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冷たく乾いた風の吹く季節、厳めしい佇まいの練兵場に、若く逞しい男鉤爪の痕がやってくる。入り口のところは武装した衛兵たちが固めているが、その注意は練兵場の奥の方へ向かっていた。使い込まれた剣と盾、傷だらけの革鎧に継ぎ接ぎの外衣という装いのテナーロスが衛兵たちの間を擦り抜けるように進む。が、さすがの衛兵たちも気を取り直し、怒鳴るように咎める。
その日暮らしのテナーロスは今日を生きるための金を欲していた。身に沁みついた浪費癖に何度も苦しめられてきたが、一向に悪癖が治る気配はなく、蓄えるということを知らないこの男が仕事を失えばその日から死の気配がちらつき始める。
衛兵たちが気を引かれ、テナーロスが乗り込まんと突き進んだ先、練兵場の広場には沢山の戦士たちがいる。衛兵たちと違って、各人それぞれ装備が違う。いずれの御代からかシグニカに睨みを利かせる北方の出らしき鉄の塊のような重武装もいれば、アルグリー野からやって来たと思しき斥候でなければ野盗のような身軽な装いもいる。集まっているが規律はない。勝手に喋り、落ち着きなく辺りを見回し、己の得物を検めている者もいる。見た目にはならず者の集まりだ。
練兵場を見渡せる高台には、太陽神の戦車の如く優美に飾り付けられた輿が設けられ、衛兵を伴った一人の女性が戦士たちを見渡している。名を神の贈り物。気高き祖を持つ王の娘であり、千人斬りを誇る無二の女傑でもあり、はたまた臣も民も慈しむ無私の手弱女でもある。王女ヴァシトラの剣や鎧は、元は雪の結晶の如く繊細な造りだったようだが、渡り歩いた戦場で傷を受け、飾りを失った痛ましい出で立ちだ。
王女が戦士たちに語り掛けようと身を乗り出す直前、練兵場の入り口で騒ぎが起きる。テナーロスが飛び込んできて、追って来た衛兵に引き留められる。
「我が名はテナーロス! 自分も参加させてくれ! 傭兵稼業で食って来た! 第一次不眠鳥戦争、第二次マドラ戦争、ソルムゴット沖の海戦を戦い抜いている! 腕には覚えがある! ここにいる誰にも引けを取らない優秀な兵士になってみせる! きっとだ!」
「控えろ!」「王女の御前だぞ!」「飛び入り参加など認めてない!」
テナーロスは多数の衛兵に羽交い絞めにされるも、びくともしない体格を誇っている。
すっとヴァシトラが軽く手をあげると衛兵たちは黙り、テナーロスもつられて静かになる。
「構いません。参加を認めます」と許可するヴァシトラの声は氷の鈴の音の如く儚げだ。「かの反逆者父祖を探す手は多いに越したことはありません」
「どうする?」と衛兵の一人が囁くように言う。
「勿論参加します!」とテナーロスは答えるが、
「お前に言ったんじゃあねえよ」という声を聞いた直後、後頭部に衝撃が打ち付けられる。
呻くテナーロスの視界の内でこちらを見つめているのは王女ヴァシトラただ一人だった。王女にもまた驚愕と疑問の表情が浮かんでいる。しかし集まった戦士、衛兵たちは輿から乗り出す王女を見据え、剣を抜いて迫るのだった。霞む練兵場でヴァシトラもまた歴戦の剣を抜いて応戦し、鋼の打ち合う音が響く。しかしテナーロスはその結末を見届けることはできなかった。
テナーロスが気が付くと一人練兵場に倒れ伏していた。他には誰もいない。戦士たちも衛兵たちも、ヴァシトラ姫も。
よろよろと立ち上がり、身の軽さに慄く。声にならない声が漏れ、衝動のままに地面を殴る。腰に佩いていた剣と背負っていた盾と革鎧が失われ、ずたずたになり、足跡のついた外衣が地面に落ちていた。
練兵場を出ると街は混乱状態だ。人々は行きかい、話し合い、噂が飛び交っている。最後に見た以外の刃傷沙汰は無かったようだが、怒鳴り声と悲鳴が失われたものの大きさを示している。
どうやら魔法使いマゴモナルという男が兵士たちを操り、王女ヴァシトラを攫ったのだそうだ。
王国の兵士としてたんまりお給金を貰うつもりでいたが王国はそれどころではなくなったようだ。とにかく仕事を探さなくてはならない。昨日の稼ぎは昨日使ってしまっていた。
「そこのお前。テナーロスとか言ったか。話がある」地の底から響くような声で呼びかけられ、振り返るも誰もいない。「吾輩はこっちだ」
裏路地の方から声が聞こえ、狭い路地に踏み入れたが、やはり誰の姿も見えない。
「こっちだ」
はっきりと声の聞こえた方は民家の壁だ。見覚えのある剣が立てかけられている。ヴァシトラ姫の使い込まれた剣だ。柄に妙な札が巻き付けられている。
「すわ! 剣が喋ってら! 自分に何か用か」
「剣ではない。吾輩の名は闘う者。この札をお前の体に貼ってくれ。誰にも聞かれずに会話ができる」
「一体何だってんだ」と言いながらもテナーロスは剣に貼られた札を剥がし、胸に貼りつける。ついでに剣も頂戴する。
「よし。お前に頼みがある」という声は頭の中から聞こえてきた。「おひい様を救い出してくれ。きっと礼はする」
「ヴァシトラ姫か? 礼には興味あるけどな。自分は千人斬りの御姫様を攫うような奴に敵うほどの豪傑じゃあねえのよ」
「それについては問題ないはずだ」とミルマーヒが答える。「魔術を思い浮かべてみろ」
「魔術う? 自分が知ってる魔術なんぞたかが知れて――」
なぜか知らないはずの魔術の知識がテナーロスの頭の中に溢れ返る。魔法の知識などほとんど知らなかったが、傭兵として戦ってきたテナーロスにも分かることはあった。どれもこれも闘いのための魔術だ。
「分かるか? 吾輩の力を駆使しても勝てそうにないか?」
テナーロスはしかしかぶりを振り、表通りを出、都市を囲む城壁の城門へ続く町筋をたどる。
「確かにこの魔術を使えれば千人力だが、それでも命懸けの戦いには違いねえだろう? たった一人で魔法使いの軍団を相手にするくらいなら、いつもの戦場で死体漁りでもしてた方が――」
テナーロスの目が奪われ、言葉が止まった。王女を裏切った兵士志望が我が物顔で歩いていることではない。その男がテナーロスの革鎧を身に纏っていることにだ。
「ふむ。お前の装備か」とミルマーヒがテナーロスの心の中で呟く。「しかし丸腰で挑むのはやめた方が良いのではないか?」
「は? 丸腰だと?」と疑問を呈し、剣を持ち上げる。
が、意思に反して再び剣を下げる。「これはおひい様の剣だ。お前に譲ったわけではない」
「けち臭いことを抜かすんじゃねえよ。ちょっと貸してくれ」
「奪われたものを取り返すために吾輩から、おひい様から奪うのか?」
「代わりにおひい様を助けろって? ……やめた。命を懸けるほどじゃあねえ」
剣を再び壁に立てかけようとするとミルマーヒが食い下がる。
「マゴモナルの根城に吾輩を連れて行くだけでいい。マゴモナルや支配下の戦士と戦う必要はない」
「どこにあるんだ? 根城ってのは」
「それを探すことも含めてだ」
「根城を見つけるまで、だ。自分は近づかない」
ミルマーヒは少しして決断する。
「分かった。それでいい」
後頭部を打たれた仕返しをしつつ、テナーロスは革鎧を取り戻す。そして城門へと急ぐがたどりつくと足が止まる。
「戦いは避けられねえじゃねえか」
城門は沢山の衛兵で固められていた。いかに武勇を誇るテナーロスでも一人では突破できない。
「我が力を使えば容易かろう」
テナーロスは覚悟を決めるように溜息をつく。「根城を見つけるまで、だからな!」
前哨戦はテナーロスとミルマーヒが勝利する。ただ一人剣を抜き放ったテナーロスは魔の力を肉体に充溢させ、使い込まれた剣は鋭さを増し、鎧もまるで堅牢な砦を身に着けたかのように頑健となった。
マゴモナルに従う衛兵たちは槍を振りかぶってテナーロスに飛び掛かるが、血と臓物を敷石に塗り付けることとなった。
一頭の馬を奪ったテナーロスはマゴモナルの去った方へ、首を向ける。そこには王の威光も届かない谷があり、以前から怪しげな輩の塒となっていたのだった。
起伏の多い土地までやってくると馬を下り、マゴモナルの手先に見つからないように谷の様子を探る。冬を迎え、シグニカからの北風吹く葉の落ちた土地で見咎められないよう、まるで地に伏せる獣のようにテナーロスは山と谷を駆け巡る。霜焼けも赤切れも構わず、身を震わせながらも小言一つ零さずに捜索する。
三日三晩をかけて、とうとうマゴモナルの根城らしき邪悪な塔を見つけた。悪心を象ったような歪な塔は昼日中にあっても山の陰に沈んでおり、怪しげな青白い鬼火を伴った幽鬼の如き衛兵が辺りを彷徨っている。
遠目に塔を見つめながらテナーロスは心中の魔性に尋ねる。
「マゴモナルって奴は何だってお姫様を攫ったんだ? 身代金の要求はなかったのか?」
戦場で貴い生まれの将が攫われたならばそういうことだ。
「さあな。碌な理由ではなかろうよ」とミルマーヒは吐き捨てる。
テナーロスは魂を吐き出すかのように濃い白い息を一息に吐き出す。
「ともかく約束はここまでだ。後は頑張ってくれ」
「本当に助かった。これほど献身的に働いてくれるとは思わなんだ。どうしてそこまでしてくれたんだ?」
「あんたがさせたんだろうよ。やると言ったことをやって報酬を貰う。それだけだ」
「存外律儀な男だな。吾輩を捨てていくことも出来ただろう」
「自分は略奪者じゃあねえのさ」
「ありがとう。約束通り、この剣は褒美に受け取ってくれ。見る者が見れば同じ重さの金になるだろう。できるだけ常識を知る魔法使いを探すことだ」
「いや、待て。それじゃあ釣り合わねえよ」
「そうなのか? すまんな。傭兵の相場はよく知らぬ。足りぬ分はことが終わるまでつけておいてくれ」
テナーロスは不機嫌そうに首を横に振る。
「いや、十分過ぎるって話だ。釣りはねえ」
「貰っておけば良いものを。やはり律儀なことだ」ミルマーヒは低い声で跳ねるように笑う。「それで命を懸けるに足るか?」
「まあ、な。……いや、それは相手次第だ。邪悪な魔法使いとなんて戦ったことがない」
「ならばおひい様を助け出し、直接交渉してくれ。吾輩が正確にお前の働きを報告しよう。なんとなれば親衛兵に召し立てられてもおかしくはなかろう」
結局ミルマーヒの最初の要求が戻って来た。もうここまで来てしまい、王女様はすぐそこだ。不気味な魔法使いを相手することには不安があるが、その分、宵越せど使いきれないほどの褒美を要求しても罰は当たらないはずだ。親衛兵についてはさておくことにする。
幽鬼の衛兵の視界を掻い潜るのは容易かった。規律というものが皆無だからだ。山賊の方がまだ上手く見張りをやる。
身を隠す魔術などは分からなかったのでテナーロスは自ら身に着けた手練手管で塔へと侵入する。多くの戦場を渡り歩くと器用な小手先の技術をいくつか覚えることになるものだ。歪な塔は外壁を登るのも易しかった。ミルマーヒの提案した攻城戦に使われる魔術を使うまでもなかった。
塔の内部へ入るとやはり幽鬼が彷徨っている。それぞれの足に別の思惑があるかのような不確かな足取りだ。青白い肌の衛兵たちは死の瞬間までテナーロスの姿を見ることなく、声も上げずにヴァシトラ姫の美剣に倒れていく。首を斬り落とされ、赤黒い血と支配の呪いを噴き出すがテナーロスはいささかも浴びることなく塔を駆け上がる。この塔に傭兵上がりの若者を止められる者はいなかった。
一つ一つの部屋を覗き込み、とうとうヴァシトラの姿を見つけるとテナーロスは躊躇いなく扉を蹴破る。
冷めた皿と干からびた果物の並ぶ食卓。火の消えた燭台と暖炉。薄汚れた絨毯に黴の生えた壁。囚人とはいえ王女に対してそれなりの待遇ではあったらしいが、やはり広いだけの牢獄のようでもある。ヴァシトラ姫は壁の窪みの寝台に眠っていた。
札の魔性のミルマーヒが勝手にテナーロスの体を動かしておひい様の元へ急行し、御身の無事を確かめる。
生きてはいるが、酷い有様だった。どうやら何度も鞭を貰ったらしい。血の滲んだ惨たらしい痣が服を汚している。テナーロスの気配に気づいたヴァシトラがかそやかに目を開き、優美な花を見止めたかのように微笑む。
「ああ、其方は何時ぞやの。此方を助けに参られたのか?」
「ええ。交渉相手が無事でよか――」とテナーロスは言いかけて、ミルマーヒに言葉を奪われる。「ご無事ですか!? おひい様! ミルマーヒが参りましたぞ!」
「ミルマーヒ。来てしまったか。頼む。飛び入り参加の其方よ。此方のことは良い。疾く立ち去れ。そしてミルマーヒを奪われれば、民にとってこれほどの不幸は……」
ヴァシトラの言葉が途切れ、ミルマーヒが縋り付くようにして嘆く。
「嗚呼! ヴァシトラ様! マゴモナルめ! よくも我が君に!」
わなわなと宿主の体を震わせているミルマーヒのことは無視して、テナーロスは素早くヴァシトラの脈と呼吸を確かめる。
「落ち着け。王女様は生きてる。それより民思いのおひい様は疾く去ることを御所望だろ。急ごうぜ」
軽口のように言ったテナーロスだったが、少なからずヴァシトラの慈悲に感動していた。戦場にそんなものはなかったからだ。
「そこまでだ。闖入者よ」
テナーロスはヴァシトラを寝台にそのままにし、剣を抜いて振り返る。
痩せた小男が部屋の入り口で蹴破られた扉を黄色く濁った眼で無感情に見下ろしている。魔法使いマゴモナルだ。幽鬼にも劣らない青白い肌。冬籠り前の獣のように伸びた髪。首には無数の護符を下げ、土色の長衣は引きずられ過ぎてぼろぼろだ。
次々に幽鬼の如き衛兵が部屋に飛び込み、問答無用で襲い掛かってくる。しかしテナーロスは訳もなくやつれた兵士たちのくすんだ膚を切り裂き、腑を貫く。世の兵の誰もが身に着けるべき戦闘の魔術を使いこなせば、まるで子供の相手をしているかのように手応えがない。
テナーロスはマゴモナルに切っ先を向ける。
「人手が足りないんじゃあねえか? 金払いが悪い奴には誰もついてこねえぜ?」
「雑魚の群れなぞ無意味だな」と呟くマゴモナルは一枚の札をつまんで見つめていた。
「あ! てめえ! いつの間に!」
「いきがるな、若造め。貴様の振るった力はどれもこれも俺様が編み出した魔術だ。この盗人の魔性に奪われた地位は返してもらう」
マゴモナルは己の懐に仕舞い込むようにミルマーヒの札を貼りつける。
「なるほどなあ」さらにマゴモナルは感心したように呟く。「あらゆる戦闘の魔術を学ぶことなく、習うことなく、他者から掠め取って使えるというわけか。どう思う? 若造。卑しいとは思わないか? 浅ましい存在だとは思わないか?」
魔術のことはほとんど分からないテナーロスだが、何となく事情は察した。
「どの口が言ってんだあ? お前の奪ったものは返せるのかよ!? 俺が代わって鞭の痛みを清算してやる!」
テナーロスが刃を閃かせ、マゴモナルに躍りかかる。マゴモナルもまた剣を抜いて迎え撃つ。テナーロスはミルマーヒから借りていた魔術を今や何一つ使えなかった。複雑怪奇な神秘の術は一朝一夕に身に着けられるものではないのだ。一方でマゴモナルは古今東西の戦士たちが戦場で英雄に成るに至った無数の魔術を使いこなす。剣の切っ先は測ったように正確に突き出され、まるで風に揺れる葦の如くテナーロスの刃をかわす。受け止めた一撃は軽い一押しで跳ね返し、身の丈を越える跳躍で相手を翻弄する。
しかしそれでもこの戦いはテナーロスが優勢だった。テナーロスの野蛮な剣はマゴモナルが魔術と共に紡ぎ出す洗練された剣を圧倒する。
「くそ! なぜだ!」マゴモナルは嘆きつつ、徐々に退く。
「何故も何もねえ。しっかり剣を握る魔術はねえのか? 重心を下げる魔術は? 戦士を英雄にする魔術は素人を戦士にする魔術じゃあねえようだ」
剣を押し込み、覚束ない細い足を蹴り払うと、とうとうマゴモナルの剣は弾き飛ばされ、邪な魔法使いは尻を打つ。とどめとばかりにテナーロスが剣を振り上げる。
が、「待て! 殺さずとも良い」とヴァシトラ姫に制止される。
テナーロスは何とか振り下ろさずに済んだ切っ先をマゴモナルの細い首に添えて言う。「何故です? こいつを征伐するために人を集めたんでしょう?」
「いや、優秀な魔法使いを無駄死にさせるつもりなどない。不平があるならばいくらでも聞こう」
「おひい様。あんたは立派ですが、こいつはそうじゃねえんですよ。復讐心にせよ、逆恨みにせよ。やり過ぎた。慈悲で変わらねえ奴もいるんですぜ? せめて鞭の痛みは返さなきゃなあ」
刃をマゴモナルの青白い膚にそっと沿わせると、鮮血が静かに滲む。
「其方に言っただろう。此方は民を案じるばかりだ。此方に従えぬからといって殺す道理はない。捕縛し、ミルマーヒを取り戻して帰還しようぞ」
テナーロスはふっと笑みを浮かべる。
「まあ、おひい様がそう言うなら自分は従うだけです。……ってわけだ。ここのところは命拾いしたな。魔法使い。さあ、ミルマーヒを返してくれ」
マゴモナルは這うように退く。
「嫌だ。これは俺様のものだ」
「往生際が悪いぜ。大人しく慈悲を賜えよ。魔法使いなら魔法使いの仕事をすればいいじゃねえか。戦士の魔術を使うのではなく、作る側だったんだろう?」
「おい! ミルマーヒ! 何とかしろ!」とマゴモナルは乞うように叫ぶ。「それは命令か?」とマゴモナルは問う。「そうだ! 何としてでもこいつらを殺せ!」「痛いぞ?」「早くしろ!」
マゴモナルの肉体がみるみる変容する。舶刀の如き鋭利な角が額から生える。肘から先が三本ずつに枝分かれし、それぞれの手にもまた虚空から現れた剣を握った、甲虫の如く皮膚が硬質化し、体躯は二倍に膨れ上がる。苦痛に呻くマゴモナルはそれでも何とか意識を保ち、涙を流しながらテナーロスをねめつけた。
「悪いが王女様」テナーロスはヴァシトラの前に立ちはだかって断言する。「手加減して死ぬつもりはありませんぜ」
「致し方なし」
一振りで放たれる三つの剣筋を受け止められるはずもなく、テナーロスは死に物狂いでかわして退く。ミルマーヒの力を借りたマゴモナルの一撃は床を抉り、壁を切り裂いた。態勢を立て直す暇もなく新たな剣が振り下ろされる。とても常人の敵う相手ではない。柱が断ち折られ、天井が崩れる。
「おいおい。住処が崩壊するぞ」というテナーロスの忠告など聞こえないかのようにマゴモナルは連撃を止めない。
「今度はお前たちが慈悲を乞うてはどうだ?」とマゴモナルは苦しそうに勧める。
「慈悲じゃあ腹は膨れねえんでな」
マゴモナルは醜い笑みを浮かべ、見透かしたような眼でテナーロスを見る。
「お前のような欲深い奴は過去に、奪われた者だ。そうだろう? 俺様の苦しみを嘆きを分かるだろう?」
テナーロスは二度、三度と邪な剣をかわしながらヴァシトラを階下へ続く階段の方へと誘導する。
「ああ、よく分かるぜ。いくら稼いでも失ったものは取り戻せない」テナーロスの告白に、マゴモナルの不気味な笑い声が重なり、しかしテナーロスの叫びが掻き消す。「だが一緒にすんじゃねえ! 自分は誰かから奪ったことなんざねえんだよ!」
テナーロスは横ざまに剣を振るが、マゴモナルの堅い皮膚を打ち付けただけだった。しかし狙いは確かだとでもいうようにマゴモナルの胸の表面を擦るようにして振り抜く。ミルマーヒの札を剥がすと同時にマゴモナルの半身を切り裂いた。マゴモナルの体は縮み、血溜まりに斃れた。
テナーロスは剣にくっついた札をヴァシトラ姫に手渡す。ヴァシトラ姫は五芒星の札を手の甲に貼りつける。表には剣を構える甲虫が描かれていた。
途端にヴァシトラは階段を駆け下り、そしてその麗しい声でミルマーヒが怒鳴る。「何をしておるテナーロス! 塔が崩れるぞ!」
「何てことしてくれたんだよ!」と叫びながらテナーロスも後を追う。
「仕方なかろう! 命令には逆らえんのだ!」
何とか脱出した二人と一枚は遠目に崩れ行く塔を眺めた。静けさに満ちていた谷に激しい崩落音が轟き渡り、濛々と土埃が立つ。
「あーあ。マゴモナルが」テナーロスはヴァシトラの顔を窺う。「慈悲が無駄になっちまいましたね」
ヴァシトラが不思議そうにテナーロスを見つめる。
「てっきり斬り殺したものかと思っていたが」
「取引材料になるかと思ったんですがね。ああ残念」
「おひい様」とヴァシトラの口でミルマーヒが話す。「テナーロスの働きは目を見張るものでございました。相応の思し召しをば頂戴致したく存じます」ヴァシトラが同じ唇を開いて応じる。「心得ておる。テナーロス、まだ兵士になりたいと思っているか?」
「ええ、もちろん」テナーロスはにやりと笑みを浮かべる。「人手不足でしょうしね」
「其方、此方等の足元を見る気だな?」そう言ってヴァシトラは微笑みを浮かべる。