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Side 緑
『数年前に、車で事故に遭ったんです』
俺は単刀直入にいった。テーブルに置いたスマホに書き込まれた文を読んだ彼は、わずかに驚いた顔を見せる。
それを手に取って、一行開けてまた入力する。
『脳に損傷を受けて、ブローカー失語っていう失語症になって。喋れないなんて嫌だし、苦しかった。だからリハビリも頑張ったんですけど、単語がちょっと言えるくらいで』
俺はそこで手を止めた。考えてから、また打ち込む。
『口で話せないなら、ほかの方法で話そうと思って手話サークルに通い始めたんです。でも、周りはほとんど聞こえない人か喋れる人で。俺は蚊帳の外みたいで、すぐ無理だなって』
ふと彼を見ると、すごく沈痛な表情をしていた。耳の不自由な彼に向かって言うべきではないかもと思ったけど、聞いてほしかった。誰かにわかってほしかった。
『だけど、今はスマホがあってすごいありがたいなって。俺、打つのと読むのならできるから便利なんです。それでも、大学とか街でふつうに話してる人見ると羨ましくなっちゃう』
『わかります』
ちょっとの後、そんな言葉が返ってきた。
『ほんとわかります。スマホって俺らにとっても便利なんですよ。文でやりとりできるし』
彼は嬉しそうに笑う。
『俺は生まれたときから耳が聞こえないけど、話すのってどんなのだろうなとか、音楽ってどんなんだろうってたまに思います。でも文字があってありがたい』
確かに、と俺もうなずく。きっとこういうふうに明るく考えてたら、話すことなんてちっぽけなことに思えてくるかもしれない。
『そうだ。俺、手話教えましょうか?』
俺は瞬きをして彼の顔を見つめる。
『お話したいんです』
そういった彼は、どことなく寂しそうで、でも少年のような楽しげな目をしていた。
じゃあ、と俺は心の中で言って、窓の外に目をやる。この季節の青葉雨が、降り注いでた。
『雨ってどうやるんですか?』
彼はスマホをテーブルに置き、両手の指先を下にして上下に小さく振る。
なるほど、とうなずいてやってみる。雨が降っている様子を表してるってことか。
今度は彼がメモに書く。
『雨の音ってどんなのですか』
俺はしばし固まってしまった。そうか、俺たちには当たり前に聞こえている自然の音も、知らない人だっているんだ。
また外に視線を向ける。ガラスに打ちつける雨が、筋を残して落ちた。
『弱いときにはパラパラとか、ぴちゃぴちゃとか、強く降ってるときにはザーザーとか。色々あるんですよ。
強いときは不安にもなるし、弱いときは落ち着く音なんです。音と気持ちが連動するっていうか』
彼は眉を上げた。面白そうに口角が動く。
『雨を表す熟語もいっぱいありますしね。俺、日本語が好きなんです』
それには、言葉で返さなかった。ただ笑って首を縦に動かす。それだけで十分だった。
すると、彼がふと壁を見上げた。その先にはアナログ時計が掛けてある。
彼は自身の手首を人差し指で叩き、ドアのほうを指さす。何か用事を思い出したのだろうか。
『彼女を迎えに行かなきゃなんなくて』
ああ、と微笑みが漏れた。それなら遅刻はいけない。
コーヒーを飲み干し、立ち上がってリュックを背負う。会釈して背中を向けようとした彼の肩に触れる。
振り返った彼に、急いで入力してスマホの画面を見せた。
『またここで会えたら、手話教えてほしいです。お名前だけ訊いていいですか』
彼はにこりと笑って、両手の3本指を組み合せる。それから2本指と人差し指でも何かの形を作り、右手で連続して文字を示した。
何をいってるかはわかんなかったけど、最後のが指文字っていうことはわかる。一瞬だけ通ったサークルで、最初に習ったからだ。あれは日本語で言う平がなのこと。一音を片手で表現する。
『田中じゅりです。あなたは?』
じゅりさんって言うんだ。いい響きだな、と思う。
『森本慎太郎です』
俺は答えた。
『じゃあ、名前の手話はまた今度教えようかな』
そんなことを茶目っ気のある笑顔でいい、手を振って出て行く。
俺も残っていたコーヒーを飲みきって席を立つ。
「ごちそうさまでした」と伝える代わりに、店員さんに会釈をする。
外はまだ雨。天気予報のアプリを見てみれば、夕方にはこの雨雲は流れていくようだ。
田中さんも、雨音を想像できているだろうか。
そんなことを考えていると、にわかに傘にぶつかって跳ねる雫の音がメロディーのように聴こえてきた。