コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「夢日記……」普通の日記とは違うようだ。
これまで触れてきた日記は、どれも分厚いものばかりだった。
けれど、この本は私の手の中にぴったりと収まる。
何かの縁があるのかもしれない。
ページめくると、どこか見覚えのある字が並んでいた。
まるで自分が書いたような錯覚を受ける。
けれど、だからといって本が読めるわけではなかった。
題名以外の文字は記号そのものだ。
「何か良い本でも見つけましたか?」
いつの間にかこちらに振り返っているキリンさん。
「気になる本!でも、難しく読めないの」
キリンさんは私の側へ歩いてくる。
「夢日記ですか」
「知ってるの?」
「はい、人が自分の夢を記憶しておくために書かれたものです」
「それは、何のために覚えておくの?」
「そうですね、例えば夢の続き、予知夢を見たいためですかね。明晰夢と言われるものも見やすくなると聞いたことがあります」
「めいせきむ?」
キリンさんは、眼鏡をかけ直す。
「明晰夢とは、思い描いたとおりに夢が進んで行くこと。夢を見ている際に自覚できる夢のことを言います」
「おおぉ!」
机に積み重なる本のタワーを背にしているキリンさんが様になっている。
「キリンさん、詳しいね!すごいや!」
「ふふ、何故こんなことを知っているのか。私自身もよく分かりませんけどね」
そう言うと、キリンさんは机へと戻り、書き物を再開していた。
私はキリンさんからの知識を受け、頭が良くなった自分で、再び本に目を通してみる。
けれど、文字は先程と何も変わらなかった。
「やっぱり、教えられても分からないものは分からないや」
集中しているキリンさんを他所に、小声で呟く。
けれど、せっかく見つけた珍しい本だったから、このまま手放すことは惜しかった。
ページをパラパラ。
気分で読むことにした。
ふと何気ないページで止めると、偶然にも読める文字が目に入る。
「今日見た夢はいいものだった。自分のことだけを見てくれて、守ってくれる人と私は出会えた」
ここからは、普通の日記が書かれているようだ。
これが夢日記なのだろうか。
明らかに読めるその文字は、先程と違って書き崩されたような字体だった。
「優しくて笑顔が素敵な人だったの。私だけの特別な人なの」
言葉に合う人物を自分なりに浮かべてみる。
「あの人だけは私を見続けてくれた。でも、目が覚めちゃった。また、あの人に合わせて欲しい」
自分で書いた文字じゃないはずなのに、文字を書いた人の気持ちが鮮明に伝わってくる。
言葉の節々から相手に対する想いと寂しさを感じる。
「優しいあの笑顔は、私にだけ見せてくれるの」
日記に書かれている人物をどこか、キリンさんと重ねてしまう自分がいる。
言葉に合う人物が、私の中ではキリンさんしか見当たらないのだろう。
「けれど、こっちでは金色の蝶なんていない。話す花もいない。私だけを見てくれる人も……いない」
その言葉に心臓が跳ねる。
金色の蝶。
話す花。
私の今いる場所と同じものが重なっている。
この日記をどこか他人事のようには思えなくなってしまった。
金色の蝶は、キリンさんの蝶。
話す花は、おそらくローズのこと。
私だけ見てくれる人は……。
「なぜなら」
ページの最後にその言葉は、続いていた。
次のページをめくれば、その理由が分かる。
何か知ってはいけない秘密を知ろうとしているのではないか。
けれど、高まる気持ちはとめられなかった。
キリンさんの日記を見る時と同じような気持ちで。
「これらは全部、夢で見ただけだから」
その瞬間、見えない何かに襲われたような気がした。
「この世界が夢……?」
思わず、口から零れていた。
脳で考えるよりも先に、口が動いていた。
日記の言うことは、今の私に向けられているようだった。
こんな都合よく読める字で、この世界のものが出てくるのは、何かのメッセージなのではないか。
キリンさんの蝶も、ローズも夢?
私だけを見てくれる人は、誰のこと?
次々と浮かぶ疑問の中で、脳裏でこちらに優しく微笑みを向ける人物が浮かぶ。
その瞬間、風が頬を撫でる。
「なんだか大人っぽくなりましたね」
「えっ?」
声のする方へ顔を向けると、脳裏に浮かぶ人物と声が重なった。
彼は作業の手を止め、こちらを見ていた。
視線を辿ると、私の方に茶色の何かが垂れていた。
「え……伸びてる」
驚きとともに零れた言葉は、静寂に吸い込まれていった。
「その姿もお似合いですよ」
キリンさんは、引き出しから手鏡を見せる。
鏡に映った自分は、胸下まで髪が伸びていた。
顔もなんだか大人っぽいような気がした。
本棚に手が届くように乗っていた台を下りて、鏡を間近に見に行く。
その顔は、誰かの面影を持っているようだった。
途端、扉からノック音が聞こえてくる。
ガラスで透けた相手は、あの怪物だった。
全身が金縛りにあったように動けなくなる。
「なんで、あいつが……ここにいるの?」
鋭く巨大な爪で腕を切り裂かれた記憶が蘇る。
思い出しただけなのに、かつて裂かれた場所がうずきだす。
「入れて貰えますかな?」
冷ややかさをまとった声が扉越しに、響いてくる。
急かすように、扉を叩き続ける。
「少し、お待ちいただけますか?」
怪物をなだめるように、冷静に対処するキリンさん。
「あぁ、いいですとも。けれど、あまり待たせないでくださいね?退屈しちゃいますから」
怪物がドアに背を向ける。
その瞬間、私は手を引かれる。
引かれた先には、足早に進むキリンさんがいた。
「えっ?キリンさん、どこに行くの?」
キリンさんは、人差し指で言葉を制す。
私は慌てて、口元を抑える。
「ここより安全な場所へ、あなたを連れて行きます」
「ここより安全?」
キリンさんの細く力強い手に、身を委ねる。
緩やかな足取りになる頃、書斎の一番奥に隠れるように佇む本棚の元へ来ていた。
キリンさんの視線は本棚ではなく、更に上。
本棚の上から天井にかけて赤いカーテンがかかっていた。
古びた折りたたみ式の脚立を使い、キリンさんがそれを開く。
そこには、小さな通気口が現れる。
「この先を進んでください。私は彼の、相手をしてきますから」
キリンさんは、脚立から下りては手招きをする。
「え、この中に入るの?」
書斎の雰囲気と離れた、ステンレス製の小さな檻。
とてもじゃないけど、人が入るような場所には見えない。
私は進むのを躊躇った。
「この先は安全地帯なのです。誰の干渉も届かない」
戸惑う私を見かねて、キリンさんは言う。
安全地帯?
どうしてそんな表現をするのだろう。
こんな未知な場所に、わざわざ進んでいく必要はない。
だって、あの怪物からキリンさんは守ってくれるのだから。
「どうして、ここに進ませようとするの?」
私を見つめ返すキリンさんの目が、真剣だった。
「この先が本当に、安全地帯……なの?」
キリンさんはそっと、頷く。
「ここは安全じゃないの?キリンさんの傍は、いつも大丈夫じゃないの?」
その言葉には、キリンさんは何も言い返してはくれなかった。
安心させてくれるような優しい微笑みも、
私が理解出来るような簡単な言葉さえも。
それがキリンさんの答えだった。
目の前にある、狭く、檻のような未知の中に、
私を置いていくつもりなのだと。
「ダメだよ!あいつは危ないよ!」
キリンさんの手の甲にはまだ、血が滲んだ包帯が巻かれている。
「怪我も治ってないでしょ!そんな状態だと、キリンさん。殺されるかもしれないよ!」
キリンさんの細腕に、怪物の爪が裂け目を入れる。
そんな痛々しい光景が脳内に浮かぶ。
通気口は、小柄な人間が一人通れるかどうかだ。
私は入れるかもしれないけど、
キリンさんは背が高すぎるから難しいかもしれない。
けれど私は、キリンさんに向き直り、首を振る。
「ちょっと狭いかもだけど、きっと大丈夫だよ」
キリンさんはきっと、自分に自信がないだけなんだよ。
そう、きっと大丈夫。
絶対、二人で逃げてみせるの。
自分の中で、そう落とし込む。
ここで、キリンさんが行ってしまったら、
なぜだかもう、戻ってこないような気がしたから。
「今まで二人で過ごして来れたんだから、大丈夫!」
キリンさんを安心させるように、語りかける。
けれどキリンさんは、何も答えない。
そっと私の手をとる。
ハンカチを被せ、布越しに私の手の甲から、蝶を生み出す。
「これは?」
いつものキリンさんの蝶だった。
けれど、金色ではなく、白く輝いていた。
「この子は、貴方の傍に居続けることが出来ます」
キリンさんは、白い蝶を私の手に包ませる。
「私が存在し続けるまで、この子は消えることはないでしょう」
「どうして、そんな言い方をするの……?」
キリンさんは目を伏せ、祈るように私の手ごと蝶を包む。
「キリンさん?」