テラーノベル
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「それで君はこれからどうするんですか」引き摺る脚でドリップ珈琲を入れながら桜井はエロスに尋ねた。
珈琲の匂いが部屋の中を支配して桜井の萎えた心を少し落ち着かせてくれた。
「ベラを捜しに行く。世界を壊す意図を持つバグなんだ」
「虫ね…その虫が不良品なのか」
「ドッグはベラは作ってない」
その女に翻弄されるのがネジが足りない人間の男なのだ。わかってるのかな?ベラは自分を着飾る為に玉虫色に妖しく化粧をし出した。分厚い化粧の女を男は好む。そして、その女の本当の姿を知らずに男達はベラを着飾る為に煌びやかなドレスを買い与え宝石を強請られると地球に大きな穴を穿つ、そしてその宝を奪い合い争いは絶えない、実に恐ろしい女なのだ。その首に血に染まった石をよくも平気で巻着付ける。ベラのベラたる所以だ。だからベラは首から簡単にもぎ取れる、その石で首が細くなって節々で折れやすい、虫の弱点でもあるからね。
「何処にいるんですか。そのお捜しのベラとやらは」
「うぬ…この中」
「TVか」理解できない。理解できない。理解できない。
「うぬ」
「ま、まさかぁ…本当に虫の事か」
桜井はブラウン管の裏を覗き込んでふと我に還る。こんな奇妙な会話をひと時でも本気にした自分が急に恥ずかしくなった。やっぱりこいつは普通じゃない。裸で外にいること自体異常事態だ。
「ほらこいつ…何処に行けば会える?」
「えっ」ニュースでは大統領選で候補者と妻が勝利に喜ぶ映像、エロスが指差したのは女だった。
「どんなに巧く人間に化けても俺にはわかる」
「う宇宙人か君らはっ」戯言に付き合ってやるか。
「ちがう。ベラは地球の古代生物だよ。厚化粧の下のベラの顔程怖いもんはない。紀元前の生物だからな」
「そ、そうか…それじゃぁ地球に未来はありませんね。僕も何をしても無駄なんじゃ…虫が大統領夫人なんて、ね」おかしな会話だ。
「諦めるのか」残念。
「でも僕はもう歳だし…今年で三十六です。もう機会もない」
「歳の所為にするのか」本当に残念。
「それが世の現実です」桜井は自分で言って情けなくなった。
自ら夢を諦めるような事は言いたくないのに心とは裏腹に言葉にする自分が本当に歳に負けたような気がしてならない。
エロスが「才能に年齢は関係ないよ。貴方の歌好きだよ。絶対大丈夫」心からそう思って告げたら桜井は本気にした。
「君に言われると何だか元気が湧いて来る気がします」
「人は誰だって夢を見る力がある」エロスの瞳もきらきら輝いた。
「夢見る力…」桜井はもう一度繰り返し小さく呟いた。そうだったすっかり忘れていた言葉だ。まったく自分としたことが。
「未来の可能性は未知数だよ。オーディション一度落ちた位で夢を捨てるな。自分も大変だったんだミスコンで闘うの」
「僕が落ちたのは、いやっ墜ちたのは穴だっ。君はいったい何と闘ったんだ 虎ですか?」
「何で知ってるの」なんだこいつ俺の心読めるのか・・・。
「・・・本当なんだ」一応驚いてみせますか。冗談で言ったつもりなのに、桜井はもう深く考えるのは止そうと思った。
あれこれ勘ぐっても、こいつには無意味だ。どうやら本気で馬鹿か単細胞か、或いは本当に宇宙人か何かだろうと思うようになっていた。
「じゃ元気でね世話になった」
「何処に行くの」もう帰るのか・・・少し寂しいな。
「だからベラを捕まえに」
「そうでした」理解しよう。理解しよう。理解しよう。
「そこまで電車に乗って行ける?」
「まず無理…飛行機じゃないと」理解できない。理解できない。
外国の行き方も知らないのか、こいつ現代人じゃないな。
「海を越えるのか…泳ぐの久しぶりだな」
「えっ泳ぐって?」ほ、本当に宇宙人かこいつはっ。
「水着にしときゃ良かった」
桜井が、「あっ」と言う間にエロスは玄関を出て二階から下に飛び降りた。その時スカートが捲れてちらりっ。
「あ〜っっ僕のパンツ〜ッ…」そ、そうか…そうだった。赤面。
「にまっ借りとくねぇっ」エロスは駆け足で遠ざかって行ってしまった。
廊下から差し込む電灯の光で薄暗い部屋に長く伸びた桜井の影が刻と年月を告げているように感じた。いまやっと孤独の感じが蘇る。
空になった豚の貯金箱を手に「変なやつ…ふっ」桜井は苦笑した。ふと小さな食器棚の中を見ると爆弾のようなおにぎりがひとつ皿の上にのっていた。
「本当に不器用だな」見た目に期待はしないで口にしたら驚くほど味は良かった。鰹とマヨネーズの核に到達すると猶更味覚は刺戟され「僕は未だ未だ何にもわかっちゃいない」胸が痛んだ。味覚は心も刺戟した。
「僕はもう何年渦くまってんだろうな」俄目尻に涙が滲む。床に寝転がり怪我した脚を投げ出して張りつめたギターの弦を弾いた。苦笑して天井を見上げるとゴキブリが貼り付いている。
「くそっ怪我さえなかったら新聞紙を包んで落とせるのに…そうだ毒ガス殺虫剤があった」手を伸ばしてそれに届こうとした時、殺気を感じたのか直ぐにゴキブリの姿は消えてしまった。
デジタル時計の数字が刻々と時を繋いで深い呼息が凝としてまったく静かになった。暫くすると胸の奥で何かが騒ぎだした。
「夢見る力…か…そう云えば彼女ガキの頃にギターを教えてくれた幼馴染みにそっくりだな。その子は殆ど喋らなかったけど」桜井は記憶に眠る何かを呼び覚まそうと必死にもがいていた。
太平洋を泳ぎきり辿り着いた先の岸辺でエロスはまたしても真裸だった。
「くそっサメの奴俺の服食いやがってっクラゲとでも思ったのか」確かに白いワンピースはクラゲそっくりである。
黒檀で指先を染めてスケッチしてた男がエロスを見て驚いた。
「おおっ」驚嘆の声が波の音に直ぐに掻き消されエロスの耳には届かない。
「此処は何て国?」
「フィレンツェ…だ…が…」つい裸のエロスに見とれる男。
「ヴィーナス…」画家の瞳は卑しさがなく桜井の瞳にも似ている。
「違うエロス」
「わ私の画のモデルになってくれ」男の名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ『ヴィーナスの誕生』は1845年40歳頃メディチ家の為に描いたとされる。「海から上がるヴィーナス」の復元を意図した画だと云われる。
「厭だ。ところで今は何年?」
「1485年だが」
「また時代間違えた」
「わんわんっ…」未だ遠くに浜辺を走る犬の姿。
「あっドッグッ」
「迎えに来たぞ」喋る犬。
「良かった、また迷子になるとこだった。ほっ」
「だと思って急いで後を追ったんだ。君は時を無意識に操るからな本当に世話のやける子だ」犬は本当にエロスが心配でたまらなかった。
天国でおとなしく待っていてくれるなら安心して自分ひとりベラを捜しに行けるのに女姿のエロスを他の男が放って置く筈が無い。だから余計に不安になるのだ。(僕の未来の妻だぞっ誰にも見せたくないっ)ドッグは束縛が殊の外強い。
「ごめんなさい」素直に謝る外ない。
「帰ろう」ドッグはエロスが生きていたことが何よりだと思った。
エロスが地上で死んでしまうとその度に姿を変えて捜索も困難になるからである。以前ドッグがベラに騙されてエロスを見失った時、エロスはドッグの知らない場所で独り死んでしまったのである。
生まれ変わったエロスを捜すのに百年かかった経験から二度と同じ過ちは繰り返すまいとドッグは強く思っていた。
「うぬぅでも俺ベラを見つけたんだ」
「ここを何処だと思ってるんだ」
「俺太平洋真っ直ぐ泳いだつもりなんだけどなぁ」
「海流に流されたんだろ。ベラのやつ今度は女優になった様だな」
「えっTV箱では大統領夫人だったよ」
「…君が見たのは映画だ」
「そっか映画ったら特殊メーク得意だもんな」
「僕が捕まえに行く」
「一緒に行く」
「だめだ危険だ。空で待ってろ」
「ちぇっけちっ」
「ギロッ」うううううっ…うなる犬。
「怖っ」その迫力に負けてエロスは犬と眼を合わせる事ができない。
「帰るぞ」
「うぬ」エロスは素直に犬の背に跨がった。
「シュワッ」犬は空を地に駆けるように天上へ昇って行った。
大気圏の境目で犬は人間の姿であるドッグにエロスは鹿に変身した。ふたりが棲む天国は雲の上のようでそうでもない。暗黒の彼方にある異次元である。メビウスの輪の中にそこは存在している。時空を越えて現在過去自在に往来出来た。
追記:海岸の男は「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリ。初期ルネサンスを代表するイタリアの画家である。フィレンツェは花の都と讃えられ多くの芸術家を輩出した。ボッティチェリは写実主義を無視した個性的な線を追求し今もなおルネサンスの息吹を伝える絵画を後世に残している。
「なぁドッグゥ俺も一緒にベラを捕まえに行きたい」
「だめだっ」
「俺また何日もひとりぼっち」
「今度は早く帰る」
「そう言って何時も手こずって遅い」
「・・・」
「ずっとドッグの側にいたい」
「早くそうなる為にもベラを…」
「こんな姿の俺じゃ愛せないの?」
「・・・」
「ちびでデブで変な鹿だから?」
「そんな事ない・・・ょ」汗、
「じゃぁ何処にも行かないで…俺の側にいて」
「…わかった。側にいるよ」
さこ吉
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