テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「……アゼリア」
遠くから、誰かの声が聞こえた。
「アゼリア・エリオス!」
その名前を呼ばれた瞬間。
「――っ」
アゼリアは、はっと目を開いた。
霞んでいた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
白い天蓋。
淡い光。
天井から吊るされた、いくつもの小さな光球。
それから、鼻先をくすぐる独特な香り。
治癒香。
天界の治癒室で使われている、傷ついた身体を癒すための香だ。
「……ここは……」
声を出した瞬間、喉がひどく痛んだ。
掠れた声しか出ない。
「治癒室だよ」
すぐそばから声がした。
アゼリアが視線を向ける。
そこには、白い衣をまとった癒しの天使が座っていた。
その顔には、ほっとしたような笑みが浮かんでいる。
「君、悪魔討伐戦から帰還した直後に倒れたんだよ」
「……私が?」
「うん。突然、糸が切れたみたいにね」
「……」
アゼリアは、しばらく黙っていた。
倒れた。
その言葉が、妙に現実味を持たない。
自分が?
戦場から帰ってきて。
そのまま?
「……そう、ですか」
「そうだよ。覚えてない?」
「……いえ」
アゼリアは目を閉じた。
そして、 ゆっくりと記憶を辿る。
灰色の空。
燃え残った街。
瓦礫。
光。
剣。
悪魔。
――そして。
「……」
胸の奥が、ざわついた。
思い出した。
最後に見たもの。
黒い翼。
灰に汚れた顔。
自分と、そう歳の変わらない悪魔。
そして。
あの声。
『……助けて』
アゼリアの指が、シーツの上で微かに動いた。
「……っ」
心臓が、嫌な音を立てた。
思い出したくない。
いや、 違う 忘れたくない。
その二つの感情が、胸の中でぶつかり合う。
――私は。
私は、何をした?
剣を振り下ろさなかった。
あの悪魔を殺さなかった。
それどころか、
「……」
アゼリアは、ゆっくりと自分の手を見る。
何も持っていない。
当然だ。
ここは治癒室なのだから。
けれど、 手のひらに、まだ剣の感触が残っているような気がした。
あの時 自分は確かに、剣を振り下ろすことができた。
いつも通りに。
何度もやってきたように。
命令通りに。
なのに できなかった。
「……私は」
唇が震えた。
癒しの天使が、心配そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
「……いえ」
アゼリアは首を横に振った。
言えるわけがない。
「悪魔を助けました」
そんなこと、 口にした瞬間 本当に罪になる気がした。
いや、 もう、とっくに罪なのかもしれない。
「……私は、また前線に出ていのか 」
話題を変えるように、アゼリアは呟いた。
「うん。今回の戦闘はかなり激しかったみたいだね」
「……ご迷惑を、お掛けして……申し訳ございません」
反射的に謝る。
ら む ね _ @多忙
1,151
くもねこ☁
303
#鬱
Ravi
36
身体を起こそうとした。
その瞬間。
「っ……!」
全身に痛みが走った。
アゼリアは思わず顔を歪める。
「ほら、無理しないで」
「……申し訳、ありません」
「謝らなくていいよ」
癒しの天使は苦笑した。
「君、相当消耗していたんだから。傷だって、かなり酷かったんだよ」
「……」
消耗。
そう言われれば、確かにそうだった。
長い戦闘だった。
何度も剣を振った。
何度も光を放った。
身体は限界まで疲れていた。
だから。
だからあの時、 自分はおかしくなっていたのかもしれない。
「……疲れていたんだ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「私は……きっと、疲れていたんだ」
アゼリアは自分に言い聞かせるように呟く。
「だから……あんな……」
続きを言えなかった。
「……あんな?」
「……いや」
言えない。
やはり、言えない。
「何でもないです」
癒しの天使は、少し不思議そうな顔をした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「とにかく、今は休んで。君は少し真面目すぎるよ」
「……はい」
「戦場から帰ってきたんだから、少しくらい休んだって誰も責めないよ」
その言葉に アゼリアは、一瞬だけ目を伏せた。
誰も責めない。
本当に?
――いや。
違う。
「……」
あの悪魔を助けたことを知られたら。
誰かが責める。
きっと。
いや、 確実に。
アゼリアの喉が、ひどく乾いた。
その時だった、
「あ」
癒しの天使が、何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ」
「……?」
「君が起きたら、伝えようと思っていたんだけど」
「何ですか」
「大天使ミカリス様から、呼び出しがあったよ」
「――」
その瞬間 アゼリアの思考が止まった。
「……え?」
自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。
「大天使ミカリス様」
その名前を聞いた瞬間、 胸の奥が冷たくなった。
「……私に?」
「うん」
癒しの天使は頷く。
「例の捕虜にした悪魔の件で、話があるみたい」
――捕虜。
その言葉を聞いた瞬間、 全身から血の気が引いた。
「……っ」
心臓が跳ねる。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
やってしまった。
その言葉が、 頭の中に浮かんだ。
――やってしまった。
どうして。
どうして、あの時。
どうして殺さなかった。
違う。
殺せなかった。
でも、 それは同じことだ。
結果として 自分は命令に背いた。
「……」
アゼリアは俯いた。
さっきまでの疲労とは違う震えが、身体を走る。
「……そう、ですか」
「うん。詳しいことは僕も聞いてないけど――」
「……」
聞こえている。
声は聞こえている。
なのに、 頭の中には、別の声が響いていた。
――悪魔は倒すべき存在。
――悪魔を生かしてはならない。
――天使としての役割を果たせ。
「……まずい」
無意識に呟いていた。
「え?」
「……いえ」
アゼリアは口を閉じる。
違う。
「まずい」なんて言ってはいけない。
自分は天使だ。
天界の兵士だ。
命令に従う存在だ。
だから こんなこと。
「……」
けれど、 あの悪魔の顔が浮かんだ。
黒い翼。
震える身体。
自分を見上げる瞳。
『……助けて』
「……っ」
アゼリアは強く目を閉じた。
やめろ。
思い出すな。
今は、 今だけは。
あの悪魔のことを考えるな。
そうしなければ 自分は、
「……どうしよう」
小さな声が漏れた。
誰にも聞かせるつもりのない声。
本音だった。
どうしよう。
私は、 あの悪魔を 助けてしまった。
「……」
逃げる?
そんな選択肢は、最初からない。
隠す?
無理だ。
戦場には、他の天使もいた。
あの悪魔を連れ帰ったことも、 生かしたことも、 きっと、すでに報告されている。
なら、 どうなる?
処罰。
降格。
拘束。
それとも――。
アゼリアの背筋が凍る。
あの悪魔は どうなる?
「……」
自分が殺さなかったとしても。
天界が見逃すはずがない。
「……あの子」
ぽつりと呟く。
「……どうなるんだ」
その瞬間、 自分が何を心配しているのかに気づいた。
アゼリアは、はっとする。
違う。
違う。
私は、 自分の処罰を心配するべきだ。
命令違反をした。
天界の規律を破った。
なのに どうして。
「……」
あの悪魔のことばかり 頭に浮かぶ。
あの瞳。
あの声。
あの姿。
そして、 最後に見た。
あの顔。
「……綺麗だった」
「え?」
癒しの天使が聞き返した。
「……!」
アゼリアは咄嗟に顔を上げる。
「い、いや!」
「今、何か言った?」
「何も!」
声が裏返った。
「……?」
「……何でも、ないです」
アゼリアは視線を逸らした。
自分でも意味が分からない。
どうして、こんなことを思い出す。
どうして。
敵の顔を 何度も。
「……」
あの悪魔は 綺麗だった。
そう思ってしまった。
その事実が 自分自身にとって、一番恐ろしかった。
「……私は」
アゼリアは、シーツを握りしめる。
「……どうしてしまったんだ」
誰にも聞こえないほど、小さな声。
答えはない。
当然だった。
これは誰かに教えてもらえることではない。
自分の中で 何かが変わり始めている。
でも、 それが何なのか。
アゼリアにはまだ分からなかった。
ただ、 一つだけ分かっていることがある。
大天使ミカリスに呼ばれた。
逃げることはできない。
そして、 おそらく 自分が助けたあの悪魔について、 問い詰められる。
「……」
アゼリアは、ゆっくりとベッドから足を下ろした。
床に足が触れた瞬間。
身体がふらつく。
「アゼリア!」
「……大丈夫です」
すぐに立ち上がる。
大丈夫。
そう言わなければならない。
天使なのだから。
兵士なのだから。
自分は。
「……行きます」
「でも、まだ休んだ方が――」
「大丈夫です」
今度は、はっきりと言った。
「大天使様を、お待たせするわけにはいきませんから」
一歩。
歩く。
身体が重い。
傷が痛む。
それでも 歩く。
逃げるわけにはいかない。
自分で選んだ。
あの時、 剣を振り下ろさなかった。
あの悪魔を生かした。
連れて帰った。
なら、 この先に何が待っているのか。
受け止めなければならない。
そう思う。
思おうとする。
けれど、 大天使ミカリスのいる場所へ向かうほど、 胸の奥の鼓動が、どんどん速くなっていく。
「……」
怖い。
正直に言えば、 怖かった。
叱責されることが。
処罰されることが。
天界から見放されることが。
そして何より、 自分が助けたあの悪魔を。
今度こそ 自分の手で失うことが。
「……」
アゼリアは、ぎゅっと拳を握った。
まだ、 何も決まっていない。
何も。
だから 考えるな、 余計なことは。
ただ、命令を聞けばいい。
今までだって そうしてきた。
そうすれば きっと、 何も問題は起こらない。
――なのに。
心の奥底で 別の自分が、囁いている。
本当に?
アゼリアは、その声を振り払うように歩いた。
白い廊下の先。
大天使ミカリスの待つ場所へ。
その先に、 自分の知らない未来が待っていることなど。
まだ、 この時のアゼリアは 知る由もなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!