テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
藤澤涼架は物心ついたときから「赤い糸」が見えていた。
人と人を結ぶ透明に近い深紅の糸。誰にでも見えるものではなく、周囲の人が話題にしたこともない。だからこそ最初は誰にも言えなかった。
けれど知ってしまった──これは「運命の赤い糸」なのだと。
世界でたった一人の相手と自分を結ぶ糸。
大森元貴
同じバンドのメンバーでボーカル。近すぎるほど近くて、けれど遠い存在。
糸はいつだって彼の方へまっすぐ伸びていた。
左手の薬指からするすると伸びる赤い線が彼の背中に、肩に、時には指先にぴたりと触れている。
それが嬉しかった。
最初はただ「繋がってるんだ」と無邪気に喜んでいた。
けれど年月が経つにつれて、現実は変わっていった。
大森は光のような人だった。
顔立ちも、声も、才能も、すべてを持っていてまるで神にすら愛される天才であり自然と人を惹きつける。
一方の自分は内気で、地味で、何も持っていない。音楽だけが自分の唯一の武器で。
存在価値なんてないと何度も何度も自分の首を絞めてきた。
はは、と乾いた笑いが無意識に出た。
それでも糸は切れずに繋がっていた。細く、細く、それでいてたしかに暖かい線。
怖かった。
どうして切れないのか。こんなにも不釣り合いなのになぜ「運命」なんてものに縛られているのか。
ミセスの、大森の存在がどんどん大きくなり、周囲にはいつも人がいた。笑顔も冗談も、ライブでの歌声も、全部がまぶしかった。
楽屋でふたりきりになったとき、帰り道偶然同じ方向になったとき、舞台袖で手が触れそうになったとき。
胸がぎゅうっと痛むのはいつも自分だけだった。
(元貴にとって僕はきっとただの“仲間”だ)
何度そう思っても糸は裏切るように彼に繋がり続けた。
だから考えるようになった。
このままじゃ苦しくなるばかりだ。いつか糸の存在を見透かされる。
自分の「好意」も「願い」も「逃げ腰」も全部ばれてしまう。
そんな未来が怖かった。
──そしてついに確信するようになった。
「釣り合わない」
自分には眩しすぎる。触れれば焼けてしまう太陽のような人だ。それでも糸は繋がってしまっている。
手が震えた。
それでもやらなきゃいけない気がした。
_____________
その日藤澤は誰もいない楽屋にいた。
机の上にはハサミがあった。ものを切るための何の変哲もない文具。
ふと、自分の左手から伸びる赤い糸を見た。今も変わらず大森のいる方向へまっすぐと繋がっている。
その赤は以前よりも濃く、強くなっているように見えた。
多分気のせいじゃない。
(僕が、こんなに好きになってしまったから)
だから手放さなければならない。
この気持ちごと切ってしまわなければならない。
自分が大森元貴を好きだという事実を、誰よりも自分自身が許せなかった。
「ごめんね」
誰に向けた言葉かわからない。
ただ、そう呟いて震える手で鋏を握った。
刃を、糸に当てる。
硬くもない。透明に近いそれは意外なほど脆く見えた。
一瞬、糸が震えたように見えた。まるで「やめて」と言っているみたいに。
それでも──
「さよなら」
小さく息を吸って力を入れる。
──プツン。
乾いた音がしたような気がした。それは錯覚だったのかもしれない。チリ、と音がした気がした。
目を開けた時には糸はもうそこになかった。
「ごめん……本当に……」
赤い糸はそこで──見えなくなった。
代わりに胸の奥がぽっかり空いた気がした。
寒かった。痛くなかったのに涙が勝手にこぼれていた。
でもこれでよかったと思った。
「これでやっと……僕は、元貴にふさわしくないままでいられる」
そうして藤澤涼架は自分の「運命」を自ら手放した。
_____________
ある日ふと、目の前に「赤」が浮かんだ。
それは前に見ていた一本の糸なんかじゃなかった。もっと色濃く、重たく、ねっとりと肌に張りつくような。
藤澤の腕に、足に、喉に、腰に、背中に──どこもかしこもまるで血管のように赤い線が這っていて、そのすべてが左手の薬指に集まり、「何重にも」絡まっていた。
ぎゅ、と指を握りしめる。ほどこうとしても無理だった。
(なに、これ……)
全身を絡め取るように巻きついた幾重もの赤。薬指なんて、指先が見えないほど何重にも巻かれている。
まるで「もう逃げられない」と告げるかのように、皮膚の内側にまで入り込んでいるような感触がある。
(なんで……? なんで今さら)
息が詰まりそうだった。指が震えた。
二度と見たくなかった。ずっと見えないままでいるつもりだった。
あの日自分はあの糸を切った。確かにあの糸を切った。
それなのに、なぜ。
「涼ちゃん」
その声に、思考が止まった。
振り返ると、そこには大森が立っていた。
赤い糸の根元。藤澤の体に巻きつくそのすべての糸の出どころ。
その目だけはどこまでも冷静で、どこまでも優しかった。
(元貴が結んだの?)
そんなはずないと思った。だって「赤い糸」は自分にしか見えないはずだから。
あの日切った糸。消えたはずの運命。それが今、こんなにも強く、重たく、形を変えて戻ってきた。
まるで「もう逃がさない」と言われているように。
「見えてるんでしょう?」
大森の声はやさしかった。まるで最初からこうなることが決まっていたように。
「だから言ったじゃん。涼ちゃんが切ったって、俺は諦めないって」
「……どういうこと」
絞るような声が出た。大森は微笑んだ。
その目はどこか冷たいのにまるで勝者のようだった。
「涼ちゃんが切ったくらいで、俺が諦めると思った?」
藤澤は息を呑んだ。
「涼ちゃんがこの糸、ずっと見えないままでも良かった。傍にいてくれるならそれでよかった。でもさ、もう一度繋がったなら」
大森は藤澤の手を取った。赤い糸が絡まる薬指を、そっと撫でる。
「今度は絶対に解けないように結ぶ」
こんなにも逃げて、切って、拒んできたのに。それでもまだ大森元貴という人は自分を見ていて、繋ぎ続けていて。その証が今、全身を絡め取るように巻きついている。
(解けない)
どれだけ引っ張っても、緩まない。絡まって、食い込んで、皮膚の奥にまで染み込んでいるようで。
もはや「切る」なんてことはできないと思った。
(これが、僕の選んだ結末……?)
大森の指先は驚くほど優しかった。けれど優しさの奥にあるものを藤澤は分かってしまった。
大森元貴はずっと前から気づいていたのだ。藤澤が逃げたことにも、糸を切ったことにも。
その上で何も言わず黙って、何度も何度も「結び直していた」
だから今、この体は糸だらけなんだ。
「ほら、見てみなよ。こんなに絡まってさぁ涼ちゃん自分の体どうなってるかわかってんの?」
低く囁く声にぞくりと背筋が震える。
「俺が、全部、結んだんだよ」
不敵な笑み。
けれどそこに浮かぶのは、狂気ではない。純粋ふぇまっすぐな、「愛」だった。
どこまでもひたすらに歪で、偏っていて、逃げ場のない。
藤澤は目を伏せた。どれだけ足掻いても抜け出せない。でもなぜか心は少しだけ──安堵していた。
「……ひどいよ」
ぽつりと落としたその言葉に、大森は眉をひそめた。そう呟いた声は涙に濡れていた。
でも、大森はその涙を見てほんの少し嬉しそうに笑った。
「うん。ひどいよね。でも、これが俺なりの優しさなんだよ」
赤い糸がさらにぎゅっと締まる感覚がした。
もうどこにも逃げられない。
だけど、少しだけ──この運命が、苦しくないと感じてしまったのはなぜだろう。
「もう逃がさない。絶対に」
赤い糸がさらに深く絡んでいく。音もなく、静かに、指の奥へ、心の奥へ。
そして、もう誰にも解けない。
コメント
2件
凄いぃ😳✨主さんのこういう話し大好き過ぎる🤦🏻♀️💕天才ですね👏