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執務室の空気は
外の静けさとは異なる緊張を孕んでいた。
白く塗られた壁、木製の書棚、簡素な机──
どこか
修道院の書斎のような印象を持つその空間で
カツリ、と書類の角を揃える音が響く。
「本日、十一名の児童が搬送予定です。
警察、病院、そして福祉課から
それぞれ連絡が届いております」
淡い栗毛をまとめ
神父服とよく似た黒衣に身を包んだ女性が
資料を手に立ち上がる。
彼女はアラインによって
この施設の〝シスター〟に選ばれ
ここでの生活と教育の責任を
一部担う立場だった。
その目は怯えも迷いもなく
ただ、役目を果たす者の
静かな光を宿していた。
彼女の差し出したファイルを受け取ると
ライエルはそっと椅子を引いた。
机に肘をつき
資料の一枚一枚に目を通していく。
──火災からの保護。
──虐待の通報による保護措置。
──親の突然死による緊急受け入れ。
年齢、性別、既往歴、持ち物、身寄り。
どの記録も淡々と記されているが
その一行一行に
静かに積もった悲しみがあった。
ライエルの目が伏せられる。
長い睫毛の影が
白紙のような頬をかすめた。
「⋯⋯こんなにも小さな子たちが
もうこんなにも深い傷を」
静かに呟いたその声に
室内の空気が微かに揺れた。
誰も言葉を挟まない。
ライエルは書類を閉じると
両手でそっと胸を押さえ、深く息を吐いた。
「過去を変えることはできないけれど⋯⋯
これからの未来は、きっと変えられる。
だから私は
一人でも多くの子を迎える準備を整えます。
もう⋯⋯独りで泣かせたりしない」
そう言って立ち上がると
彼は静かに会釈をして執務室を後にした。
回廊を渡り
石の床を踏みしめながら進んでいく。
光が差し込むバラ窓の影が
足元に色彩の斑を描いていた。
礼拝堂に入ると
そこには誰の気配もなかった。
濃い木の香りと、わずかな蝋燭の残り香。
女神像は変わらず
穏やかな表情でそこに在った。
ライエルは、木造の床に膝をつくと
まっすぐに女神像を見上げた。
指を組むことはせず、ただ額を低く垂れ
己の中に浮かぶ願いを、そのまま吐き出す。
「⋯⋯どうか、この場所が
彼らの居場所となりますように。
罰ではなく、救いを。
孤独ではなく、繋がりを。
そして何より、生まれてきて良かったと──
いつか、そう思える未来を」
その願いは、声というよりも
魂の波紋のようだった。
誰かに届くかどうかさえもわからない。
けれど、それでも彼は
祈らずにはいられなかった。
立ち上がると
バラ窓の光が彼の肩を静かに照らす。
黒衣の裾が揺れ
床に映る光の文様と溶け合う。
そして、再び静かに振り返る。
そこには
祈りの始まりと、贖罪の意思と
希望の萌芽が確かに存在していた。
ライエルは、そのすべてを背負う覚悟で
礼拝堂を後にした。
もう間もなく、小さな命たちが
この場所に足を踏み入れる。
この空間がただの〝器〟ではなく
〝家〟になるその瞬間が
今──近付いていた。
⸻
鐘の音が、空に鳴った。
正午を告げる一打が
尖塔の奥から広場へ、街路へ
坂の下の通りへと染み込むように響き渡る。
その音が最後の一音を残した時
黒衣の男がゆっくりと
正門の前へと歩み出た。
ライエルの目は細く
けれど確かに開かれていた。
礼拝堂で祈りを捧げた後も
その瞳に宿る影は消えなかったが──
今は違う。
ただ静かに、強く
彼は〝この門の先〟を見つめていた。
門の向こう
石畳の坂道を
数台の車両が登ってくる音が聴こえる。
そのうちの一台がゆっくりと停まると
運転席から福祉課の職員が降りてきて
慎重に後部ドアを開けた。
その中には──小さな命たちが居た。
初めに降りてきたのは
七歳ほどの少年だった。
首元に傷の痕があり
髪は少し伸びすぎて目元を隠している。
だがその瞳は、恐れを抱えながらも
必死に前を見ようとしていた。
続けて、三人ずつ──
病院の看護師に連れられた子
警察署から保護された幼い姉妹
泥だらけの服のまま座席に丸くなっていた子
十一人。
それぞれが、違う傷を抱えて
違う理由で、ここへ辿り着いた。
だが皆、同じように
〝何も知らない〟怯えた顔をしていた。
この場所がどんなところなのかも。
出迎える人間が、敵か味方かも。
そして、これからの未来が
どれほど変わるものかも──
ライエルは、一歩だけ前に出る。
「ようこそ──
皆さん、よく来てくれました」
その声は穏やかで
どこか母性に近い温度を持っていた。
黒い神父服を着た青年の姿に
子供たちは最初、戸惑いを見せた。
誰かが後ろに隠れ
誰かが地面を見つめ
誰かが職員の裾を掴む。
ライエルは、ゆっくりと膝をついた。
大人の目線からではなく
彼らと同じ高さに──
世界を、まっすぐ見つめるその位置に
自らを沈める。
「ここは、怖いところじゃありません。
皆がゆっくり、安心して、眠って、笑って
生きるための家です」
風が吹き
回廊の柱に吊るされた小さな鈴が
ちりんと鳴る。
「名前を言いたくない子は
言わなくてもいい。
大人が嫌いな子は
少しずつ距離を取って構わない。
ただ一つだけ──
ここでは、あなたの命が
何より大切にされる。
それだけは、約束します」
言葉を選びながら
丁寧に紡ぐように告げたその声は
子供たちの中の小さな芯に
ゆっくりと染み渡っていった。
最初に動いたのは、先頭の少年だった。
一歩、踏み出した。
ライエルの手に向かって
小さな手が伸ばされ──
触れた。
続いて、少女が二人、男の子が一人。
言葉なく、それぞれのペースで
一歩ずつ、門をくぐっていく。
アーチ門の向こう
初めて踏みしめる石畳の感触に
泣き出す子もいた。
だが、誰一人として引き返さなかった。
建物の中では
シスター役の女性スタッフたちが
それぞれの荷物を受け取り
服のサイズを確認し
体調の有無を確認する。
それらの動きもすべて
過不足なく、過干渉もなく
ただ〝迎える〟ためだけの所作だった。
ライエルは最後に門を潜った
十一人目の子供の背に手を添えると
低く囁いた。
「今日が、あなたの新しい誕生日だ。
ようこそ、ノーブル・ウィルへ──」
その言葉が
静かに礼拝堂へと届いた気がした。
女神像が、祝福するように見えたのは
きっと気のせいではない。
広場には、再び鐘の音が鳴り響く。
それは新たな祈りの始まりを告げる音。
この場所に
初めて〝命の音〟が宿った瞬間だった。