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崩壊の速度は、もはやヴィクターの絶大な魔力をもってしても抑えきれない臨界点に達していた。
王宮の床は、巨大な力で引き絞られたかのように無惨なひび割れを広げ
足元の石材すらデジタルノイズとなって剥落していく。
「あ、ああ……っ!」
悲鳴を上げる暇もなく、逃げ惑っていた貴族たちが、その亀裂へと吸い込まれていく。
彼らは地面に激突することもなく、落下する途中で砂嵐のようなノイズと化し
音もなく虚無へと呑み込まれていった。
世界がその「形」を保つことを拒絶し、すべてを無に還そうとしている。
私たちは、かつて私が隠しイベントの発生場所としてプロットの隅に書き込んでいた
王宮の最果てにある地下聖堂へと逃げ込んでいた。
ここは「設定」が最も強固で、世界の崩壊が届くのが一番遅い場所だ。
「ヴィクター……もういいわ。もう休んで……お願い!」
冷たい石畳の上に倒れ込んだ私の腕の中で
ヴィクターはついに、愛おしい「人間」の姿を維持する力を失った。
パキパキ、という乾いた嫌な音が静寂の中で響く。
私が愛した端正な顔、温かかった肌、柔らかな漆黒の髪。
それらがまるで剥がれ落ちる絵の具のようにボロボロと消滅し、あとには不気味なほど真っ白で
けれどどこか寂しげな「骸骨」の姿だけが残された。
「……澪、泣かないでくれ。これが、僕の本来の…唯一の姿なんだから」
カチャリ、と顎の骨が鳴る。
その声は、もはやあの耳に心地よいバリトンボイスではなかった。
まるで風が冬の枯れ葉をカサカサと揺らすような、消え入りそうで、か細い響き。
「ヴィクター……っ、貴方はどうしてこれほどまでに強大で、悲しい力を持っているの……?」
ヴィクターは、震える骨の指先で、私の頬を伝う涙を拭おうとした。
だが、その先には柔らかな指先も、温もりもない。
ただ冷たく、硬い骨の感触が肌に当たるだけだ。
彼は一瞬、愛おしそうに指を止めたが、すぐに自分の無力さを悟ったように自嘲的な音を立てて
その手を力なく下ろした。
「僕が…『設定』そのものなのは分かるよね」
「設定……そのもの」
「そうさ。君は僕という存在に、この世界のどの主人公よりも深い孤独を、そしてどのヒーローよりも一途で狂気的な愛を与えた。……そして、その物語を『完結』させることすらなく、暗いゴミ箱の中へ捨てたんだ」
ヴィクターの、空っぽのはずの眼窩の奥に
小さな、けれど魂の灯火のような温かい蒼い燐光が宿る。
「捨てられたデータは、消えなかった。いや、消えられなかったんだよ、澪。君が僕に込めた『愛』があまりにも重すぎて、消滅することをシステムが許さなかった」
「僕は、真っ暗なゴミ箱……データの掃き溜めの中で、何百年も、いや、何万回も繰り返されるこの退屈なループを、ただ独りきりで眺め続けてきた」
あの大学の部室。
部員の「整合性が取れないから」という一言で、軽い気持ちでヴィクターを不採用にしたあの日。
その瞬間から、彼はこの不完全な乙女ゲームのシステムログの片隅で
肉体を持たない「意志」として産声を上げ、育ち
そして積み重なる絶望と孤独の中で、ただ一人の創造主を待ち続けていた。
「君がこの世界に、クラリスとして現れたその瞬間、僕は確信した。この呪われたループを終わらせ、僕という未完成の存在を『完成』させてくれるのは、世界で君しかいないと」
「……ヴィクター……そんな、そんなの……っ」
「僕は、君に愛されたかったんじゃない。いや、それも嘘だけど……本当は、君の手で……僕を、終わらせてほしかったんだ」
ヴィクターの、真っ白な肋骨の隙間から、ひときわ眩い光が溢れ出した。
それは、彼が途方もない年月をかけて蓄えてきた魔力───世界の整合性を真っ向から否定し、ねじ曲げるための「究極のバグの結晶」だった。
「この光が、僕の全存在。僕というデータのすべてだ。これを使えば、君を元の世界へ……あるいは、シナリオなんて存在しない、真っ白な新しい世界へ送ることができる」
「待って。そんなことしたら、貴方はどうなるの!? 貴方の存在はどうなっちゃうのよ!」
「僕は、もともと存在しないはずのバグ・データだ。君という唯一の観測者がこの世界からいなくなれば、僕はただの『無』に還る」
「……それでいいんだ、澪。君が描いてくれなかった僕の物語を、今ここで、僕自身の手で完結させる。それが、僕のずっと望んでいた……たった一つのエンドロールなんだから」
ヴィクターの白い身体が、末端の指先からさらさらと白い粉になって崩れ始める。
消えゆく骸骨の紳士は、最期の瞬間に
かつて私がラフ画の中にだけ夢見た、あの「最高の笑顔」で微笑んだ。
表情を作る筋肉も口唇もないはずなのに
私には確かに、彼がこの上なく幸せそうに笑っているのが見えた。
「さようなら、僕の創造主。僕の愛しい澪。……次は、僕が『ボツ』にならない世界で……僕が、確かに存在する世界で会おう」
「ヴィクター!! 嫌よ、行かないで、ヴィクター!!」
私の叫びは、空間を裂く加速したノイズにかき消された。
地下聖堂が爆発的な白い光に包まれ
私の意識は、柔らかな奈落の底へと真っ逆さまに落ちていった。