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予定日よりも1ヶ月も早く、杏奈は生まれた。
二人の愛の結晶である子供さえ生まれれば、また夫婦仲良くやれると、隆太はかたくなに信じていたが、愛情の全てをあんなに注いだ詩乃の心は、ますます凍り付いていった。
夏の現場。
炎天下の中で、シャツが絞れるほどの汗をかいて帰ってきても、「おかえり」の一言もない。
そのかわりに、
「玄関のドア!もっと小さく閉めてって言ってるでしょ!やっと寝たのに!」
―――そんな親の仇みたいな顔で睨まなくても……。
般若のような顔と棘のある声が待っている。
その後に決まって甘えたような杏奈の泣き声が続く。
「ほら!起きちゃったじゃない!」
詩乃が目を見開いて睨む。
ーーーそりゃ、そんな怖い声あげればな……。
吐きたい言葉を飲み込んで隆太が靴を脱ぎながら、
「風呂入れる?」
と聞くと、詩乃はいよいよこめかみに血管を浮き上がらせて、
「自分でやって?できない?ボタン押すだけよ?」
と食って掛かるのだった。
毎日繰り返される罵倒と怒号、軽微な暴力。
「―――もちろん痛くないすよ。痛くないし、怖くもないすよ。だけど、なんつーかな。嫁に頭を叩かれたり、肩を押されたりすると……自分の何かが少しずつ、壊れていくような気がするんすよね」
「プライド的な?」
「そうそれ」
「産後鬱じゃね?」
現場の先輩は笑った。
「いや、妊娠中からあんなんでしたよ」
隆太は煙草を吸いながらため息をつく。
「こっちが鬱になるっつの」
先輩はその指からそれを抜き取った。
「お前、最近本数えげつないって。肺癌になるぞ?」
「はは。今さら。煙草なんて小学生から吸ってますよ」
言いながら取り返す。
「肺癌は辛いぞ。どんどん呼吸が苦しくなってさ。酸素機械繋ぎながら生活してさ。どんどん濃度挙げられて、最後は人工呼吸器よ」
「―――げ」
隆太が眉を潜めると先輩は青空に向かってため息をついた。
「俺のこの間亡くなった祖父ちゃん、肺癌だったからさ」
ーーー肺癌か。確かに呼吸が苦しいってしんどいよな。
小さいころから煙草を吸っていた影響か、隆太は長距離走が嫌いだった。
あの吸っても吸っても酸素が入ってこない感覚が嫌いだ。
喉がカラカラに乾いて、口から変な音が出て、手足の先が痺れて、目の前に星が飛ぶ、あの状態が嫌いだ。
それが常にだったら、確かに可哀そうだよな。
吸う自分はもちろん、
受動喫煙で巻き込まれる家族も。
◇◇◇
「ちょっと!!なにこれ!!」
帰ると詩乃が半透明の市指定の燃えるゴミ袋を持って立っていた。
「なんでこんなに煙草の箱が捨ててあるの?あんた一日に何本吸ってるのよ!!」
「―――あ、それなら……」
「結婚したら辞めるって言ってなかった?」
「―――言ったっけ?」
「子供ができたらやめるとも言ったわ!!」
「―――え、マジで覚えてない」
隆太はヘラヘラと後頭部をかいた。
「あ、でも聞いてよ、詩乃。俺さ――――」
「タバコ吸うならベランダじゃなくて外で吸って!ベランダに換気扇ついてんだから!」
杏奈を抱っこしたまま詩乃は鼻をつまんでこちらを睨んだ後、バスルームに行ってしまった。
「―――詩乃」
「アアッあっああ!」
「はいはい、ちょっと待ってね~、お風呂だよ~」
服を脱ぐ音が聞こえる。
「詩乃、俺さ………」
曇りガラスに近づくと、隆太の影に驚いたのか、詩乃が泣き出した。
「変態!あっちいってよ!覗かないで!!」
詩乃の割れるような叫び声が響く。
「変態って……」
杏奈の泣き声がひときわ高くなる。
「ほら!杏奈が怖がって泣いたでしょ!あっち行って!!」
詩乃の叫び声は続く。
「あんたの声が怖いからでしょうよ……」
「……ほら、杏奈の大好きなお風呂だよ~!入ろうね~!」
ガラッとドアの開閉の音がして、間もなくシャワーの音が響きだした。
「詩乃……」
聞こえていないとわかっていても、隆太は話しかけた。
「俺………煙草、やめたよ?」
シャ―――――。
隆太のその声は、シャワーの音に溶けていった。
◆◆◆◆◆
義理母が心筋梗塞で倒れたのは、杏奈が1歳半の時だった。
幸いパートの職員が迅速に救急車を呼んでくれたため、一命はとりとめたが、入院生活を余儀なくされた。
下着もタオルもどこにあるのかわからないと嘆く父親の代わりに入院準備をすべく、詩乃は片道1時間かけて実家に帰ることになった。
「できるだけ早く帰ってくるから、杏奈の面倒お願いね。これがオムツ。こっちがおしりふき。これが着替え、これが赤ちゃん用せんべいで、これが離乳食。いいわね?」
終始眉間に皺を寄せて心配そうに説明する詩乃に、
「大丈夫だから行っておいでー」
隆太は杏奈を抱き上げながら言った。
本当は現場の仲間たちとバーベキューの予定だったが仕方がない。
ここでそんな愚痴をこぼしたら、本当に殺されそうだ。
「ママーーー!!!」
どうやら自分は母親に置いて行かれるようだと察した杏奈は、火がついたように泣き出した。
「杏奈……ごめんね?」
詩乃が目に涙を浮かべながら振り返る。
「はは、今生の別れじゃねえんだから……」
笑いながら、暴れる杏奈が落ちないように支える隆太をキッと睨みながら、詩乃はドアを開けた。
「もし杏奈に何かあったら、ホントに許さないから!!」
バタン!!
「ママーーーー!!!!」
ドアが閉まると、杏奈はこの世の終わりのような泣き声を上げた。
「はは……んな大げさな……」
隆太は泣きじゃくる杏奈を高く抱き上げた。
「ほら、高い高いだぞおー、杏奈!ママは腕が細いからこんなことしてくれないだろうー?」
本当に生まれて初めて高い高いをされた杏奈は驚いたように目を見開いた。
「お?泣き止んだな」
隆太は笑いながらそのままゆっくり回転した。
「ほれほれほれほれ~!」
「――――!!」
詩乃譲りの大きな目を見開いて、杏奈がキョロキョロと部屋を見回す。
「どうだ、杏奈!」
「―――――」
あんなは目を見開いたまま隆太を見ると、
「きゃああああ!!」
喜びの声を上げて笑った。
―――なにこれ……。可愛いじゃん……!
◇◇◇
「あれ?隆太、珍しい!子供―?」
親方の妹である|葵《あおい》が覗き込んでくる。
「そう~。杏奈。よろしくー」
言いながら隆太は彼女が持ってきた肉をもらうべく皿を差し出した。
「へー、そうなんだー」
葵が杏奈を覗き込む。
「似てないね」
その声には少なからず棘が含まれていた。
そしてその棘は、この女が顔のいい隆太を意外と気に入っていることから生まれた嫉妬だった。
「かわいいでしょ。奥さん似―」
言いながら杏奈を後ろから抱きしめる。
予防線だ。
浮気する勇気なんて毛頭ない。
その前に―――。
詩乃以外の女になんて、興味自体がなかった。
ますます面白くなさそうな顔をした葵に恐怖を感じたのか、杏奈が振り返って隆太の胸にしがみ付いてくる。
「キュンっ!なんてかわいいやつなんだオマエは~!!」
杏奈を抱きしめた隆太を皆が笑う。
「意外と子煩悩~!」
「似合わねー!」
「本当に父親だったんだー」
―――そう。
本当に父親だったんだよ、俺。
みんなに笑われ、怯えた杏奈が隆太を見上げる。
いつも杏奈の隣には詩乃がいて。
詩乃の手の中には杏奈がいて。
でも詩乃がいないと、杏奈はちゃんとこうして自分を父親と認識してくれるんだ。
そう思うと、必死で隆太のタンクトップを握る杏奈の小さな手が、たまらなく愛おしく思えた。
◇◇◇
帰りの車の中でも杏奈は絶好調だった。
隆太の変顔の一つ一つに大笑いして、ヒイヒイとチャイルドシートに顔を擦りつけた。
途中で寄ったニックのドライブスルーで、フライドポテトを買った。
ちゃんとフーフーして与えると、杏奈はうまそうに食べ、もっともっとと隆太の二の腕をパンチした。
一緒に買ったコーラを一口やると、びっくりしたように目を見開いたあと、笑いながら飲んだ。
―――めっちゃかわいい……!
隆太は思えば初めて自分の車の助手席に乗った杏奈を、信号で停まるたびにスマートフォンで撮った。
―――俺、こいつのためなら死ねる!
塩のついた自分の指を嘗めている杏奈を見つめながら、心の底からそう思った。
◆◆◆◆◆
家に着くと、すでに詩乃は帰ってきていて、隆太と杏奈が散らかした部屋を片付けていた。
「あ、おかえり……お義母さん、大丈夫だったか?」
杏奈を抱っこしながら言うと、彼女は疲れたようにこちらを見上げた。
「うん。でも当分は――――」
そこまで言った詩乃の顔が大きく歪んだ。目を見開きこちらを睨むと、もぎ取るように杏奈を奪った。
その勢いに杏奈が泣く。
「あ、おい……」
隆太がさすがに抗議しようとすると、彼女は絨毯の上に杏奈を下ろし、ズボンを脱がせた。
「―――あ……」
オムツのことをすっかり忘れていた。
彼女がオムツの脇を破り開いてみると、茶色いものがびっしりとこびり付き、白いお尻が真っ赤に腫れあがっていた。
「いつから取り替えてないの!?」
その声はもはや悲鳴に近かった。
「杏奈は肌が弱いから、おしっこでさえ被れるのに!」
言いながら手早く拭いていくと、赤く腫れた尻が痛むのか、杏奈がますます大きな声で泣き始めた。
「あはは。悪かったよ。遊びに夢中で……」
「遊びってどこに連れてったの……?」
「職場のバーベキューに」
詩乃が睨みながら振り返る。
「そんな危ない場所に……?火傷したらどうしてくれんの!?」
「いや、ちゃんと見てたし……」
「こんな炎天下の中?帽子もかぶらないで?」
「あ、えっと、それは……」
「日焼け止めも塗らないで?」
「ああ、ごめん……」
詩乃が盛大なため息をつく。
「―――でも、杏奈も楽しんでたよ。いつもはお前にべったりだけど、俺しかいないとちゃんと俺を頼ってさあ……」
弱々しい自分へのフォローは、杏奈の泣き声にかき消されていく。
「帰りにニックのフライドポテト食べたら大喜びしてさあ」
「―――はあ?ポテト食べさせたの?こんな小さな子に!?」
「たまにゃいいだろ?」
「……………!!」
詩乃が唇を噛む。
「俺のコーラも嬉しそうに飲んでさ」
「コーラ!?」
再び詩乃がこちらを睨む。
「まさかあんたと同じストローで飲ませたんじゃないでしょうね!?」
「えー?そこまで過剰反応しなくても……」
詩乃はおしりふきを床に叩きつけた。
「あのね!フライドポテトは油と塩分が多すぎるの!2歳になってから少しずつって考えてたのに!あとはコーラ!コーラもどれくらいの量の砂糖が入ってると思ってんの?そもそも生えてきたばかりの乳歯に炭酸とかいいわけないでしょ!しかもそれを、あんたと同じストローで与えるとか、あり得ないんだけど!虫歯菌に感染するでしょ!!」
「―――虫歯菌って……。人をばい菌呼ばわりしなくても……」
「そういう問題じゃないの!大人は皆持ってるの!!」
詩乃が絨毯を殴る。
オムツを取り換えてもらった杏奈が泣きながら詩乃に抱き着く。
「―――わ、悪かったよ。でもさ……」
隆太は慌ててスマートフォンを取り出した。
「ほら、見てよ。杏奈、すげえ楽しんでたよ?」
助手席で満面の笑顔だった杏奈を見せる。
「―――なんで運転中、スマホ触ってんの?」
詩乃が涙目で隆太を睨む。
「事故ったらどうすんの!?」
―――隆太は頭を掻いた。
てっきり、今日こそ詩乃は褒めてくれると思っていた。
隆太でもちゃんと杏奈を見ててあげることができるんだって。
子煩悩だなんて言われながら、杏奈を楽しませてあげた隆太を―――。
「―――ギンでも……」
ガクンと俯いた彼女は、丸めたオムツに描かれたペンギンのイラストを見ながら、念仏のように何かを呟いている。
「―――は?」
そしてキッとこちらを睨み上げた。
「ペンギンの雄でもちゃんと子育てできるのに!なんであんたはそんなに馬鹿なの!?」
居たたまれなくなって隆太は家を出た。
閉まるドアの向こうから、杏奈の泣き声が聞こえた。
チャラリン。
スマートフォンの通知音が鳴った。
葵からだった。
『妬いて変な態度とった。ごめんね。娘ちゃん、かわいかったよ』
―――その日、隆太は葵を抱いた。
詩乃と結婚してから、
いや、詩乃と出会ってから、
浮気をしたのは、それが初めてだった。
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