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深夜、ジホの寝息が微かに聞こえる。
灯りを落とした薄暗い部屋で、ヒョヌは小さく息を呑んだ。
(今しかない……)
指先が震える。
心臓の音がうるさくて、ジホを起こしてしまいそうだった。
シーツをそっとめくり、
足を床に下ろす。
冷たいフローリングが、少しだけ現実を引き戻した。
(行け……行け……今なら……)
ドアに手をかけた瞬間、
背中に鋭い声が落ちた。
「……どこ行くの?」
振り向くと、ベッドの上でジホが体を起こしていた。
薄闇の中でもわかる。
笑っているのに、目が笑っていない。
「……ちょっと……外の空気を……」
震える声が情けなかった。
ジホは無言で立ち上がり、ゆっくりとヒョヌに近づく。
ドアノブにかけたヒョヌの手首を、
無理やり引き剥がした。
「空気?……空気なんか必要ないだろ。」
耳元に吐き捨てるように言うと、
ジホはヒョヌの後頭部を掴んで壁に押し付けた。
「お前、俺がどんだけ甘くしてやってんのかわかってんの?」
低い声が喉の奥に突き刺さる。
「逃げようとした分……わかるな?」
乱暴に髪を引かれて、ヒョヌは必死に首を振った。
「やだ……やだ……もうやめて……!」
ジホの指先が顎を掴み、無理やり顔をこちらに向けさせる。
「代償だよ、ヒョヌ。」
低く笑った声が、耳朶を舐めるみたいに響いた。
「お前、わかってんだろ?
借金、薬、俺が払ったんだ。
逃げるってことは……どういうことかわかるな?」
ヒョヌの背筋が凍る。
ジホは唇を押し当てながら囁く。
「次は……体だけじゃすまさねぇからな。」
指先がヒョヌの喉元を滑り、
ゆっくりと胸元を撫で下ろす。
「お前は俺のモノだ。
一生、逃がさない。」
壁に縫い付けられたまま、ヒョヌは息を詰まらせて泣いた。
(……誰か……助けて……)
けれどその声が届く場所は、
もうどこにもなかった。
壁に押し付けられたまま、ヒョヌの瞳は涙で滲んでいた。
ジホはその濡れた頬を親指で拭いながら、
まるで愛おしそうに口角を上げる。
「泣くなよ。可愛い顔が台無しだろ。」
その声は酷く優しくて、だからこそ背筋が冷える。
「お前さ……この前、同僚に抱きつかれてたろ。」
不意に低く落ちた声に、ヒョヌの背筋が震えた。
「あれ、俺ちゃんと見てたんだよ。」
親指が唇をなぞる。
その触れ方は優しいのに、瞳の奥は冷たく光っている。
「あいつ、今頃……俺に何されたと思う?」
ヒョヌの喉がひくりと震える。
ジホは笑って、そのままヒョヌの首筋に唇を落とした。
「わかったか?
お前は、誰にも触らせない。
俺だけが触る。」
甘い吐息が首元を這うたびに、
ヒョヌの中で恐怖と熱がごちゃ混ぜになる。
「お前が他の男に笑っただけで……
俺は簡単に全部壊せるんだ。」
耳元に落ちる声が優しくて、ぞっとするほど冷たい。
「だから……大人しくしてろ。
俺だけを見てろ。」
触れられるたびに、
体の奥のどこかで『これが愛かもしれない』と思いかける自分がいる。
けれど――
(……これは……愛なんかじゃない……)
心の奥の声はまだかすかに残っているのに、
ジホの熱がそれを簡単に覆い隠していった。
「可愛いヒョヌ……俺のモノ。」
ささやく声が、
鎖みたいに耳奥に絡んで離れない。
いつの間にか、スマホはジホの管理下に置かれていた。
連絡先は全て削除され、
画面ロックの暗証番号さえ、ジホしか知らない。
出勤も、退勤も、
どこへ行くにもジホの黒い車が待っている。
部屋の合鍵は奪われ、
鍵はいつもジホのポケットの中だ。
ヒョヌは自由を失ったはずなのに――
なぜか、心の奥が少しだけ安堵していた。
(……俺は……守られてる……?)
ぼんやりと思う。
誰も信用できないこの街で、
自分を必要だと言ってくれる人間はジホしかいない。
ジホの部屋には、ヒョヌが必要な物は全て揃っている。
着替えも、食べ物も、薬も、
そして夜に降る甘い声も。
けれど、
ふとした瞬間に、背筋がひやりと凍る。
ジホがヒョヌを見つめる視線の奥――
そこにあるのは、愛じゃない。
(……もし……俺が要らなくなったら……)
頭の奥に、刃物のように鋭い恐怖が浮かぶ。
(……この人は……俺を……殺す……)
そう確信しても、体は動かない。
ジホが触れると、恐怖よりも先に
甘い熱が背骨を伝って、思考を鈍らせるからだ。
「なぁ……ヒョヌ。」
部屋の隅で膝を抱えるヒョヌの耳に、ジホの低い声が落ちる。
「今日は外に出んなよ。」
いつもの命令だ。
「はい……」
小さく答えると、ジホは満足そうに髪を撫でて笑った。
「いい子だな。」
その言葉に、胸がひどく温かくなる。
(……これが……愛……?)
けれど、心の奥では
小さな声が震え続けている。
(……違う……これは……)
けれどもう――
それが何なのか、ヒョヌには分からなくなっていた。
夜――
ジホの腕の中でヒョヌは息を荒くしていた。
薄暗い部屋に、静かに鳴るラップのビートが流れている。
ジホの低い声が耳元をくすぐるたびに、
体の奥に火がついて、冷たいはずの恐怖さえ熱に変わっていく。
「……欲しいんだろ?」
甘く問いかける声。
ヒョヌは首を振ろうとするのに、体は小さく頷いてしまう。
(……やだ……こんなの……)
喉奥にこぼれた声が、自分のものとは思えなかった。
「言えよ。」
ジホの指先が、ヒョヌの顎をついと上げる。
「欲しいって、言え。」
逃げ場のない瞳を、紫髪の男が絡め取る。
「……ほ……しい……」
絞り出した声が、途切れた息に混ざる。
言った瞬間、
ジホは喉の奥で笑い、髪を撫でて優しく囁いた。
「いい子だな、ヒョヌ。」
その声が嬉しくて、胸が苦しくなる。
(……嬉しい……なんで……)
ジホの舌が首筋を這い、
体は反射的に熱を帯びる。
どこか遠くで、
これが正常じゃないと叫ぶ声がするのに――
すべてジホの声に掻き消されていく。
「他の奴のとこ、行かないよな?」
耳元で低く問われ、
ヒョヌは条件反射のように首を振った。
「……行かない……」
「俺だけだよな。」
「……ジホ、だけ……」
言葉がこぼれるたびに、
体の奥の奥に重たい鎖が絡まっていく気がした。
(……もう……俺は……)
涙の代わりに、熱が瞳を濡らす。
ジホの唇が、
喉を辿り、胸を這い、
息が詰まるほど深く潜っていく――
もう、自分の意思なんてどこにもなかった。