待ちに待った土曜日がやってきた。
場所はもう、覚えている。ドアを開いた百瀬が出迎える。「いらっしゃーい」
「なぎちゃん!」
「はーちゃん!」
ぎゅう、と抱き合うさまにたちまち双方の親から笑みがこぼれる。……そして百瀬の瞳の奥にたぎる情欲を聡美は見逃さない。……抱かれたい。
抱きたい……。
「荷物、持つよ」一旦その炎を収束させると、百瀬が聡美のスーツケースに手をかける。「結構、重たいね……。来るの大変だった?」
「あ。いいえ」靴を脱ぎながら聡美。「がらがら引くだけなんで楽でした。美凪も手伝ってくれましたし……」
「そうなんだ」うし、と荷物を持ち上げると「スリッパ履いて?」と部屋へと運んでいく。客間らしいそこには畳んだ布団が出されており、……改めて『泊まるのだ』と、その事実を思い知らされる聡美である。
引き返すならいまのうちよ……。
臆病でペシミスティックな聡美が胸のうちでささやく。やばい男だったらどうするの……前の夫みたく変な男だったら。
だが気丈な聡美がその不安を打ち消す。不安に囚われてばかりいては前に進めない。あんなにも……こんなにも我慢して愛しこんでくれたあの百瀬。一度肌を合わせただけでその想いの深さは伝わった。愛していない相手にあんなことを出来るはずがない。
美凪に手を洗わせ。一緒にアニメを見させていると、「ちょっとトイレ」と百瀬が腰を浮かす。……聡美もその場を離れた。二人きりにしておいてもう大丈夫な年齢だ。己のうちを走る欲望に素直になる……そういう時間も大切だと彼女は思った。
「……ん。ん。んん……!」
――このひとの愛し方があたしは好きだ。
百瀬の腰遣いに身を委ねる聡美は、恍惚の涙を流す。
(ああ……もう、おかしくなっちゃう……)
百瀬の背中に爪を立て。しっかりと彼の作り出すリズムを全身全霊で味わう。自分は紛れもない女なのだと――思い知らされる。
すぽんと。百瀬がタオルを外した。そして――聡美の唇を貪る。
ふたつの口を一気に責め立てられる聡美は、意識が飛びそうだ。やわらかく深く、百瀬という男を受け入れる自分という存在。
はっきりとした意識のなかで。自分の舌を探す百瀬の欲望を胸のうちに感じていた。愛という塊を注ぎ込まれ、聡美のなかは十分に熟している。思い切って。
聡美のほうから腰を振ってみた。――ああ、いい……。
「あん。あん。ああん……」もう、我慢など出来なかった。したくもなかった。百瀬の作り上げる愛という檻のなかで、乱れ狂う自分は、野蛮で。従順で。
己の欲望を解き放つ恋人たちを阻むものはなにもなかった。愛という神聖なる真実を目の前にして、恋人たちはあまりにも正直だった。
戻っても子どもたちはテレビ画面を凝視しており、少々の罪悪を感じるとともにほっとした聡美であった。……気づかれなくてよかった。
右手のキッチンで百瀬が飲み物の用意をしており、「紅茶がいい? それともコーヒー?」
「じゃあ……コーヒーで……」
聡美が座ってしばらくするとマグカップ二つで手の塞がった百瀬がやってきた。「さとちゃん、ブラックで良かったよね? ミルクやお砂糖は要らない?」
「あ……ブラックで……」
「はいどうぞ」
「……ありがとうございます」
ことん、と置かれるカップ。聡美がそれに口をつけると、――美青年が彼女の挙動を見守っていた。目を合わせ、微笑むと、
「やーなんか見とれていた。……本当に、現実なのかなあって……」
聡美は黙って首肯する。と、青年が胸のうちを打ち明ける。「あなたのことはすごく大切で……葉月のことも勿論大切なんだけど……それとは別の意味で、なんかぼくが主体的に幸せにしてあげたい! ……て感情が沸いてきて……」
滑り落ちるのはごく自然な台詞だった。――ぼくたち。
一緒に居よう。ずっと……。
聡美の目の奥から涙が沸いてくる。求めていた言葉だった。欲していた台詞だった。その流れに抗わず「はい」と答えると、もう――彼の腕のなかだった。
百瀬の匂いを体温を確かめながら味わうそのときが、聡美にとっての幸せだった。
「やー。ほんとなんだよそれ。まじで。……んでまあ、ぼくてきにはナシだから、友達に頼って断って貰ってさ……そーゆー場面でひとの力を使うのは好きではないんだけど。なんかまぁ、思い込みが強い感じのひとでねぇ」
それからしばらくダイニングにて。トークタイムを楽しむ二人である。議題は。
見目形のいい百瀬がモテないはずがない。それまで女性につきまとわれたことはあるのか? と問うと、予想通りの反応が返ってきた。
「休日は帽子被って眼鏡かけることもあるよ。特に、遊園近辺を歩くときとか……けどま」にっこりと百瀬は笑い、「どのみち顔バレしてんだけどね……SNSでウォッチされてんのか、偶然入ったカフェで『写真撮ってくださーい』って声かけられたこともあるよ」
――それじゃあまるで芸能人だと。
百瀬自身はそうした話は自慢話にもなりかねないため自重しているのだが。しかしながら彼は聡美を伴侶として選んだ。隠し事をしてはならないとの判断で打ち明ける百瀬である。
「大変なんですね……いろいろと」同情する聡美。まぁね、と頷くけども百瀬は、
「有名税みたいなもんだね。仕方ないよ。本も出してるし顔も出してるし……」さとちゃんには。
と、テーブルに手をついて頭を下げる百瀬は、
「不自由な思いをさせてしまうかもしれない。……ごめん」
「いいんですよ」と聡美は手を振る。「教えて貰えてよかったです。覚悟が出来ました……百瀬さんと一緒に居ることへの」
「気になってたんだけど。さとちゃんていくつ?」好奇心で目をきらきらとさせた男は、「……女性に年齢を聞くのもあれかなーとは思ってんだけど……クリアにしたくて……」
「三十八です。1980年2月生まれの……」
「じゃあ同学年だ」ぱっ、と顔を輝かせる百瀬。「んじゃあ、学生時代にイエモンとかスピッツとか聴いていた世代?」
「――告白すると」と聡美は首を傾げ、「週刊少年漫画、毎週購入しています……」
「わーすごい気が合いそー」……というか、と青年は言いなおし、「ぼくたちの気が合うってことはぼくたち自身がよく分かっている……そのはずだよね」
頬杖をつく百瀬がなにを示唆しているのか。瞬間的に聡美は理解した。子どもたちの目を盗んで繰り広げられた、真昼の情事。……
頬を染めた聡美が沈黙すると、可愛いねえ、と百瀬が聡美の頭を撫で撫でする。
「んもう。子ども扱いして……」
「きみが子どもじゃないのはぼくがよく分かっているよ」
「んなっ……」炸裂する爆弾に聡美はくらくらする。この美青年。とんでもない……。
「ああほんと、さとちゃんてからかい甲斐がある。楽しい……」
と百瀬は会話をまとめあげた。
「ああ……鍋。いいですね。冬はやっぱ鍋ですね」
手際よく食材を切っていく百瀬の姿に見惚れる聡美である。隣で彼女は白菜を洗いながら、「うちは。なぎちゃんが偏食気味で。お肉とご飯ばかりで食べれるおかずが限られているもので、大人分は大体二日分作って二日連続で同じもの食べてます。鍋なんて全然出来なくって……」
「これからは毎週末食べれるよ」にっこりと笑う百瀬。「得意料理が鍋! ……ていうのも、なんの自慢にもならないかもしれないけど……」
「いえいえ鍋料理は立派な料理です」自信なさげな百瀬を励ます目的で聡美。「食材刻んで……食材刻むのって地味に大変ですよね。全部百瀬さんがされてるんですもの。立派です」
「そっかな?」
「そうです」野菜の水切りをし、子どもたちを見やれば。リビングにてそれぞれにおもちゃで遊んでいる。同じ空間を共有しているそのことに、意味がある。「……素朴な疑問ですけど百瀬さん、家庭は大事にされてるひとですよね……元から」
「んー」聡美の発言の真意を理解した百瀬は豆腐を手のひらのうえで切り、「元奥さんがあーなっちゃうまで結構仕事漬けだったな。まあ九時までには仕事終えてたけど……ほんでもま。帰ったら必ずはーちゃんの目を見る、それだけは決めていた……家事もまぁ、片親で父親が忙しかったもんだから出来なくはないし、出来る限りのことはしていたつもりだよ。休日の家事諸々はぼくの担当だったし」
「ゲームは?」一番気になることを聡美は問うてみる。「スマホでゲームとかします?」
「んにゃ。全然」と受け取った白菜をざくざく切りながら百瀬は、「据え置き機なら会社にあるから仕事終えたワートレ生が社員と一緒にプレイする、コミュニケーションの場にもなってんだよ。ぼくの思うところのゲームとは二種類に分けられる」言葉を止めた百瀬は聡美に目くばせをし、「ひとつが。ひとりで楽しむためのもの。暇つぶし目的。あなたの言うスマホゲームもそれに含まれるね。顔も知らない人間と友達になるタイプのものもこれに含まれる。
……二つ目が」
みんなでわいわい楽しむパーティーゲーム。
実際に傍に居る人間と、二人以上でプレイする代物。
「ぼくはこれに対しては必ずしも否定的ではない。まあ飲み会や部活の延長みたいなもんだね。……ワートレ生のこころの癒しになってるからね。帰宅して仕事の話出来る相手も居ずってやっぱ寂しいじゃん。そこ乗り越えるのがぼくたちのミッションだからさ。人生ゲームやトランプでもいいんだけど、やっぱスマブラやマリオパーティのほうが格段に盛り上がるんだよね。熱気が半端ない」
「……前者については、百瀬さんはどのようにお考えで」と聡美が問うてみると百瀬は、
「はっきり言って『無駄』だよね」
意想外な発言に聡美は面食らう。聡美自身、夫のゲーム依存が原因で離婚はしているが、ゲームを毛嫌いするわけではない。ハマる側の心理はよく理解しているつもりである。
次々食材を切り分ける百瀬は、ばっさり、
「……RPGなんかこと顕著だけど。ゲームって所詮他人の作り上げたご都合主義の世界観に酔いしれているってだけじゃない。例えば読書であれば作者の意図と合わない部分は無視すればいいけれどゲームの場合はそれが許されない。
何百時間も費やした割りには得られるものがあまりに少ない。……それが」
ぼくがゲームをやらない理由だ。
綺麗に大皿に食材を並べていく百瀬は、
「あの手のゲームに依存する人間てのは、他人をあーだこーだ型に当てはめる傾向にあるよね」聡美の当惑に気づいてか説明を加える百瀬。「ちょっと接しただけで他人のことを分かったような気になって……それが勘違いだとか誤解だとか知らずに。
いまって、電車んなか見るとみーんなアプリやってるじゃない。ゲームかSNS。
あれ見ててぞっとするときがあるよ。……例えば、妊婦さんや、子ども連れで大変そうな親御さん、お年寄りには一切目をくれず、自分たちの『思い込み』で成り立つ世界観に酔いしれちゃっている。
都合が悪いことがあればすーぐ友達にメッセ。あれキモウザ……そんな簡単な一言で片づけられる問題ばかりじゃないよ世の中、……て言いたくなる……これ」
おじさんの思い込みなのかな。
片目をつぶって見せる百瀬に、「そんなことないです」フォローに回る聡美。「あたしは……ゲーム自体の存在意義は否定しませんが。でも家庭を……大切なものを顧みずに没頭するのは正直どうかと思います……電車のなかで見る限りゲーム依存予備軍て多いですね」
「――前の旦那さんとはそれで別れたの?」
直球ストレート。
ど真ん中に投げ込まれ、聡美は微苦笑で応じる。「仰る通りで……一緒にゲームにハマるとか旦那さんが『抜ける』のを待つとか……いま思えばいろんなアプローチがあったと思うんですけど……でも当時の自分はそんな余裕なんかなかったです……」
「そりゃそうだよ」手を止めた百瀬。まっすぐ聡美を見据え、「親は、子育てという大仕事をしているんだ。一緒にゲームになんかかまけたら子どもの命が危ない」……その言葉で聡美は理解した。このひとは。大切なものを放り出して、ひとりだけ別の世界観に酔いしれる、そんな暴挙を働く男ではないと……。
「あたし……なんか」そっと百瀬に寄り添う聡美。「百瀬さんと出会えてよかったです……」
聡美の肩を抱き寄せる百瀬は、短く聡美の鼻の頭にキスを落とし、かるく笑った。「百瀬さんじゃちょっと寂しい」
「……あ」そうだ。そうなのだ。これから一生を共にしていく相手を、いつまでも苗字で呼ぶのは味気ない。……じゃあ。
「晴生さん……」
からだを彼のほうに傾けると彼の熱っぽい抱擁が待っていた。彼のうでのなかにいると自分がとても大切なもののようになった……そんな気がする。
「野菜切りまくった手で言うのもなんだけど」こつん。聡美と額を合わす百瀬は、「……セックスしたいな」
「喜んで」
姫抱きで別室に運ばれていた。ひんやりとした初秋の空気が彼女を出迎える。だが――寒くはなかった。すぐに彼女は百瀬の愛情であたためられていた。
素肌を熱っぽくなぞる男の手の動き。熱い――舌。ためらわずに彼女の輪郭をたどり――やがて。
彼女の隠し持った、男を欲してやまない部分に触れると、ためらいもなく己の欲動を伝えた。――愛している。
「ああ、あたしも……」
ひとつになって。愛を確かめ合うと、いままでに感じたことのない情愛が胸のうちからあふれた。愛を与えられ女は潤う。こんなにも素直に……。
「なぎちゃんもお肉食べるー」
それからダイニングにて夕食タイム。ひとつ年下の葉月がもりもり食べる姿に触発されたのか。いつもは欲しがらない大人のおかずを欲しがる美凪。戸惑いつつも聡美は、
「……鶏肉食べられたっけなぎちゃん」
「食べれるもん! ちょうだい!」
「……分かった。先ず一個ね」
やった、と皿に移されたお肉を箸で摘まむとばくり、――美味しい!
「えっほんと? ほんと?」
んー。と頷く美凪に、「じゃあ、白菜とか食べてみる?」
ぶんぶん。
そこはハードルが高かったらしい。思い切り首を振るさまに皆が笑った。「まあ……鶏肉食べれるようになっただけ一歩前進。はるちんの腕が鳴るねえ」
そこで美凪が箸を置く。――大人のちょっとした言葉の真意に、気づけるようになったのだ。我が子の成長を見守る聡美は、
「ちゃんとお話しておかなくちゃね」
「うん」そして百瀬に任せることにした。いろんなことを語り明かして肩の荷がすこしおりた、その感覚を味わいながら、聡美は百瀬の台詞に耳を傾ける。――ぼくとさとちゃん、なぎちゃんはーちゃんの四人で。近い将来。
「一緒に住もうと……そう思っている。ぼくとさとちゃんは」
――結婚します。
歓声があがった。料理そっちのけで互いの元に走り込み、やった! やった! と喜び合う子どもたちの姿……。
聡美は涙を拭った。そんな聡美の肩をやさしく抱く百瀬……。このひとと出会えて本当によかった。
「辛いことが四分の一。嬉しいことは四倍だから……これからもっと、もっと楽しくなるよ……」前夫への憤怒を明かしたわけではないのに、看破したように百瀬。「だからさとちゃん」
いっぱい、『仲良く』しようね……。
含みを持つ発言に「なっ」と顔を赤くする聡美。その反応をくすくす百瀬が笑う……もうこの手のからかいには慣れっこのはずなのに。いつまで経っても慣れることが難しい。それは。
百瀬だから。
他の誰でもない、百瀬だから。飽くることなくときめきを欲し、彼女の欲するものを与えてくれるこの男だから辿り着ける境地。
「さあ、食べましょう」今度はくすぐりあう子どもたちに声をかける聡美。「お鍋、せっかくあっためてるのに、冷えちゃうわよ……て」
冷めたほうが子どもたちの舌にはやさしいのかしら?
ぺろっと聡美が舌を出して見せると百瀬が、「愛情とは真逆だね」と笑う。――まったく。
このひとの一言一言に喜ばされてばかりで……それを望む自分。
百瀬の与えうる情愛が、ドライアウトされた砂漠に吸い込まれる真水のように、聡美のなかで染み渡っていく。その心地よさを感じながら聡美は、大好きな子どもたちに近づき、力強く彼女たちを抱きしめると、
「ずっとずっと一緒だよ」
精いっぱいの愛情を、伝えた。
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