購入した食材を冷蔵庫へ入れに帰りたい、と大葉から言われた羽理は、大葉の運転で愛車コッペンごと会社近くの屋久蓑大葉のマンションへ移動した。
アスマモル薬局からここまでの道のり、大葉が運転したのには大した理由はない……と、思う。
ただ単に駐車場までの道すがら、「羽理、ここから俺の家まで迷わず行けそうか?」と大葉から聞かれて、羽理が言葉に詰まった結果なのだから。
だが、実は今まで何だかんだと愛車のハンドルを他人様に譲ったことのなかった羽理だ。
何なら方向音痴の自分のためにこそナビを付けているわけで……羽理がいくらダメダメでもナビに行き先さえ設定すれば問題ない。
ビタミンカラーが可愛い愛車コッペンちゃんのことを羽理は物凄く気に入っていたし、人に運転席を譲るなんて考えられなかったはずだ。
なのに、大葉がそうすると言ったとき、何故かそんなに抵抗がなくて。
案外すんなりハンドルを明け渡してしまえた自分に、羽理自身とても戸惑っていたりする。
(多分、屋久蓑部長の圧が高かったからですかね!?)
羽理自身その事象をうまく説明できなかったから、仕方なくそう結論付けたのだけれど。
恐らくはどんなに相手の圧が強くても、本当に嫌なら自分が絶対にへこたれるタイプではないはずだと言うことに、羽理は薄っすら気付いていて気付かないふりをした。
考えても分からないことはスルーするに限る。
羽理は今までだって――仕事ではともかくとして――プライベートではそうしてきたのだ。
今回だってそうしようと思っただけのことだった。
***
「お前の着替えも今日着ちまって替えがねぇし、化粧品買いそろえたらついでにお前の部屋へ寄って着替え、調達し直すだろ?」
そそくさと冷蔵庫へモノを詰め込みながら羽理の方を振り返ってきた大葉に、物思いに耽っていた羽理は、「あっ。はい、それもそうですね」と半ば条件反射で答えてしまった。
(……ん? ちょっと待って? ひょっとして私、自宅へ戻った後、もう一度ここへ来る算段になってますかね?)
答えた後でそう思い至った羽理だったけれど……大葉が晩ご飯を作ってくれると言っていたのを思い出して、それを食べて帰れと言うことかな?とぼんやり思い直した。
「あー、そうだ。今朝のお前の失敗を踏まえて、お互いに仕事へ着て行けそうな服と、ラフな部屋着の両方を置くようにしとこうか」
言って、大葉が持ってきたのはクリーニング済みと思われる、ビニールに包まれたワイシャツとスーツで。
「これ、一式お前ん家用な? ちょっと持っててくれるか?」
とか当然のように言ってくるから、思わず受け取りつつも、羽理は(どこに保管すればいいですかね!?)と思わずにはいられない。
どうやら大葉、今現在羽理宅にはラフな部屋着を置いているらしい。
以前大葉から渡された着替え一式が入っていると思しき袋は、中身なんて確認せずに押し入れに突っ込んでいるから。今回スーツを差し出してきた大葉を見てそう思うと同時、こんなちゃんとした服、置き場に困ります!と思ってしまった。
何せ、大葉のマンションと違って羽理の部屋はワンルームしかないのだ。
(自分の服と一緒に、このお高そうな部長のスーツを並べ置く?)
小さなクローゼットの中で寄り添う、お気に入りのワンピースと大葉の高級気なスーツ、という構図を思い浮かべた羽理は、ブワリと頬が熱くなるのを感じた。
(何か同棲してるみカップルみたいで恥ずかしいではないですかっ)
羽理が夏乃トマト名義で書いているラブコメ作品『あ〜ん、課長っ♥ こんなところでそんなっ♥』にだって、そんなシーンは出てこないのに。
というか……よく考えてみたら自分には恋のときめき的なものがイマイチよく分からないことに、今更のように気が付いた羽理だ。
以前、一見さんと思しき読者様からエッチシーンにリアリティがないだの、恋愛感情がイマイチ伝わりにくいだの感想を書かれたことがあるけれど、それもそのはず。
羽理の恋愛小説はみんな何かで読んだり見たり聞いたりしたものの受け売りなのだから。
実体験に乏しい妄想小説である以上、リアリティなんて出せるわけがない。
でも――。
そこでちらりと愛犬キュウリを、目を細めて撫でさする屋久蓑大葉を見遣ると、羽理はどこか落ち着かない気持ちをなだめた。
「あ、あのっ、屋久蓑部長」
「……大葉、な?」
呼び掛けると同時、足元のキュウリを撫でていた大葉が、ふと手を止めて鋭い眼光でこちらを睨み上げてくるから。
その視線と自分のものがかち合った途端、羽理はまたしても心臓がトクン!と跳ねて、「うっ」と胸を押さえた。
(もぉ、怖いお顔するからまた心臓が痛くなっちゃったじゃないですかっ。不整脈で倒れたら治療費は部長に請求しちゃいますからね!?)
胸元をギュッとしながら大葉を睨んだら、そんな大葉越し。キュウリから純真無垢な曇りなきつぶらな眼でじっと見上げられて……。
何だか自分が彼女の飼い主様に対して良からぬ気持ちを抱いているような気になって、ソワソワと落ち着かなくなった羽理だ。
(だっ、大丈夫だよ? キュウリちゃん。私、貴方の飼い主さんに害をなす気は微塵もないからっ)
そんな言い訳をしつつも心の中――。
(けど……今日の私、胸が痛くなり過ぎじゃない? 一度心電図をとり直して頂いた方がいいよね? もちろん原因は屋久蓑部長っぽいし、経費は部長持ちで!)
なんて具合に、羽理は病院行きを決意した。
その上で、羽理は先程の続きの言葉を言わずにはいられない。
「あ、あの、それだと何だかお泊り前提みたいになってると思うんですけど……」
「ん? もちろんそのつもりだが?」
キョトンとした顔をした大葉から「そもそも入浴後に片道二〇分の距離を、相手を送迎するためだけに費やすなんて馬鹿くさいだろ?」と、さも当たり前みたいに付け加えられて。
そ、それは確かにその通りなんですがっ!と思いつつも反論したくてたまらない羽理だ。
「大葉のお家は広いからいいですよ? でもうちは……ご存知と思いますけどめっちゃ狭いワンルームなんです! お部屋がひとつしかありません! 二人でお泊りしたら……その……あの……」
別室へ……が出来ないから、一緒の部屋に寝るしかなくなるではないですか。
(それは困りますっ!)
そう思って。
「ひょっとして大葉は恋愛経験めっちゃ豊富な人ですか? 抱いた女性の数も、両手両足の指じゃ足りないくらいなんじゃないですかっ!?」
「は? 何だいきなりっ」
キュウリを構うのをやめて慌てたように立ち上った大葉に、斜め上から困ったようにじっと見下ろされて。
羽理は無意識に先程手渡されたばかりのスーツを抱く腕にギュウッと力を込めた。
(だってもしそうだとしたら……すっごくすっごく腹立たしいではないですかっ!)
プレイボーイに手玉に取られるのは癪に障るから……。
すぐさまそのモヤモヤの正体を、無理矢理そう結論付けた羽理だ。
大葉が知ったら『誰がプレイボーイだ、バカ者め! 自慢じゃないが、俺はめちゃくちゃ奥手だぞ!?』と要らぬ告白をしかねないことを思っているのだが、残念ながらある種のゾーンに入っている羽理は気付けない。
(屋久蓑部長だって所詮は男の人だもん! 隙を見せたら絶対危険っ)
大葉が、散々最高の据え膳たる裸の羽理を前にガッツリ反応しながらも、理性を総動員して手を出してこなかったことを頭の片隅に追いやって、羽理はそんな失礼なことまで思ってしまう。
それに実際、隙ならば倍相岳斗たちとの飲み会で酔っ払った時、これでもか!というくらい見せ付けてしまっていることも、都合よく忘却の彼方だ。
とにかく羽理にとって性行為は妊娠と隣り合わせの行動で……結婚する気もないのにしちゃうのには、どうしても抵抗がある。
それで過去、唯一付き合ったことのある彼氏に見切りをつけられたのを踏まえ、就職したのを機に心を入れ替えたつもりだった。
相手もある程度稼ぎのある男性ならばきっと何とかなるはずだし、もう少しゆるっと行こう……と。
でも、もし羽理が相手に望まれない妊娠をしてしまったとして、堕胎を迫られたら?
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