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──夏休みに入っても、私はなんとなく学校へ足を運んでいた。
静まり返った校舎は、まるで別の場所みたいで、
蝉の声が、ガラス越しに遠く響いていた。
図書室の扉を開けると、冷房の涼しい空気と紙の匂いが混ざって流れてくる。窓際の席には、やっぱり先輩がいた。
白いシャツの袖をまくって、ペンを指でくるくる回している。
「お、紬」
「……こんにちは」
「やっぱ来たな。今日も読書?」
「先輩こそ、補習もう終わったんじゃないんですか?」
「午前で終わった。けど、ここ来る方が落ち着くんだよ」
その言葉が、心にじんと染みた。
ページをめくる音と、時計の針の音だけが響く午後。
二人ともほとんど喋らないのに、静けさが逆に心地いい。
ふと、先輩がペンを置いた。
「そういえばさ、今日、駅前で夏祭りあるの知ってる?」
「……夏祭り?」
「うん。毎年ちっちゃい神社のとこでやってるやつ。 去年、友達と行ったけどけっこう人多くてさ」
彼は少し笑って、窓の外を見た。
「……行く?一緒に」
「え?」
「紬、どうせ予定ないだろ」
「ひどい言い方ですね」
「でも図星でしょ」
図星だ。
言い返せなくて、笑ってしまった。
「行きます。……行きたいです」
「よし。じゃあ夕方、駅のとこ集合な」
放課後の約束なんて久しぶりだった。
外は真夏の光で、地面が白く光っている。
制服の袖からのぞく手首に、汗がにじんだ。
夕方。
約束の時間。
駅前のロータリーは、浴衣姿の人たちと、屋台の匂いで賑やかだった。
何年ぶりかに出した浴衣を着て、そわそわして待っていた。
「紬」
呼ばれて振り向くと、水森先輩が手を振っていた。
紺色の浴衣。 首に掛かったタオルも彼らしい。
制服じゃない彼を初めて見た。
少し日焼けしてて、笑う顔がいつもよりずっと近く感じた。
「似合ってますね」
「え、どっち?タオル?」
「浴衣です」
「ありがと。紬も…浴衣、なんか新鮮だな。いつもより大人っぽい」
人の波の中で、顔が熱くなった。
花火の音が、遠くで小さく鳴りはじめていた。
あの静かな図書室から、 たった少し場所が変わっただけで 世界はこんなにもまぶしく見える。
その夜、ふたりの影は夏の光と音の中に溶けていった。