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テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
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岩崎は、小刻みにゆるりゆるりと弓を引く。


そのつど、柔らかな音が発せられ、観客は静まり返り耳を傾けている。


皆、岩崎が作曲した「麗しの君に」の虜になっていた。


心に染み入る音。何もかも包み込んでくれる音。それでいて、しっかりとした軸かあり、ふんわりとした曲調の中にも、強さが兼ね備わる旋律は、当然、月子の心も掴んでいる。


訳もなく流れてくる涙に戸惑いながら、月子は、しっかりと岩崎の演奏を受け止めていた。


「うん、京介のやつ。一皮剥けたな」


「ええ、京一さん。月子さんのお陰……ですよねぇ」


男爵夫妻が、柔かな笑顔を月子へたむけてくる。


月子は、二人にどう答えて良いのか分からず、なにより涙を見られたくないと、俯いた。


曲が、そよ風のような心地よさを劇場内に運んで来ている。


皆は、とろりとした顔つきで、岩崎の演奏に夢中になっていた。


ついに、終盤を迎えるのか、ピアノの連打のごとく、重厚なチェロの音が鳴り続き、どこか、胸踊る雰囲気が漂い始めた。


ただそれは、じわりと、心に染み入るもので、皆、前のめりになって、流れる音を追っている。


再度、岩崎は、ゆっくりと弓を引き、演奏が終わった。


しんと静まる中、岩崎は一礼して曲の終わりを告げる。


観客は、我に返り、一斉に立ち上がると、朗らかな笑顔と共に大きな拍手を送った。


「京さーーん!!」


「よかったよーー!」


ご近所のおかみさん達が、必死に舞台へ向かって拍手を送っていた。


客は、サクラ。


岩崎の顔見知りも多い。


気がつけば、劇場内は、京さん!のかけ声一色になって、さすがの岩崎も、小さくなった。


そんな、困惑している岩崎の姿に、月子も思わず桟敷席の縁にしがみつき、身を乗り出し、そして、


「京介さんっ!!!」


と、精一杯叫ぶ。


込み上げてくる感動を、どうにかして岩崎へ伝えたかったのだ。


その叫びを岩崎は聞いた。とたんに、舞台の上で目を見開き、驚きの表情を浮かべながら桟敷席を見る。


身を乗り出し、岩崎をひしと見ている月子がいた。


「……月子」


聞いてもらえたのだ。一番聞いて欲しかった人に聞いてもらえたのだと、岩崎の心の中に充足感が満ちてきた。


とたんに、今の現状に気がついて、岩崎も、叫んだ。


「月子!!危ないから、早く下がりなさいっ!!落ちたらどうするっ!!祝言が挙げられなくなるだろうっ!!」


えっ?!と、驚く月子より先に、観客の間に爆笑が起こった。


「あーー!やってられねぇーわ!」


「のろけかよぉ!!」


「うらやましいねぇー!ちくしょー!!」


はいはい、お開き、お開き。目の毒だと、皆、分かったようなことを言い出し、帰り支度を始めた。


バタバタと支配人が飛びだして来て、演奏会終了の挨拶をしようとするが、誰も聞いていない。


口々に、よかった、凄かったと、笑みを浮かべ、語り合っている。


少しばかり、行おうとしていた事とは、ずれてしまったが、どうあれ、演奏会は成功したことに違いないと、控えていた学生達が、わっと舞台に駆け出して来て、岩崎を取り囲む。


大きな拍手と共に、誰からともなく、帝都音楽学校の校歌が口ずさまれ、それは、大合唱になった。


まさしく、最後の締めとばかりに唱われる校歌に、これまた、観客は、大喜びで手拍子し、舞台は幕を閉じたのだった。


──そして、その夜。


演奏会成功を祝って、亀屋が、店で宴席を開いてくれた。


参加者は、岩崎、月子、お咲、二代目、中村と、いつもの面々だが、終わったという解放感からか、岩崎までも酒を飲み、男達はほろ酔い気分になっていく。


そして、こちらもお開きとなり、帰り道。ご機嫌の岩崎は、お咲を肩車して、一緒に、ニギニギと、おに太郎を唱う始末。


月子は、岩崎の意外な一面に驚きつつも、おに太郎の二重唱に笑いが止まらなかった。


「……お咲は寝たのか?」


「はい、お咲ちゃん、大活躍でしたもの。疲れちゃったんでしょうねぇ」


岩崎の部屋──、着替えを終えた所へ、月子は酔いざましにと水を運んできていた。


湯飲みに入った水を受け取り、岩崎は、少しばかりムッとする。


「月子。どうでもいいがなぁ、桟敷席から身を乗り出すのは、けしからんと思うのだ!いかんぞ!全くもって!」


酔いが残っているようで、岩崎はいつもより饒舌に、月子へ説教のような事を言う。


小言を言われても、岩崎の口調がおかしくて、月子は笑いを堪えているのが精一杯だった。


「うん、だが、あれはよかったなぁーー」


岩崎は、湯飲みを小机に置くと、月子の手を取り引き寄せる。


あっという間に岩崎に抱き締められた月子は、内心焦った。しかし、離してもらえそうもなく、更にコツンと岩崎の額が月子の額に重なった。


「……月子。もう一度、いや、これからずっとあれで、呼んでくれないか?」


「……だ、旦那様?」


「いや、いや、それは、なしで!私は月子を名前で呼んでいるだろう?だったら、月子も、劇場で叫んだように……」


それはつまり……。岩崎の事も名前で呼んでくれということで……。


頬を染める月子は、岩崎に、しっかり抱き締められた。


酒をおびた岩崎の息が降りかかって来たと思った瞬間、月子は優しく口付けられる。


急なことにびくりと肩を揺らす月子だったが、岩崎に口付けられながら、心の中で、京介さん、と呟いていた。

麗しの君に。大正イノセント・ストーリー

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