テラーノベル
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五時に、店の前に黒い車が来ていた。宇野の車。頼んでいない。「専務のお言いつけです」と宇野は言って、荷台を開けた。ことはは、断る時間がなかった。餡の桶と、餅と、父の木箱を積んで、源さんが助手席に乗った。店は、母が六時半に開ける。店の分は、昨夜のうちに作ってある。
五時半、本店の搬入口。
警備の男が、紙を見て、ことはを見て、もう一度紙を見た。
「柊屋さん。催事部から、書類が足りないと連絡が来ています。衛生の確認書の原本が」
「出しました。先週、催事部に。これが控えです。受付の印があります」
ことはは控えを差し出した。警備の男は、受け取って、見て、首を振った。
「控えでは。原本の確認が取れるまで、搬入はお待ちいただくように、と」
後ろで、宇野の車が待っている。源さんが、助手席で腕を組んでいた。
ことはは、搬入口の壁の時計を見た。五時三十五分。開店は十時。並べて、支度をして、餅を切って、一時間半はかかる。八時までに入れなければ、初日の朝は間に合わない。
「蓮田さんは」
「催事部の蓮田さんですね。いま、呼んでいます」
蓮田は、五分で来た。青い顔で、鞄を抱えて、警備の男とことはの間に立った。
「すみません。あの、課長が」
「原本は、催事部にあるはずです。蓮田さんも、受け取ったと言っていました」
「はい。でも、課長が、保管の棚にないと。僕が探しても、ないんです。昨日の夜、確かにあったのに」
ことはは、蓮田の顔を見た。嘘を言っていない顔だった。
「蓮田さんは、どうすればいいと思いますか」
蓮田は、鞄を握った。
「……課長に、もう一度」
「課長は、今、どこに」
「九時に、出てこられます」
九時。並べる時間がなくなる。
「蓮田さん。催事部の、受付の記録はありますか。書類を受け取ったときの、受付の帳簿」
「あります。でも、それは催事部の中に」
「見てきてください。受理が載っていれば、原本の代わりになるかどうか、警備の方に聞きます」
蓮田は、はい、と言って走って行った。警備の男は、ことはを見ていた。
「奥さん。悪いけど、受付の記録じゃ、たぶん」
「分かっています」
五時五十分。源さんが車を降りてきて、ことはの横に立った。何も言わなかった。言わないで立っていた。それで、ことはは少し息ができた。
そのとき、思い出した。
十月の朝、店先で宇野が言ったこと。出店に関わる書類は、秘書室でも写しを取らせていただきます。催事部に出されたものも。
ことはは、車を振り返った。運転席に、宇野がいた。
「宇野さん」
声が、出た。
「秘書室に、うちの書類の写しがあると言いましたね。催事部に出した、確認書の」
宇野は、一拍置いた。
「ございます」
「それを、ここに」
宇野は、何も言わずに車を降りた。降りて、搬入口の奥へ、歩いて行った。
◇
六時。
宇野が、戻ってきた。手に、封筒を一つ。
「警備の方。こちらを」
警備の男が封筒を開けた。
中を見て、顔を上げた。
「……催事部の受領の記録の写しに、秘書室の証明。専務の秘書室の。これなら」
「専務から、です」
宇野は、ことはのほうを見ずに言った。
「柊屋の出店に関わる書類は、専務の指示で、秘書室に写しを取ってあります。催事部に原本がなくても、こちらで証明できます」
警備の男は、紙を見て、頑いた。
「搬入、どうぞ」
ことはは、宇野を見た。宇野は、頭を下げた。
「奥様。搬入をお急ぎください」
「……宇野さん。専務から、ですか。写しを取ったのは」
「専務から、です。――取りに行かせたのは、奥様です」
前は、私の判断だと言った。今日は、専務からだと言い、取りに行かせたのはことはだと言う。どれが本当なのか、ことはには分からなかった。全部、本当なのかもしれなかった。分からないまま、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼は、専務に」
宇野はそれだけ言って、車のほうへ戻った。
蓮田が、走って戻ってきた。受付の帳簿を抱えている。搬入口の様子を見て、立ち止まって、何が起きたのかを察した顔をした。それから、ことはに、頭を下げた。
「……すみません」
「蓮田さんは、探してくれました」
「でも」
「行きましょう。並べなきゃ」
ことはは、父の木箱を抱えた。重い。源さんが餡の桶を抱えた。二人で、搬入口の中に入った。
◇
催事場は、本店の最上階だった。
二十の店の台が、通路の両側に並んでいる。入口に近いほど、人の目に触れる。奥へ行くほど、静かになる。
柊屋の台は、一番奥だった。
太い柱の、裏側。入口から見ると、柱に隠れて、台の端しか見えない。隣はトイレの入口。向かいは、壁。
「ここか」
源さんが、台を見て、言う。それだけだ。
ことはは、台に布を敷き、藍色の紙を重ねて、木箱と餡の桶を置いた。店で搬いてきた餅を、布に包んで置く。
十時、開店。
入口のほうで、人の声がした。老舗の台の前に、人が集まる音。笑い声。箱を包む音。
柱の裏には、誰も来なかった。
十時半。トイレに行く人が、二人、通った。台を見て、通り過ぎた。
ことはは、手に水をつけた。
餅を千切った。餡を取った。包んだ。
白い餅が、指の間で丸くなる。豆の黒が透けて、餡が消える。一つ包んで、紙の上に置いた。二つ目を包んだ。
「あら」
声がした。
ことはは手を止めずに、顔を上げた。トイレに行こうとしたらしい年配の女が、台の前で止まっていた。黒い髪を結って、着物。帯に、小さな鈴の根付。
「それ、何してるの」
「豆大福を、包んでいます。餅は今朝、店で搬いたものです」
「見てていい?」
「どうぞ」
女は、立ったまま、ことはの手を見ていた。三つ目。四つ目。
「……柊屋?」
台の上の紙を見て、女が言った。
「柳町の、柊屋さん?」
「はい」
「まあ」
女は、鈴を鳴らして、一歩近づいた。
「わたし、昔、会長とよく行ったのよ。あの小さいお店。もう何十年も前。まだあったのねえ」
会長。氷川宗一郎。
「今も、あります。柳町で」
「十個、ください」
ことはは、手を止めた。
「……十個、ですか」
「いま包んだのを。それと、あと六つ。孫に持たせるの」
ことはは、包んだ。女は、立って見ていた。隣で、源さんが箱を組んだ。
女が帯から財布を出して、払っている間に、トイレから出てきた人が、二人、台の前で止まった。
「何、これ」
「柊屋さんの豆大福よ。会長がお好きだったの」
女が、勝手に答えた。二人は、台の上の、いま包んだ豆大福を見た。
「……一つ」
「わたしも、二つ」
ことはは、包んだ。
十一時。台の前に、五人いた。
十一時半。十人。並ぶ、というほどの数ではなかった。けれど、途切れなかった。トイレに行く人が止まり、止まった人を見て通路の人が奥まで来た。
ことはの手は、止まらなかった。源さんが、餡を切る。ことはが、包む。母がいないので、源さんが箱も組む。二人の手が、ずっと動いていた。
「ことは」
源さんが、小さく言った。
「後ろ」
ことはは、顔を上げた。
通路の向こうから、ヒールの音が来ていた。
麗華だった。
その隣に、白髪の男が歩いている。黒いスーツ。笑っていない。氷川博正。氷川の社長が、催事場を見に来ていた。
麗華は、何か話しながら、博正を入口のほうの老舗の台へ案内しようとしている。博正は、聞いていない。
博正の足が、柱の手前で、止まる。
柱の裏の、人の輪を、見る。
輪の中の、ことはの手を、見る。
博正は、麗華を置いて、歩いてきた。人の輪が、割れる。博正は、柊屋の台の前で、止まった。
ことはは、餅を持った手を、下ろせない。
コメント
1件
うわ、第11話めちゃくちゃ良かった……! まず書類トラブルのとこ、宇野さんが専務の指示って言いながらことはさんに判断を委ねてる感じがもう、人間関係の奥行きすごい。そして催事場の一番奥、柱の裏っていう立地、タイトル回収も含めて泣ける。最初誰も来なくて、それでもことはさんが黙って包み続ける静かな強さが刺さったよ……。最後の博正登場の空気、やばかった。続き早く読みたい🔥
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