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雨の日が続く、うっとうしい季節に入った、ある昼下がり。一人の20代半ばの女性が東京都心の繁華街を歩いていた。
若い男たちだけでなく、すれ違う若い女の子たちも彼女に目を留め笑みを浮かべた。
「ヒュー! セクシーじゃん」
「ね、あれって夏野原エリカのコスプレ?」
「うん、同じ服だよね、あれ」
ポツポツと雨粒が落ちて来てアスファルトの表面に陰った点が出来始めた。その女性は手に持った折り畳み傘を広げ始めた。
「うわあ、やっぱ降って来た。傘持って来て正解だったな」
その女性の周りでも次々と色とりどりの傘が、花が一斉に開くように広がった。
女性の頭上でジュッという音がした。女性が不審に思って視線を上に向けると、傘の一部に穴が開いている。そしてひとつ、またひとつと穴が増えていく。
穴から垂れて来た液体が女性の腕に落ちる。ピリッとした刺激の後に、その部分がみるみる赤く変色し、鋭い痛みが女性を絶叫させた。
傘の布地はどんどん溶けていき、金属の骨組みだけになった。遮る物がなくなった女性の体に、雨粒であるはずの液体が降り注ぎ、女性の体中から肉が焼けた時のような異臭が漂う。
「ギャー! 痛い! 助けて!」
女性は両手で頭を覆い、小走りにその場所から離れようとした。だが10メートル、20メートルと女性がよろけながら移動しても、その肉を焼く液体は彼女の頭上から降り注ぎ続ける。
その異様な液体が降っているのは、女性の頭上からだけ、だった。女性の異変に気付いて見守っている人たちの傘には何も起きておらず、一人の男性が手を伸ばして雨の粒を掌に受け止めても、何も変わった事は起きない。
女性が痛みに耐えかねて地面に座り込むと、その液体はさらに集中的にその体の上に降り注いだ。
紙がジュッ、ジュッと音を立てて焼け焦げ、来ている服も穴が開き、溶け崩れ、その間からのぞいている肌も火傷をしたようにただれ、血がにじみ出ていた。
濡れた歩道のアスファルトの上に女性が倒れこみ、のたうち回っているのを、周りの人々は恐怖に凍り付いた顔で見つめた。
数人の男性が女性の周りにしゃがみ込んで声をかけた。
「おい、君、大丈夫か?」
「うわ、顔が! ひでえ! きゅ、救急車呼ばねえと」
男性の一人が女性の肩に手を置いて助け起こそうとして、あわてて手を引っ込めた。
「痛! 何だこりゃ? 酸か?」
顔が赤黒く焼けただれたように変色し、全身から血をにじませて力なく痙攣して横たわる女性を通行人が見守る中、ようやく救急車のサイレンが近づいて来るのが聞こえた。
病院の入院病棟の個室の前には、制服警官が背中で手を組み、脚をやや開いて、近づこうとする者を威圧するかのように立っていた。
カツカツと靴音が響き、その病室に向かって20代後半とおぼしき見かけの、暗いグレーにパンツスーツを着た女が歩いて来た。至近距離まで近づいたところで制服警官が制止しようとする。
「ちょっと。この部屋は関係者以外は立ち入り禁止です」
女は上着の内ポケットからバッジホルダー型の長方形の手帳を取り出し、縦方向に広げた。
「本庁公安機動捜査隊、警部補の宮下と言います。そちらの署長の許可はいただいております」
制服警官はさっと敬礼の姿勢を取った。
「失礼しました! 被害者の関係者の事情聴取ですか?」
「はい。今ユーチューバーさん本人と所属事務所の社長さんがそこにいらっしゃると聞きまして」
「ご本人たちの了解を得て来ます。少しここでお待ちいただけますか?」
宮下がうなずくと、制服警官は病室の中に入り、30秒ほどで戻って来た。そっと宮下に耳打ちする。
「お会いになるそうです。化粧を整えたいので1分だけ待って欲しいと」
「分かりました」
「本庁の刑事、それも公安機動捜査隊が出て来るような事件なんですか?」
「アシッド・アタックという言葉を知ってる?」
「いえ、恥ずかしながら初耳です」
「強酸性の液体を狙う相手に浴びせるという最近のテロの手口です。中東や南アジアでは特に女性の顔を狙って行う例が多い。もし今回の事件がテロなら、うちの管轄ですから」
病室のドアが開き、沈痛な表情の40代ぐらいの女性が宮下に頭を下げた。宮下も深くお辞儀し、入室の許可を求めた。
個室のその病室の中央にバッドがあり、被害者の女性が横たわっていた。その全身は顔も見えない程包帯で巻かれ、まるでミイラのようだった。
何本ものチューブや呼吸器がその体につながれ、本人に意識はないようだ。宮下は被害者の体に向かって深々と一礼し、さっきの女性と、涙の痕がくっきりと顔に残る若いもう一人の女性に向かい合った。
「本庁警部補の宮下と申します。こんな時にいろいろ訊かれるのはおつらいでしょうが、一刻も早い解決のためにご協力下さい」
二人は黙って、それぞれにうなずく。三人は簡易椅子に座って、宮下が手帳に鉛筆を走らせながら質問を始めた。
「今回被害に遭われたのは、夏野原エリカさんのマネージャーである佐伯美穂さん、間違いありませんか?」
さっきの年長の女性が答える。
「はい。美穂ちゃんは私の秘書兼エリカのマネージャーでした。あ、申し遅れました。私はプロダクション・あいあいの社長をしております、山本と申します」
山本から名刺を受け取り、宮下がもう一人の若い女性に視線を移す。
「そちらがユーチューバーの夏野原エリカさんなんですね?」
二十歳になるかならないかという見かけのその女性はうなずき、そして手で顔を覆って嗚咽を漏らした。
「あたしの、あたしのせいなんです。美穂さんは、あたしと間違われて襲われたんです」
「それはどういう事でしょう? もう少し詳しく」
取り乱してまともに答えられないエリカに代わって、山本が説明した。
「つい先日、エリカちゃんの撮影用の衣装を新調しました。パッと見ただけでは分からない程度ですが、前の衣装が痛んで来たので。そういう古い衣装は廃棄するんですが、美穂ちゃんが一日だけ着てみたい、その服で事務所の買い物に行くと言い出しまして」
「だからあの時、美穂さんはエリカさんの衣装を着ていたわけですか?」
「どうせ捨てる物だし、一日ぐらいはまあいいかと、私も思いまして。それがこんな事になるなんて」
「夏野原エリカさんは、誰かに危害を加えると、脅されていた。そういう心当たりは?」
「あります。実はエリカちゃんは墨東警察署の交通安全PR動画に出演していまして」
「動画投稿サイトで公開されていた物と聞いてます。それとどういう関係が?」
「この子はセクシー系ユーチューバーと言われていて、お腹のあたりの肌を露出して、いわゆるへそ出しルックとミニスカートで激しく動き回るパフォーマンスで最近急に人気になったんです。ある女性の人権擁護を訴える団体、いわゆるNPOですね、そこから直接、墨東署に文書で抗議があったんです。あんな、ふしだらな格好の女性を警察の啓発活動に使うのはけしからんとか、そういう内容の抗議で」
「いつ頃の事ですか、その抗議があったのは?」
「一か月前ぐらいです」
「それで墨東署はどうしました?」
「夏野原エリカの起用は内部で慎重に議論した結果だという回答文書を出して、動画はそのまま公開し続けていました。今回の事件があった直後、念のため動画を一旦削除すると連絡がありました」
「ネット上、SNSなどで、その件について夏野原エリカさんに誹謗中傷が書き込まれたというような事はありましたか?」
「ありました。エリカを擁護する内容が大半でしたが、そのNPOの抗議文がネット上で公開された後も、エリカの動画が残っていた事については、ひどい中傷の書き込みも少なからずあって」
山本はバッグからタブレットを取り出して起動させ、あるSNSの画面の一連の書き込みを宮下に見せた。そこには様々なとげのある言葉が並んでいた。
「エロさを売りにしてるビッチが警察に協力だ? 笑わせんな」
「こんな露出狂にPRさせたら、交通安全的には逆効果なんじゃねえ?」
宮下は冷静にそれらに目を通し、うち一つに注意を引かれた。
「全日本フェミニスト騎士団の抗議を無視して動画消さないなんて、警察も警察だ。私が騎士団に代わって、この女に正義の鉄槌を下してやる!」
宮下はこの書き込みは女性による物だと直感した。公安機動捜査隊の後輩で、情報分析担当の丹波という男に後で調査させるべく、URLを手帳に書き写す。
その時、それまで下を向いて沈黙していた夏野原エリカが涙声で叫び出した。
「どうしてよ? あたしたちがどんな悪い事をしたって言うの! 美穂さんがこんな目に遭わなきゃいけない程の、何をしたって言うのよ? あたしはただ、警察に協力して、世の中の役に立ちたかっただけなのに!」
山本があわててエリカを抱きしめ、落ち着かせようとする。宮下は立ち上がり、無言で山本にお辞儀をして、病室を去った。
宮下が警視庁本庁に戻り、後輩の丹波にあの夏野原エリカに関するSNSの書き込みを分析するよう頼んだ直後、宮下のスマホが鳴った。
通話を取ると受け付けからだった。
「帝都理科大学の渡教授とおっしゃる方が受け付けにおいでです。宮下警部補にご面会のアポがあると」
宮下は腕時計を見て、アッと声を上げた。
「いけない、忘れてた。今お迎えに行きますと伝えて下さい」
数分後、小会議室の机をはさんで宮下と渡は座っていた。渡が長く伸ばしたあごひげを指でしごきながら言う。
「うちは国立大学だから警察から協力しろと言われたら断れんが、君が持ってくる話は厄介なものばかりだな」
「ご面倒かけてすいません」
宮下は精一杯の作り笑顔で頭を下げた。
「渡先生と遠山先生ぐらいしか、私にはツテがないもので」
「結論から言おう。あり得ん」
「は? 何があり得ないと?」
「現場で採取された酸は、硫酸と判明した。うちの化学の専門家の分析でな。しかも事件当時の濃度を推定した結果、90%以上だ。自然界にそんな高濃度の硫酸が存在する事はあり得ん」
「では自然現象、たとえば局地的な酸性雨という可能性は否定されると?」
「いいか、純粋な硫酸は自然界には存在し得ない。火山の側で硫黄が大量にある場所なら、一時的に生成される可能性はある。だが、硫酸は水との反応性が極めて高いから、あっという間に薄まってしまう。濃度90%と言ったら、いわゆる濃硫酸だ。人工的な物としか考えられん」
部屋のドアがノックされ、丹波が顔をのぞかせた。
「先輩、例の動画の視聴用意が出来ました」
宮下は渡に言った。
「そうだ、渡先生も一緒に見ていただけませんか?」
「ネットの動画をかね? 私はそんな物に興味はないが」
「できれば違う年代の方の印象もお聞きしたくて」
「ほう、私は老人代表というわけか?」
「あ、いえ、そんな意味ではないんですが、あのう、何というか……」
「ははは、冗談だよ。ま、確かに君たちから見たら十分年寄りだろうな。いいだろう、付き合おう」
正面の壁に80インチはあろうかという大きなスクリーンがある小部屋で、宮下、渡、丹波は向かい合った椅子に座り、部屋の照明を落として、ネット動画を検証した。
丹波が手元のリモコンを操作しながら二人に告げる。
「まずは夏野原エリカの交通安全PR動画を見て見ましょう」
安っぽい音楽のBGMと共に、へそ出しのトップスとミニスカート姿のエリカが長い髪をなびかせながら、どこかの収録スタジオらしき背景の前に踊り出た。
墨東署の交通安全PR用のマスコットキャラクターと並んで、ややコケティッシュな口調で語りかける。
「あおり運転はれっきとした犯罪なんだよう! やっちゃだめだし、やり返すのもダメだからね」
「飲酒運転は絶対ダメ。飲んだら乗るな、乗るなら飲むな。運転する人に、お酒飲ませるのもNGだよ、覚えといてね」
「住宅地の狭い道路だと突然子どもが飛び出して来る事があるから、スピードは控えめに」
「みんなで交通ルール、交通マナーを守って、安心安全な墨東区にしようね、みんな。セクシー系ユーチューバー夏野原エリカからのお願い!」
動画が終わり、渡がため息交じりに言う。
「正直若い女性がこういう格好で人前に出る事には、個人的には好感は持てんとは思うが。だが内容自体はしごく真っ当なもんじゃないか。これのどこに抗議があったんだ?」
丹波が次の画像をスクリーンに出しながら答えた。
「これがそのNPO、全日本フェミニスト騎士団という団体がネット上で公開した抗議文の映像です。墨東署だけでなく、東京都庁、墨東区役所、区の教育委員会にも送り付けたようです」
そこにはワープロで作成された文書のPDF画像が映った。こういう文面だった。
「夏野原エリカというユーチューバー(AV女優)は女子中高生のような上衣で、丈は極めて短く、腹やへそを露出しています。下衣は極端なミニスカートで、自らを性的消費物として強調し、男性の劣情を煽っています。警察という公共の治安維持を担う行政機関が、このような性犯罪を誘発、助長、奨励する懸念すらある人物を啓発活動に起用する事は許されざる暴挙と言わざるを得ません」
丹波が画面を変える。NPOのサイトで公開されている、墨東署からの回答書のPDF画像に切り替わった。
そこには、彼女をキャラクターとして起用するにあたり、警察署内で女性警察官の意見を広く尋ねた上で、問題ないと判断した旨が記されていた。最後にこういう一文があった。
「貴団体からいただいたご意見は、今後の広報活動の参考とさせていただく所存でございます」
渡が顔をしかめて宮下と丹波に尋ねる。
「あの女の子はAV女優なのか?」
丹波がすぐさま否定した。
「そんなわけないですよ。そりゃAVを流してるサイトも中にはありますが、そこに出ている女性をユーチューバーとは言いませんよ」
同時刻、全日本フェミニスト騎士団の本部事務所の中で、ボランティアの女子大生が団体の理事長の机に駆け寄った。彼女は興奮した口調で告げる。
「理事長、あのユーチューバーの動画が墨東署のサイトから削除されてますよ。やっと私たちの意見が理解できたんですね」
だが白髪の高齢の女性理事長は、首を傾げて不機嫌そうな声で女子大生に言い返した。
「ユーチューバーの動画? 何の話だったかしら?」
女子大生は驚きで目を丸くた。
「夏野原エリカですよ。墨東警察署の交通安全PR動画の」
「ああ、あのAV女優ね」
「いえ、AV女優じゃなくてユーチューバーです」
「似たようなもんなんでしょ。そもそもあたしゃ、ネットの動画なんか見ないし」
「は? だって、うちの団体の名前で抗議文まで出して、ネットで公開までしたじゃありませんか」
「分かってないようね。いい?」
理事長は墨東署からの回答文の紙にコピーを机の引き出しから取り出して、一番下の部分を何度も指差した。
「貴団体からいただいたご意見は、今後の広報活動の参考とさせていただく所存でございます。そう書いてあるでしょ。こういう文章をひとつでも多くの権威ある機関から引き出す。それが団体の箔付けになるし、寄付集めにも有利になるの」
「だったら、あのユーチューバーに関する抗議の内容は何だったんですか?」
「いかがわしい格好した女が、ふしだらな商売やってたんだから、一発ガツンと言ってやった。それを警察署がうちの団体の実績として認めた。それが大事なんであって、この回答書の上の方に何が書いてあるかなんて、何でもいいし、どうでもいいのよ」
「は、はあ……そういう物ですか」
ボランティアの女子大生は、黙って引き下がらざるを得なかった。
再び、警視庁本庁内の渡、宮下、丹波のいる部屋。渡に丹波が食ってかかっていた。
「渡先生、今何と言いました?」
「だから、世代間ギャップだ」
「そういう問題じゃないでしょう! 『性犯罪を誘発、助長、奨励する懸念すらある人物』とまで書いてあるんですよ。ここまで悪意、敵意に満ちた表現をするなんて、正気の沙汰じゃない」
「だから、それは君たちの世代の言語感覚なんだ。私が大学院生だった頃に教授陣から浴びせられた暴言の数々を聞かせてやりたいよ。今だったら100%の確率で、パワハラ、アカハラで裁判沙汰になる。そして、それが私、あるいはわたしより上の世代の言語感覚でもある」
宮下が話に割って入った。
「では、渡先生は、この抗議文を考えた人物は、とりたてて夏野原エリカに否定的な感情を持っていたわけではないとお考えなんですか?」
「ま、あくまで推測だがね。この文面を作ったのは、私と同世代か、干支一回りぐらい上の世代なんだろう。ちょっと気の利いた表現のつもりで、軽い気持ちでそういう文言を使っただけ、なんじゃないかね」
丹波が怒りで顔を真っ赤にして言う。
「ここまで他人を、それも若い女性を、罵倒するのが、ちょっとした事なんですか? 先生はそれが当然の事だと?」
渡は両手の掌を上下に振って、丹波を落ち着かせようとする。
「もちろん、だからと言って使っていいとは言っとらん。今の時代の、君たちの世代がこんな言葉を投げつけられたら、そりゃショックを受けるし、人によってはトラウマにもなりかねん。それは理解しておるよ。だが、人生100年の時代になったと言われてるだろう」
「それとこれとに何の関係があるんです?」
「私が子どもの頃にはまだ政治や人権が絡んだ運動に関わる連中の言葉の使い方はもっと激烈だった。相手を人でなし呼ばわりするぐらい当たり前、あいつは鬼だ悪魔だ、なんて罵詈雑言が飛び交うのは日常茶飯事だった。そんな時代もあったわけさ」
宮下が考え込んだ表情でつぶやく。
「今はネットを使う高齢者も増えた。少し前までなら、先生が言う言語感覚が違う世代が、今ほど活発に関わり合う機会は少なかった。でも今は、言語感覚がかけ離れている世代同士がネット上でやり取りする機会が急激に増えた。そういう事なんでしょうか」
渡はあごひげをしごきながら応える。
「かく言う私も学生にはきびしく接する方だからね。大学当局から言葉が過ぎると、お叱りを受けた事は数えきれないほどあったよ。私の場合は立場上、その言語感覚をアップデート出来たが、それが出来ていない古い世代も多いだろう。高齢化社会でもあるしな」
宮下がスーツの胸に手をやった。内ポケットからスマホを取り出し、通話に出る。
「はい、宮下です。え?」
宮下は通話を終えると、沈痛な表情になって丹波と渡に告げた。
「佐伯美穂さんが亡くなったそうよ、10分ほど前に」
渡は声を上げて驚いた。丹波は職業柄、冷静にその言葉を聞いた。そしてつぶやいた。
「殺人事件に切り替わりましたね」
宮下はスマホを仕舞いながら眉間にしわを寄せた。
「問題は凶器だわ。特定の一人の人間の上にだけ硫酸の雨を降らせる。そんな事がどうやったら可能なのか」
宮下は渡に向かって頭を下げた。
「先生、引き続き大学の協力をお願いできますか?」
渡は黙って大きくうなずいた。
翌日の午前中、宮下は墨東署の署長室に座っていた。来客用のソファで待っていると、制服姿の署長が入って来た。
宮下が立ち上がって敬礼する。署長は続けて入って来ようとする制服の幹部を遮り、ドアを閉めて、自分のデスクではなく、宮下の向かいのソファに腰かけ、宮下に座るように手で示した。
宮下はソファに腰を下ろし、軽く頭を下げた。
「お忙しいところを、ありがとうございます」
「いや、気にするな。今回の事件はわが墨東署も無関係じゃない。それで何を知りたい?」
「例の全日本フェミニスト騎士団というNPOから抗議文を送られた時、墨東署としてはどういう対応をされたか、詳細をお聞きしたいのです」
「あの時は正直、ああ、またか、という感じだった。私だけでなく、担当の部署もみんなそうだったろう」
「あのNPOから以前にも抗議文が?」
「いや、そうじゃない。いろんな団体から年中来ているんだよ、あの手の抗議やら公開質問状とかはね。いわば年中行事だ。本庁勤務の君は知らんだろうが、回答文書のひな型まであるんだよ」
「では、あの回答文はひな型通りの物だったと?」
署長は無言で大きくうなずいた。そして言葉を続ける。
「あの手の団体が欲しいのは、最後の、ご意見は参考にします、とか、その部分だけなんだ。警察を論破できたというイメージが欲しいだけだ。これが問題だと、騒いでいる事象自体はどうでもいいんだな」
「では、夏野原エリカさんが襲撃される事は予想していなかった?」
「いや」
署長は小声になって、ぐっと体を前に乗り出して来た。
「これはここだけの話にしてくれ。実は署内でも、彼女の身の安全を考慮して、動画を削除するべきではないかという意見もあった。だが、そうしたらそうしたで、警察が事なかれ主義に走ったという世論の批判を受ける可能性もある。そこで、動画は引き続き公開し、夏野原エリカには、本人にも秘密で24時間警備を付けた」
宮下は驚いて署長の目を見つめた。
「何か危険な兆候があったという事ですか?」
「そういうわけでもない。ネット上で何か話題にされた人物が、訳の分からん歪んだ正義感を振りかざす輩に襲撃された事があった。君も聞いた事ぐらいあるだろう?」
宮下がうなずくと、署長は顔をしかめて言う。
「今となっては言っても仕方ないが、今回の場合はやはり直ちに動画の公開をやめるべきだった。だが、半月に渡って彼女に身辺警護を付けて、あのNPOを洗ったが、あの団体に危険な要素は全く見つからなかった。狂信的な信奉者がいる可能性もなかった。そこで身辺警護は解除したが、彼女の所属するユーチューバーの芸能事務所みたいな会社の付近に、さらに10日、定期的に警護をさせた。もう大丈夫だろうと、その警護も解いた、その二日後にあの事件が起きた」
「では、犯人はあのNPOとは無関係だと?」
「あの事件が起きてすぐ、わが墨東署も極秘でもう一度あの団体は洗い直した。現時点での判断はシロだ。あのNPOが事件に関与したとは考えられない」
署長との面会を終え、宮下が墨東署を出て駅に向かっている途中で、スマホが振動した。丹波からの電話だった。宮下が通話に出ると、興奮した口調の丹波がまくし立てた。
「もしもし、先輩、大変です。自分があの硫酸事件の犯人だと言う人物が、出頭して来ました。墨東署ではなく、警視庁本庁に直接来てるんです」
「どんな男?」
「それが、女です。30代の、女性なんです」
1時間後、宮下と丹波は取調室のマジックミラーの向こう側で、女性警察官がその出頭してきた女から事情を聞く様子を観察していた。
取り調べの警察官が言う。
「あなたが夏野原エリカさんを殺害した、それは本当なんですか?」
その女はうすら笑いを顔に浮かべて答えた。
「ええ、そうよ。あたしがあの女に天罰を下してやった」
「仮に、あのユーチューバーに何か違法行為があったとしても、まずは警察に告発するのが筋じゃありませんか?」
「その警察はあの女の味方じゃない! 全日本フェミニスト騎士団が正式に抗議までしたのに、ぬけぬけとあの女のいかがわしい動画を流し続けたんでしょ? 警察が悪人を裁かないから、あたしがやったのよ」
「あの動画に違法な点があったと感じたんですか?」
「そんな物見てないわよ。けど、女性の味方であるあの団体がそう言ってるんだから、そうに決まってる」
マジックミラーの背後で、丹波が宮下にささやいた。
「彼女には、死亡したのがマネージャーの方だという事は知らせてないんですか?」
宮下は腕組みをしてうなずいた。
「あまりに異常な事件だから、被害者の身元などはまだ公表してないのよ」
取調室内では、取り調べ係の女性警察官が質問を続ける。
「ではあなたが殺害したとして、どうやって殺害したんですか? 凶器には何を使いました?」
「悪人に天罰を下す力を手に入れたのよ」
「それは具体的には何です? たとえば、銃とか?」
「悪人の上にだけ聖水を降らせる、目に見えない何かよ。それが何かはあたしも知らない」
「言っている意味が分かりませんが」
「だから、きっと神様が特別な何かをあたしに与えたのよ」
しばらく後、宮下と丹波は、さっき取り調べにあたった女性警官と同じ取調室で向かい合って座って話をした。女性警官が資料のコピーの紙を二人に渡しながら説明した。
「出頭して来た女性は、青山涼子、36歳、住所などはそこにある通りです。この身元は確認してあります」
宮下が鉛筆の尻で自分の額をトントンと叩きながら言う。
「彼女の供述について、どう感じました?」
「辻褄は合っているとは思います。凶器が目に見えない天罰を下す何かだという点以外は」
「動機については?」
「実は青山涼子の名前が、過去の神奈川県警の記録にありました」
「前科があったんですか?」
「いえ、前科ではなく、被害者としてです。3年前に横浜郊外で起きたレイプ事件の被害者なんです、彼女は」
丹波が音を立てて息を呑んだ。
「それで今回の一連の騒動を見て、夏野原エリカを殺害しようと決意した。そういう事ですか?」
だが女性警官は首を横に振った。
「青山涼子は、前後のいきさつを完全には把握していません。夏野原エリカについてもあまりよく知りませんでした。ただ、あのNPOの抗議文にあった、『性犯罪を誘発、助長、奨励する懸念』という文言に過剰反応したようですね」
「彼女は今どこに?」
「署内の来客室です。一応見張りは付けてありますが」
「拘留しないんですか?」
これには宮下が答えた。
「できないわよ。仮に彼女の言う事を警察側が信じるとしても、物証が何もない現状では、裁判所が逮捕令状を出す事はあり得ない」
結局警視庁は、青山涼子を処分保留として一旦釈放せざるを得なくなった。ジトジトとした雨の降る夕刻、彼女が警視庁の玄関を出るや否や、近くに潜んでいたマスコミの記者が数十人、彼女を取り囲んだ。
玄関の内側でその様子を見ていた丹波が舌打ちして、宮下にささやいた。
「マスコミの連中にかぎつけられていたんですか?」
宮下も顔をしかめながら応える。
「警視庁記者クラブが探りを入れていたらしいわ。ネットにも憶測だらけの書き込みがたくさん出ているしね。明日あたり、広報部が記者会見を開かざるを得ないでしょうね」
記者たちは青山涼子を取り囲んでICレコーダーを突きつけ、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「あなたがユーチューバー殺害の犯人というのは本当なんですか?」
「動機は何なんです?」
「どうやって殺害したんですか? 方法は?」
青山涼子はビニール傘を斜め後ろに傾け、カメラのフラッシュを浴びながら得意そうな顔で、嬉々として答えた。
「あたしには悪人に天罰を下す、神秘の力が与えられたのよ。あたしがやった事は正義なの。だから、ほら、警察もあたしを逮捕できないでしょ?」
記者の一人が食い下がる。
「天罰とは一体何です?」
青山涼子は笑いながら、視線を上に向けた。
「見せてあげましょうか? これよ」
周りの雨音とは異質な、ボタボタという音が地面に響いた。歩道の植え込みの葉っぱがジュッと音を立てて焼けたようにただれる。
「これが天罰の聖水よ。二度とあたしのような性犯罪の被害者が出ないように、あたしが警察に代わってあの女を罰してやったのよ。ハハハ、アハハハ!」
次の瞬間、青山涼子の顔から笑いが消えた。彼女の傘の布地にジュッという音とともに穴が開き、彼女の髪の一部から白い蒸気が細く立ち昇った。
「な、何よ? どうしてあたしに?」
その叫び声をかき消すように、ジュッジュッという音は続き、彼女の服と体に降り注ぐ液体が、肉を焼き薄く細い白煙のような蒸気を上げる。
青山涼子は傘を投げ捨て、顔を覆い、悲鳴を上げながら車道に向けて走り出す。異変に気付いた宮下と丹波は玄関から飛び出した。宮下が青山涼子に向かって叫んだ。
「そっちへ逃げちゃダメ! こっちへ、屋内へ!」
だがパニックに陥った彼女は車道に飛び出し、急ブレーキで停車した車数台に囲まれる形になった。
彼女の全身にはさらに白煙が立ち、もはや立っていられず車道のアスファルトの上に突っ伏す。硫酸の雨はさらに倒れた彼女の体を焼いて行く。
近づく事ができない宮下は、彼女が倒れている地点の上空に目を凝らした。すると、何もないはずの空間に奇妙な歪みがある事に気づいた。
6~7メートルほど上空の空間に、楕円形の、そこだけグニャリと景色が歪んだような何かがあった。
宮下は周りの人間たちを素早く見渡した。マスコミの記者たちは怯え切った表情で、現場から距離を取り、遠巻きに見つめている。
そのやや後方に、ボサボサした髪形の中年の痩せた男がいた。一か所骨組みが折れてへこんだ安物の傘をさし、全く怯えた様子のない表情で、ぴくぴくと痙攣している青山涼子の姿を遠めに見ている。
だらしない服装からして記者とは思えなかった。宮下は相手に気づかれないように人込みの後ろから回り込んで、その男の背後についた。
男はやがて何事もなかったかのように、ゆっくりと歩いてその場を去る。宮下はすぐ横にあったコンビニに飛び込んでビニール傘を買い、その男の尾行を開始した。
男は地下鉄に乗り、郊外の住宅地で降りた。駅から歩いて15分ほどの二階建ての安アパートの部屋へ入って行く。
宮下は住所とアパートの名前、その部屋の番号を手帳に書き留め、一旦警視庁本庁に戻った。
男の身元はすぐに判明した。田上吾郎、39歳、独身。職業は派遣社員。北関東の出身で都内の私立大学を卒業した後、派遣会社に登録。それからずっと派遣の仕事を転々としてきた。
「就職氷河期世代ってやつですかね」
会議室で所轄の刑事たちから宮下と一緒に説明を受けながら、丹波がつぶやいた。
「何か過激な組織とのつながりはありますか?」
中年の刑事が応える。
「いえ、仕事の時以外はほとんど家に引きこもっているタイプのようで、特定の政治団体やその他の組織とのつながりは全く確認できません」
宮下が訊く。
「夏野原エリカとの接点は?」
やや若手の刑事が口ごもりながら言う。
「あると言っていいのかどうか……」
「何か不審な点でも?」
「いえ、この男、夏野原エリカの熱烈なファンだったようなんです。以前の派遣先の従業員が口をそろえてそう言ってました。彼女がまだ無名のご当地ユーチューバーだった頃から、休憩時間などに暇さえあれば彼女の動画を熱心に見ていたと」
丹波が首を傾げて言う。
「青山涼子が夏野原エリカを殺害したという話を真に受けて復讐したという事なのか?」
宮下がすかさず言う。
「それだと最初の事件との辻褄が合わない。最初の被害者は夏野原エリカ本人と間違われて襲われたはずよ。犯人が復讐までする狂信的なファンなら、最初の襲撃は起きなかったはず」
全員頭を抱えてしまった。とりあえず田上を監視する事にして、会議はお開きとなった。
その夜、田上は夜更けにアパートに自室を出た。そのまま夜道をぶらぶら歩き、近くの公園に入る。
田上がしばらくそこに立っていると、直径1メートル、厚さ50センチほどの歪んだ景色が彼の頭上に現れた。
彼はかすかな声で独り言を言った。
「これがあの女が言っていた天罰を下す道具か。どうしてあそこから俺について来たのか知らないが、今は俺の味方なんだな。エリカちゃん、俺が仇を討ってやるよ。君を傷つけた奴らは俺が罰してやる」
田上はすぐに自分のアパートへ戻り、その透明な物体は彼の頭上10メートルの上空を漂いながらついて来た。だが、その物体は密かに尾行していた刑事の目には見えなかった。
刑事は電柱の陰に入り、スマホで連絡を入れた。
「例の参考人ですが、自宅に戻りました。30分ほど外出しましたが、公園を散歩しただけのようです。誰とも接触していません。はい、はい、了解です。引き続き監視を続行します」
翌日の午後3時、警視庁記者クラブの主催で今回の事件に関する記者会見が行われ、今まで公表されていなかった事件の概要が記者に説明された。
犯人と犯行の方法は未だ不明である事、狙われたのはユーチューバー夏野原エリカである可能性が高い事、最初の被害者は夏野原エリカ本人と誤認されて襲われたと推定される事。
事の発端が墨東警察署が夏野原エリカを交通安全PR動画に起用して事であり、全日本フェミニスト騎士団の抗議文が関係している事など。
ネット媒体を持っているマスコミ各社はただちに事件の概要を速報した。独立系のネットメディアはより長文のニュースを流した。
所轄の刑事から宮下のスマホに連絡が入ったのはそのすぐ後だった。宮下が低くつぶやく。
「田上が動いたんですね」
宮下はスーツの上着を引っ掛け、透明なレインコートを2枚つかんで丹波に声をかける。
「丹波君、行くわよ。ビデオカメラを忘れずに」
放り投げられたレインコートを受け止めながら丹波が訊く。
「それで、どこへ?」
「全日本フェミニスト騎士団の本部事務所。週刊誌やネットメディアも含めて、記者が集まり始めている。田上もそこへ向かっている可能性が高いわ」
全日本フェミニスト騎士団の事務所の中では、理事長と40代の副理事長が押し問答をしていた。副理事長は必至の面持ちで理事長に詰め寄った。
「こうなったらこちらの非を認めて謝罪しましょう。団体の存亡に関わります」
だが理事長は年下の副理事長をにらみつけて言った。
「あたしらは社会正義のために活動してるのよ。なんで謝罪なんかしなきゃいけないの?」
「あのユーチューバーに関して、事実誤認があったのはその通りじゃないですか。外に集まっているマスコミの記者の数を見て下さい。30人は下りません」
「はああ、まだまだね。いいわよ、あたしが記者連中にガツンと言ってやるわよ。こちらには何の落ち度もございません、ってね」
しとしとと雨が降る中、理事長が傘を広げて出て行くと、副理事長はドアを閉め、いつもの癖で反射的に内側から鍵をかけた。
事務所の前の駐車スペースに理事長が姿を現すと、記者たちが群がって取り囲んだ。ICレコーダーを突きつける。
「夏野原エリカというユーチューバーがらみの事件の発端になったのが、こちらの団体だというのは本当ですか?」
理事長は傘を手に持ちながら、傲然として態度で答える。
「当団体が墨東署に抗議文を提出したのは事実です。ですが、当方には何の落ち度もないと考えています」
女性の記者が詰問調で訊く。
「彼女の事を、性犯罪を誘発する存在とまで表現し、それをネットで公開したのは行き過ぎだったのではありませんか?」
「事実でしょ?」
「主観が混じっているのでは?」
「あたしはもう40年以上、女性の社会的地位の向上、男女格差の是正のために活動し続けてきたんですよ。主観とか、そう感じるのは、あなたが男社会の価値観に毒されているからじゃなくて?」
少し離れた場所でそのやり取りを見つめている宮下と丹波は、しきりに周りを警戒していた。丹波が先に見つけ、宮下に耳打ちする。
「先輩、現れました。あそこです」
丹波の視線の先に、一か所骨組みが歪んだ傘をさした、よれよれのジャージの上下を着た田上の姿が映る。
「丹波君、ビデオカメラを」
「もう回してます」
田上は記者たちの輪から10メートルほど離れた道路の反対側の端に立ち、無表情に理事長と記者たちのやり取りを見つめた。
不意に理事長がか細い悲鳴を上げた。
「きゃ、何よこれ?」
理事長の傘の布地に次々と丸い穴が開き、彼女の顔が苦痛と恐怖で歪んだ。理事長の上半身の服にも焼け焦げたような穴が開き、肉が焼ける異臭が記者たちの鼻を突いた。
記者たちが悲鳴を上げて後ずさり、理事長は次々に体に刻み付けられていく赤黒い傷口を呆然と見つめ、ドアから事務所内に逃げ込もうとする。だが、ドアは内側から施錠されていた。
ドアにもたれかかって座り込む理事長の体に硫酸の雨は絶え間なく降り注ぐ。宮下は彼女の頭上に目を凝らした。5メートルほど上の空間で、景色が奇妙に歪んでいる。
宮下は、理事長がのたうち回っている場所のすぐ隣の低層ビルに、工事用の足場があるのに気づいた。その場から走り出し、足場の梯子を這い上る。
可能な限り高い位置にたどり着くと、宮下は来ていたレインコートを脱ぎ、理事長の上の空間に向けて放り投げた。
レインコートが広がって歪んだ景色の上に覆いかぶさると、バチバチという激しい音がして、歪んだ景色が消えた。
そこには直径1メートル、厚さ50センチほどの円盤状の物体が、宙に浮かんでいた。記者たちもそれに気づいた。
「何だ、あれは?」
「UFOか?」
理事長がぐったりとして動かなくなったのを見届けたかのように、その円盤は横に滑ってその場を離れ、またスウッと姿を消した。
救急車のサイレンが近づいているのを確認して、宮下と丹波は密かにその場を離れた。
その夜、もう何十回も丹波が撮影した動画を見た後、宮下はため息をついてつぶやいた。
「お手上げね。犯行に使われた道具は見当がついた。でも、田上がそれを操っていた事は証明できない」
丹波も頭を抱えて言った。
「何度見ても、ただあそこに突っ立っていただけだ。リモコンとか、そういう物が何も見当たらない」
「唯一の収穫はあの画像だけね」
丹波が、あの円盤が映った画面をスクリーンに映し出す。それは上がこんもり盛り上がった形の円盤で、上部の中心から外に向かって広がる格好の4枚の三角形の翼のような物がきっちり90度の角度で配置されている。
「これは一体何なんでしょう?」
そう問う丹波に宮下が応える。
「あくまで可能性としてだけど。どこかの軍事大国が開発した新兵器が、何らかの理由で外部に流出した。それをテロリスト集団が手に入れたけど、これも何かの手違いで紛失し、青山涼子や今回の田上の所有するところとなった。他にシナリオ思いつく?」
「あの円盤の画像はネットで公開して情報提供を呼び掛けています。もっとも警視庁のサイトに寄せられているのは、いたずらのでたらめ情報ばかりですけどね」
その時内線の固定電話が鳴った。宮下が受話器を取る。
「はい、宮下。え? はい、はい、つないで下さい」
宮下が受話器を持ったまま丹波に言う。
「あの物体に関する情報提供があったそうよ、電話で」
電話の回線が切り替わる。宮下が話す。
「はい、こちらで伺います。は?」
宮下が大声を上げたので、丹波がぎょっとして受話器を見る。
「目撃したではなく、そこにある、そうおっしゃったんですか? 失礼ですが、あなたはどちらの? ええ?」
また宮下が大声を上げた。
「考古学研究所?」
翌日、宮下と丹波は新幹線で関西地方にある、その考古学研究所へ向かった。白髪の所長に案内されて、かび臭い倉庫へと入って行った。
いかにも研究者という雰囲気の男性は、厳重に梱包された木箱を開き、油紙で何重にも包まれた大きな物体を取り出した。
油紙を全て取り去ると、円盤状の物体が現れた。それは、団体の理事長が襲撃された現場で撮影された、あの物体と瓜二つだった。
所長の許可を得て、宮下と丹波は白い手袋をはめ、その物体の表面に触れてみる。明らかに金属製で、未来的と言っていい形だった。興奮を隠しきれない丹波が所長に訊く。
「これは一体何ですか? どこで見つかったんです?」
所長は困惑した表情で答えた。
「見つかったのはもう20年前です。奈良県の小規模な古墳から発掘された物で」
「今まで存在を公開していなかったんですか?」
「はあ。公開できない訳がありまして。これは俗に言うオーパーツなんですよ」
宮下が眉をひそめて尋ねる。
「オーパーツとは何の事ですか?」
「理論上その時代には存在するはずのない、発掘物の総称です。その物体に付着していた土などを、放射性炭素の年代測定にかけたら、約1万4千年前の物という結果が出まして」
「1万4千年前?」
「日本列島では、旧石器時代と縄文時代のちょうど境目にあたる時代です。金属で出来た、こんな機械らしき物がその時代に存在するはずもない」
「それで今まで存在を公表していなかったと?」
「まあ、何かの間違いや考古学マニアのいたずらという可能性もありますし。こんなオーパーツを学会で公表しても笑い物になるだけですからな」
「ですが、今回の一連の事件が起こっている間、これはこの場所にあったのでしょう?」
「実は二つあったんです」
「二つ?」
「もう1個、全く同じ形の物がありました。これは1年ほど前ですが、そのもう1個が突然行方不明になったんです」
「盗まれた、とかですか?」
「この研究所の守衛が、空を飛んで行ったと、当時証言しておりました。まあ、勤務終了後に一杯やっていた時の話なので、酔っ払いが幻覚でも見たのだろうと思っていたんですが、今回警視庁から公開された画像を見て、あの時のもう1個である可能性が高いと判断しまして」
宮下はしばらく円盤を見つめて考え込んだ後、また所長に訊いた。
「その古墳はどういう由来の物ですか?」
「一般の方にはそうとは気づかれもしない、ちっぽけな物です。それ自体が5年前の豪雨で流されて無くなってしまっております。そうそう、その物体が発見された空間の壁に描かれた壁画らしき物の写真もあります」
所長が木箱から古ぼけた印画紙を取り出す。壁画というよりは、子どもの落書きのような荒っぽい線画が映っていた。
そこには、妙に表面がツルツルした印象の人影があり、その頭上にこの円盤と同じ形の物体が宙に浮かんでいるように見える。円盤から何本もの細い線が斜めに描かれていて、反対方向に走る動物らしき姿が一体見えた。
丹波が写真を見ながら言う。
「これは犬?」
所長が答える。
「ニホンオオカミかもしれません。この時代にはたくさんいたでしょうから」
宮下も写真を見つめながらつぶやいた。
「この人物を、円盤が猛獣から守っているように見えますね」
所長は苦笑しながら言った。
「オーパーツ好きのオカルトマニアならそう言うでしょうな。太古の昔に地球を訪れた宇宙人が置き去った物。あるいは超古代文明の遺物でしょうか。しかし、私どもはあくまで考古学者なので」
宮下は立ち上がり、所長に一礼して頼んだ。
「これをしばらくお借りできないでしょうか。帝都理科大学で調べてもらいたいんです。運搬の手配と費用は警視庁が全額負担します」
数日後、東京に戻った宮下のスマホに渡から電話が入った。渡はやや息が弾んだ口調で告げた。
「宮下警部補、ありゃとんでもない代物だ。工学部の教授が調べていたら、何かの弾みで硫酸を吹き出したそうだ。あやうく実験室の床に穴が開くところだったとさ」
その日の日没後、宮下と丹波は大学の渡の研究室を訪れた。渡から渡された缶コーヒーを飲みながら、渡の考えを聞く。
「何もかも推測と仮説に過ぎんが、一つだけ科学者として断言できる事がある。現在の人類の科学技術の水準では、あんな物を作るのは不可能だ」
予想していた言葉だったため、宮下も丹波も驚かなかった。宮下が言う。
「やはり宇宙人の置き土産なんでしょうか?」
渡はいつものようにあごひげをしごきながら答える。
「それは仮説でしかないが、そういう前提で話を進めるしかあるまい。人類の科学技術水準を超越した代物なら、脳波で動くという事も考えられる」
「脳波? テレパシーですか?」
「これまでの事件から推測すると、強い思考のパターンを読み取って、自動的に硫酸を噴射してその持ち主を外敵から守るのだろう。考古学研究所に残っていた方は壊れて動かなくなっていた。もう1台は、主人を探してさまよい、偶然、最初の事件の犯人の脳波に反応し、その持ち物として振る舞うようになった」
「だとしたら、途中で所有者を変えていますが」
「強い思念を発する知的生命体なら、誰でもいいんだろうよ。警視庁前で容疑者の女性が襲われた時、彼女よりもっと強い思念を発する人間が側にいた。あの物体は、そのより強い思念に反応して、今までの所有者である彼女に攻撃を向けた。そう仮定すれば話の辻褄は合う。あくまで推測だがね。まるで安っぽいSF小説だ」
丹波が口をはさむ。
「ですが、その思念が強いとか弱いとかは、何で決まるんですか?」
「この場合、悪意だな。あるいは敵意、殺意」
「悪意? それが基準なんですか?」
「単に強さなら、通常の感情より悪意、敵意、殺意の方がエネルギーは高そうじゃないか。その辺の仕組みも、現代科学では解明されていないが」
渡の研究室を辞し、警視庁本庁に向かって歩いていると、数人の若い男が宮下を取り囲んだ。服装からして大手マスコミの記者ではなさそうだ。うち一人が言った。
「刑事さん、話を聞かせて下さいよ。あの怪事件、どこまで分かってきてます?」
無視して通り過ぎようとした宮下だったが、その男の着ているTシャツのロゴに目を留め、振り返った。
「あなたたち、ネットメディア?」
宮下が興味を示したので、男はパッと顔を明るくさせてまくし立てた。
「はい! 大手メディアとは一線を画した、完全独立系ネットニュースメディアです。一言お願いできませんか? あ、顔はモザイク入れますし、何なら音声も加工できますよ」
「顔出しでいいわよ」
思いがけない宮下の言葉に、彼らは一瞬沈黙した。
「ほんとに顔出し、いいんですか?」
「ええ、その代わり派手に拡散してちょうだい。警視庁の女刑事から犯人へのメッセージという事で」
メディアの男たちは大急ぎでビデオカメラを調整し始めた。止めようとする丹波に取り合わず、宮下はカメラに向かってまくし立てた。
「おい犯人。あんたの目星はもうだいたいついてんのよ。どうせ、あのいかがわしいユーチューバーの画像見ながらオナニーしてるしか能のない、底辺童貞野郎なんだろ? 悔しかったらあたしと勝負しな。いつでも返り討ちにしてやっからさ」
終わってカメラを止めたメディアの男たちが、ヒューと歓声を上げる。
「刑事さん、ほんとにこれ流しちゃっていいんですか? 俺ら的にはバッチリのネタになるんすけど」
「いいわよ、派手に流してよね」
「あざーす! よし、すぐに帰って編集だ」
走り去って行くネットメディアの男たちと入れかわりに丹波が宮下の横に駆け寄る。
「先輩、何を考えてるんですか? まさか、自分を囮に?」
「大丈夫、隊長からはもう許可もらってあるの。他に方法がなくなったら、最後の手段としてこの手を使えとね」
宮下の挑発動画は瞬く間にネット上で拡散された。丹波も一般ネットユーザーを装って、宮下の挙動を探っているかのように見せかけたデマ情報を巧みに流した。
墨東署の協力を得て、一般人に危険が及ばない広い河川敷の側にある、警視庁の訓練施設に、細かく特定された日時に宮下が現れるという情報を丹波が拡散させた。
折しも雨が降り出したその時刻、宮下と丹波はその訓練施設の建物の玄関で落ち合った。丹波が気が気でないという口調で言う。
「先輩、本当に大丈夫なんですか? 相手は宇宙人か超古代文明の兵器なんですよ」
宮下は目立つように真っ赤な長傘を手に持って笑みを浮かべた。
「心配ないって。それより、ビデオカメラ用意できてる?」
「あ、いけね、控室に置いたままだ」
「早く持ってらっしゃい」
丹波が控室に戻り、カメラを持って来ると、宮下は既に傘をさして、河川敷に出ていた。急いで追いかけようとした丹波は背筋が凍り付いた。
田上が10メートルほど離れた土手の上に立っていた。宮下の頭上に歪んだ景色を移す何かが浮かんでいる。
宮下の傘の布地に次々と穴が開く。その体が崩れ落ちるように前にかがんで、やがて地面に横たわる。
「先輩!」
後を追って外に飛び出した丹波の脳裏で、何かが弾けた。ある言葉が彼の脳裏をよぎった。殺してやる!
丹波は近くにあった大型のスコップをつかんで田上に向かって走った。田上はうすら笑いを浮かべたまま丹波に言う。
「そんなもんで何が出来る? 俺には天罰が下せるんだ」
丹波の目の前の草がジュッ音と立てて変色する。かまわずスコップを振り上げた丹波の腕を後ろから誰かがつかんだ。
「やめなさい!」
その声は宮下の物だった。丹波は唖然として、後ろにいる宮下の顔と、離れた所に倒れている宮下のはずの体を交互に見つめた。
「うわっ! よせ、なぜ俺を狙う?」
田上が手で頭を覆って悲鳴を上げた。彼の体から、白い蒸気が立ち昇る。いくつかの破裂音が響き、赤い塗料が空中で広がった。円盤の迷彩を無効化し、その姿が露わになる。
どこに隠れていたのか、ライフルを構えた5人の特殊部隊の制服の隊員が一斉に銃口を円盤に向けた。
空気を切り裂く発砲音が立て続けに響き、円盤はゆっくりとふらつき始め、途中から急激に落下し、川の中に落ちたところで、数メートルの高さの爆炎を上げた。
「これはどういう事なんです?」
未だに呆然としている丹波を、宮下が引っ張って行く。傘の下に倒れている人体をよく見るとそれはロボットだった。
背後から渡が大きなリモコンを持って姿を見せた。丹波はようやく真相を悟った。
「先輩、僕をだましましたね。渡先生までグルだったんですか?」
渡はわざとらしく目を泳がせて答えた。
「私にはもっと感謝して欲しいね。壊される事を前提に、試作品のロボットを提供してもらうのに、どれだけ苦労したと思う? 工学部の教授陣1ダースに頭を下げて回ったんだぞ」
丹波がはっとして叫ぶ。
「そうだ、田上は?」
宮下が指差しながら言った。
「もう身柄は確保したわ」
数人の制服警官が田上を引っ張って行くのが見えていた。
数日後、宮下と丹波は渡の研究室をまた訪れた。青山涼子はその後、容態が悪化して死亡。NPOの理事長は一命は取りとめたが、再起不能だろうという事だった。
田上は軽症ですみ、身柄を拘束されたが、起訴できるかどうかは微妙だと、二人は上司から告げられていた。丹波はそれに納得できていなかった。
「どうして奴を起訴できないんですか? 他人に向けた悪意は、裁かれるべきでしょう?」
渡は冷静な口調で言う。
「あの円盤はより強い思念に反応すると言っただろう。君はあの時、たとえばこう考えなかったか? あの容疑者に対して。殺してやる、とか」
丹波がビクッと体を震わせる。渡はなおも言う。
「あの円盤が容疑者に硫酸を向けたのは、君のその思念を読み取ったからかもしれん。あの時、宮下警部補に止められなかったら、君も人殺しになっていたかもしれん。違うか?」
うつむいてしまった丹波に、渡はやや声のトーンを落として言葉を続けた。
「他人に向けた悪意は、裁かれるべき。理屈としては正しいだろうな。だが、そんな事を言ったら日本人全員、いや、人類全員が被告人だ。赤ん坊でもない限り、他人に向けて悪意、敵意を感じた事のない人間がこの世にいるのか?」
数日後、長雨がようやく終わり、久しぶりの快晴の空の下、宮下はたまたま墨東区の一角を通りかかった。
不自然に人垣が出来ている。消防署の前だった。不審に思った宮下は人垣に分け入り、警察手帳を見せて近くの消防署員に話しかけた。
「何か騒ぎですか? 必要なら協力します」
その消防署員は笑って手を横に振った。
「いえ、何でもありません。今ユーチューバーが撮影をしているんで、見物人が集まってしまって」
宮下が人垣の向こうを見ると、そこにいたのは夏野原エリカだった。例のへそ出しルック、ミニスカート姿でカメラに向かってしゃべっている。
「今見てきたようにね、救急車ってたった1台でもこんなにたくさんの人たちが、24時間、365日がんばっているから、いつでも来てくれるんだよ。だから、いたずらで呼んだりしちゃ絶対ダメ。119番の利用は本当に緊急の時だけ」
そして彼女はセクシーなポーズを取って、決め台詞を口にする。
「セクシー系ユーチューバー、夏野原エリカからの、お、ね、が、い。だよ!」
くるりと背を向けその場を去りながら、宮下の顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「元気になって仕事に復帰できたのね」
宮下は晴れ渡った空を見上げた。
「それが今回の事件の中の、唯一の救いだわ」