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永智 恵それは僕が愛している男の名前である。
「……伊桜? ぼーっとしてどうしたんだよ」
そう言って、彼は僕の手をぎゅっと握ってきた。きちんと聞けよ、とでも言いたげな態度。その不器用な甘え方に、思わず胸の底が熱くなる。
「なんでもないよ、ただ愛しいなぁって思って」
「なっ!? 急にそんなこと言うなよ……」
握っていた手を、弱めに叩かれる。照れやすいところも可愛い。木の枝に遮られ、顔が見えなくなる一瞬の寂しさでさえ愛しいのだ。
「ふふっ、ごめんね」
僕が謝れば、彼は少し経ったあとに手を握り返してくれた。これは彼なりの『いいよ』のサインなのだろう。器用な上に要領がいい彼は、基本的に何でも一週間ほどで身につけてしまう。それなのに、付き合って何ヶ月も経つというのに、甘え方だけが未だに不器用だ。
「なぁ、その……唇が寂しいんだけど」
唐突な言葉に、思わず驚いてしまった。気付かないふりをしようか、それともこのまま素直にキスをしてしまおうか。そう悩んでいたら、彼は僕のネクタイを強引に引っ張ってきた。そして僕の唇に親指を置き、顔を赤らめて目を逸らしてしまう。強引に行動したくせに、恥じらうなんて。その矛盾さえも愛おしい。
「仕方ないなぁ、恵は」
僕がそう言って親指を剥がし、その手を握る。そしてまつ毛が触れ合う距離まで顔を近づけた。先程までの照れはどこへ行ったのか、彼は息を奪うように深く、熱く求めてくる。
呼吸が絡まり、思考がゆっくり溶けていく。足元が頼りなくなり、彼の腕に体重を預けるしかなくなった。けれど、彼を支えるその腕も少し震えていて、どこか頼りないようにも感じる。そんな所も愛おしい。
「……ごめん、がっつきすぎたわ。立てるか?」
彼が優しく手を差し伸べてくる。木漏れ日を背景にしているとは思えないほど、彼の瞳は不気味で、それでいて美しい。人の目が光るはずもないのに、宝石のように輝いていて、猫のように僕を惹きつける。その顔に見惚れるなんて言葉じゃ足りないくらい、彼の瞳は世界の輪郭をぼかしていた。
「愛してるよ、恵」
差し出された手を取らずに僕がそう言ったものだから、彼は「馬鹿」とだけ返してきた。その顔が少し赤かったかどうか、逆光で見えなかったけれど。
「……さっさと立てよ、君のお屋敷の人間にバレないように忍び込むのが難しくなるだろ」
「……へ?」
彼が言った言葉の意図が、一瞬理解できなかった。それはつまり、お泊まりということなのだろうか。それとも、ただ単に僕を困惑させたくて言っただけなのか、判断ができない。
「なんで君は何も理解しないんだ。……それとも、俺を困らせたくてわざとそうしてるのか?」
ため息をついて呆れたように言うが、その表情は穏やかだ。
「いや……唐突すぎて理解できないだけだよ。困らせたい訳じゃない。いや! たしかに困ってる恵も可愛いけど!」
しまった。慌てて本音が漏れてしまった。
「……君は本当に仕方のないやつだな。まあいいけどさ」
そう言って、未だ立ち上がっていなかった僕の腕を彼が引っ張り、強引に立ち上がらせる。
「そうやって言うなら、すぐに触れる距離にいろよ。……寂しいんだよ」
珍しく照れ隠しもなしで彼が言うものだから、僕はまた固まってしまった。暫くしてから彼は自分が何を言ったか気づいたのか、誤魔化すように僕の背中を叩いてきた。普段あんなに明るく人と接しているのに、僕の前では口下手なんて。自分だけが特別扱いされている、そんな錯覚に陥ってしまう。
「ふふっ、恵は可愛いなあ」
「何回もしつこいんだよ、言われなくても伝わってるって! 君は俺を見るときどんな顔してるのか自覚した方がいいんじゃないのか?」
一度恥ずかしいことを言ってしまえば、羞恥心が消え去るのか。彼は勢いよく畳み掛けてくる。言われなくても、自分がどんな顔をしているのかなんて分かっているのに。
「知ってるよ。僕はずっと『恵大好き』って顔してるでしょ。恵も僕のこと大好きって顔してるから、お揃いだね」
僕がそう言った瞬間、彼は先程までのどこか余裕そうな顔を崩し、固まってしまった。
「……うるせぇ、ばか」
小さくそう聞こえてきた気がするが、僕はわざと聞こえないフリをした。ここで照れ隠しを受け入れてしまえば、彼はきっと別の話題に逃げてしまう。けれど、僕はまだ可愛い彼を見ていたいのだ。
「お前が笑いかけてくるとき、瞳が青い炎みたいに熱を持ってるよ。もしかして自覚してなかった? ふふっ、可愛いね」
「……一回黙れよ」
そう言って彼は目を逸らした。彼の余裕の無さそうな表情を見て、さすがに今回は見逃してあげよう。そう考えていたら、頬に柔らかいものが当たったような感覚がした。
「本当に黙るなって……照れ隠しなんだ、だから……その」
「…………好き」
今まで辞書を引いて言葉を調べていたのが嘘のように、僕の語彙はそれしかなくなってしまった。目の前の彼が、ただただ愛しい。
「はぁ? 君は本当……そんなこと知ってるよ。俺が受け入れるのが遅くなっただけ。君は幼稚園の頃から俺に惚れてたもんな」
「なっ!? なんで、なんでそれを……」
きっとバレていない、普通の友人と同じように振る舞えている。そう確信していたのに。
「さっき言っただろ。俺のこと見てる時どんな顔してるのか自覚した方がいいって」
「僕が一目惚れしたの、バレてたんだ……」
そう、僕たちの始まりは僕の一目惚れだった。毎日勉強ばかりで、退屈な日常。それが、彼を見てから輝き始めた。二階堂家の人間としての圧力に押し潰されそうになっても、幼稚園で避けられていたことも、彼を見れば平気だと思えたのだ。
「わかるよ、君は今も昔もわかりやすいし」
過去の嫌なことなど全て忘れたかのような、眩しい笑顔。あんなに残酷な現実を見てきたのに。何度も僕たちの絆は引き裂かれそうになったのに。どうしてそんな顔ができるのだろう。いや、そんな顔ができる彼と僕だからこそ、過酷な現実を前にすると、より一層惹かれ合うのかもしれない。
「……わかりやすいのは俺もかもだけどな。前は作り笑いも全部見抜かれてたし」
「恵は殴られるたびに下手くそな作り笑いをして、そのたびに僕が手当てしてたもんね。ねぇ、いつものやつ、いい?」
僕が問いかけると、彼は「なんでわざわざ聞くんだよ」とでも言いたげな顔をした。だから、僕はその沈黙に甘えて彼の手の甲にキスをした。
「僕、今すごく幸せだよ。恵が愛おしくて、どんなに辛い道を進むことになっても頑張れそうだもん」
僕がそう言えば、恵は少し照れたように僕のことを小突いてきた。
「何馬鹿なこと言ってんだ。俺が君を支えるから、辛い道なんてこの先にはきっとないよ」
恵の力強い言葉に、僕も思わず笑みがこぼれる。
「……恵、そうだね。お前がいるならきっと、辛いことなんてないや。だって、地獄でも一緒なら悪くないし」
僕の言葉がおかしかったのか、彼は突然、声を上げて笑い始めた。
「なんだよ君、俺のこと大好きかよ」
「大好きに決まってるでしょ。愛してるよ、大好きだよ。幼稚園の頃から思いを膨らませてたんだから」
幼稚園からの恋だからこそ、諦めようと何度も思った。けれど、彼のことを諦めるなんて、僕には出来なかった。彼は怒ると正論をぶつけてくる。他の人なら鬱陶しくてたまらないが、彼からだと嫌な気はしない。むしろ愛が増してしまう。きっと、出会った時から彼を手放すなんて、そんな選択肢はなかったのだ。
「そりゃそうだな、幼稚園の頃に花で作った指輪だったのが、今じゃダイヤの指輪だもんな」
「お揃いが欲しかったんだよ、君の姿が見れなくても、君がそばにいるって思いたかったんだ」
そう弱音を吐けば、彼は昔のように僕の頭を撫でてきた。僕はもう17だぞ。そう言いたかったが、彼の慈愛に満ちた瞳を見ていると、そんな言葉は喉の奥に消えてしまった。
「呼んでくれたらいつでも行くのに、君は本当に寂しがり屋だな」
「恵限定だよ、他の人なんてどうでもいい」
「知ってる。俺と他の奴じゃ明らかに態度違うし」
木の枝が風に揺れて、再び彼を隠した。今回も愛おしい。きっと、これからも愛おしいままだろう。僕はわがままだから、彼の姿が見えなくなったら彼の指先をこれからも求めてしまう。これからもその度に応じてくれるであろうお前を愛してるよ。恵。