テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その夜。
スタジオの灯りが落ち、
機材の電源が一つずつ切られていく中で、
涼ちゃんだけが、まだそこにいた。
鍵盤の前。
音も出さず、指を置いたまま。
元貴は、
帰り支度をしていた若井に目配せすると、
何も言わずに涼ちゃんの方へ歩いた。
背後に立っても、
涼ちゃんは振り返らない。
逃げるように席を立たないだけ、
今日はまだマシだった。
「……なあ」
低く呼ぶ。
少し間があってから、
涼ちゃんの肩がわずかに揺れた。
「なに」
それだけ。
元貴は、一瞬だけ言葉に詰まる。
いつもなら、ここで冗談の一つも挟めた。
空気を和らげることもできた。
でも今日は――
それをやる気になれなかった。
「……最近さ」
涼ちゃんの背中に向かって、
慎重に言葉を選ぶ。
「俺、
お前に触れちゃいけない感じしてる」
涼ちゃんの指が、
鍵盤の上で止まる。
「そんなことない」
即答。
けれど、感情は乗っていない。
元貴は、思わず息を吐いた。
「あるよ」
静かに、しかしはっきりと。
「ある。
ずっと」
涼ちゃんは、
ゆっくりと椅子から立ち上がった。
元貴の方を見ないまま、
視線を床に落としたまま。
「……元貴は、
何も悪くない」
その一言が、
胸に刺さる。
責められるより、
よほど苦しかった。
「じゃあさ」
元貴は、一歩近づく。
「なんで離れてくんだよ」
声は荒げていない。
けれど、抑えきれない感情が滲んでいた。
「俺、
お前が勝手に消えていくの見てるの、
きついんだけど」
涼ちゃんの喉が、
小さく鳴る。
しばらく沈黙が落ちて、
やっと、かすれた声が出た。
「……言ったら」
「言ったら?」
「言ったら、
壊れそうで」
その言葉に、
元貴の呼吸が止まる。
「誰が」
涼ちゃんは、
唇を噛みしめる。
「……全部」
自分も。
関係も。
この場所も。
全部。
元貴は、
何も言えなくなる。
涼ちゃんは続けた。
「だから、
何も言わない方がいいって思った」
「一人で沈んでれば、
誰も巻き込まないから」
その瞬間、
元貴の中で何かが切れた。
「ふざけんな」
低く、抑えた声。
涼ちゃんがびくりと肩を震わせる。
元貴は、
でもすぐに一歩引いた。
怒りじゃない。
これは――
必死さだ。
「お前が勝手に抱え込んで、
勝手に離れて、
それで俺らが平気だと思うなよ」
涼ちゃんの目が、
ようやく元貴を見た。
怯えと、迷いと、
それでもどこか期待する色。
元貴は、
その視線から逃げなかった。
「壊れるなら、
一緒にだ」
「お前だけ沈むな」
「手、伸ばせよ」
震える声で、
はっきりと言う。
「俺は、
引っ張る側にいるから」
涼ちゃんの目から、
音もなく涙が落ちた。
それを見て、
元貴の胸が締め付けられる。
やっと――
閉じた扉に、
ひびが入った気がした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!