、あかりちゃんにも向けられている。
尊さんは深い悔恨の籠もった言葉を聞き、ゆっくり息を吸い、吐く。
沈黙した彼は、どう言うべきか考えているようだった。
「許さない」なんて言わないと思うけど、「気にしないでください」と言うにも、二人の間には色々ありすぎた。
たった一言でこの二十二年、百合さんにとってはそれ以上の年月を語る事はできない。
とても大切な場面だからこそ、言葉を大事にしている尊さんは、なんと言うべきか迷っているのだと思う。
やがて彼は小さく溜め息をつき、切なげに笑う。
「……すみません、色んな想いがあって。勿論、許さないとかじゃないんです。今日こうして押しかけたにも拘わらず、『出ていけ』と言わず受け入れてくれた事は感謝しています」
きっと尊さんの胸にこみ上げているのは、篠宮家で味わった屈辱と悲しみ、憎しみだ。
篠宮家に引き取られる運命は変えられなかったとしても、もっと早くに速水家の人たちと関わっていれば、尊さんはここまで酷い扱いを受けなかったかもしれない。
彼は望まなかったかもしれないけれど、速水家の人たちに訴えれば、虐待が改善されたかもしれない。
今さら何を言っても「たられば」にしかならないけれど……。
尊さんはそっと息を吐き、小さく笑う。
「……こうして話せるまで、長かったなと感じています。母は実家の事をあまり語りませんでしたが、身内の事を一度も悪く言った事はありませんでした」
それを聞き、百合さんは安堵したように表情を緩める。
「むしろ『自分は悪い事をしたから、せめて残る人生は清く正しくありたい』と言って、俺と妹にも人を憎まず誠実に、正直に生きてほしいと願っていました」
彼の言葉を聞いて、私は視線を落とす。
篠宮家でどれだけいい子に過ごしても、彼はまったく報われなかった。
怜香さんに然るべき報復をしたあと、尊さんは必要以上に糾弾せず、悪循環に陥らないように彼女の事を考えないようにしていた。
その高潔ともいえる姿勢は、すべてさゆりさんの教えからだった。
けれどさゆりさんが『悪い事をした』と思っていただなんて……。
(悪いのは優柔不断な亘さんなのに)
コメント
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どんだけお母さん、イイ人だったんだよ。。。😭