テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
鐘の音が、ふいに止んだ。
代わりに聞こえたのは、早足の足音だった。
畳を踏み鳴らすような、遠慮のない音。
「——おい」
低く、刺すような声。
振り向くと、廊下の奥に男が立っていた。
俺と同じくらいの年齢だろうか。
着物の着方はどこか雑で、袖をまくり上げた腕には無駄な力が入っている。
「千代」
名前を呼ぶ声音が、少しだけ乱暴だった。
「こんなとこで何してる」
千代の表情が、一瞬だけ固まる。
「……裕也さん」
その名前を聞いた途端、男——裕也は俺に視線を向けた。
値踏みするみたいな、遠慮のない目。
「で?」
「誰だ、そいつ」
間髪入れず、吐き捨てるように言う。
「えっと……」
千代が口を開こうとした、その前に。
「見りゃ分かるだろ」
裕也は一歩、こちらに近づいた。
「町の人間じゃねぇ顔してる」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……俺は——」
言いかけた言葉を、裕也が遮る。
「名乗る前に言っとく」
口の端を歪めて、笑う。
「怪しい奴は嫌いなんだ、俺」
空気が、一気に張りつめた。
「裕也さん、やめて」
千代が、はっきりと言う。
「この人は……悪い人じゃありません」
裕也は、少しだけ目を細めた。
「は?」
「千代、お前……」
一拍置いて、低く言う。
「まさか、そいつの話、信じたのか」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
でも、千代は逃げなかった。
「はい」
迷いのない声だった。
「信じています」
裕也の笑みが、消える。
「……ふーん」
そう言って、俺の正面に立つ。
「じゃあよ」
視線が、まっすぐ刺さる。
「試させてもらう」
「試すって——」
「お前が何者か、だ」
荒っぽい口調の奥に、
ただの乱暴さじゃない“警戒”が滲んでいた。
千代が、俺の袖をぎゅっと掴む。
「大丈夫です」
小さな声。
でも、確かに背中を押された。
——信じてくれる人がいる。
それだけを頼りに、俺は裕也を見返した。
それから数日後、町の空気が変わった。
朝から、人の声が多かった。
落ち着かないざわめきが、通りに満ちている。
「……嫌な感じだな」
そう呟いたのは、裕也だった。
いつもの荒っぽさがなく、どこか硬い声。
役場の前には、人が集まっていた。
紙を掲げた男の声が、はっきりと響く。
「——招集に応じられたい!」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわつく。
意味は、分かりすぎるほど分かった。
裕也は、紙に目を走らせたあと、黙り込んだ。
拳を、ぎゅっと握りしめている。
「裕也」
俺が声をかけると、彼は一度だけ、深く息を吐いた。
「俺だ」
短く、そう言った。
「選ばれた」
「戦争に、行けってさ」
言い方は投げやりだったけど、
その目は、ほんの一瞬、揺れていた。
俺は、言葉を失った。
大正十三年——この先に何があるかを、知っているから。
その夜、裕也が俺を呼び止めた。
「翔」
人目のない場所で、珍しく声を落とす。
「俺さ」
少し間を置いて、続けた。
「正直、怖ぇよ」
その一言が、胸に刺さる。
「逃げたいと思ってる」
「…」
「卑怯だって分かってる」
自嘲するように笑う。
「でも、死にに行く覚悟なんて、ねぇし」
俺がはっきり言ってあげた
「逃げよう」
裕也が、目を見開く。
「は?」
「俺の知ってる未来じゃ……」
言葉を選びながら続ける。
「お前にいいことがないじゃないか」
裕也は、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「……ああ、やっぱお前、変な奴だ」
でも、その声は、どこか軽くなっていた。
そこに、千代が現れた。
「……お話、聞いてしまいました」
二人が振り向く。
「私も、一緒に行きます」
即答だった。
「千代、」
「お二人だけを、置いていけません」
小さな手が、震えていた。
それでも、目は真っ直ぐだった。
裕也が舌打ちする。
「巻き込む気はねぇ」
「もう、巻き込まれています」
千代は、はっきり言った。
沈黙。
そして、裕也が観念したように肩を落とす。
「……三人、か」
「うん」
俺はうなずく。
「三人で、逃げよう」
鐘の音が、遠くで鳴った。
まるで、決断を告げる合図みたいに。
行き先も、先のことも分からない。
追われるかもしれない。
それでも。
——生きるために、逃げる。
三人は、その夜、町を出ることを決めた。