音だけが、先にあった。
それが何の音なのか、
どこから来たのか、
彼には分からなかった。
ただ、
耳の奥に残っている。
遠くで鳴る、
重なった音。
規則正しくもなく、
不規則でもない。
― 拍手。
歓声。
名前を呼ばれているような気がするのに、
それが自分の名前なのかどうかも、分からない。
目を開けると、
空は薄い灰色だった。
朝なのか、
夜明け前なのか、
判断がつかない。
冷たい。
背中に伝わる感触で、
コンクリートの上に座っている事だけは分かる。
膝を抱えて、
視線を落とす。
息をすると、
白くなる。
(…寒い)
そう思った瞬間、
「思える」事に少しだけ安心した。
― 生きている。
それだけは、
確かだった。
自分が誰なのか、
どこから来たのか、
何故ここにいるのか。
全部、
空白だ。
頭の中は、
綺麗に削ぎ落とされたみたいに、
何もない。
それなのに、
胸の奥には、
説明出来ない“気配”だけが残っている。
責任。
期待。
光。
何かを背負っていた感覚。
それが何なのかは、
分からない。
ただ、
重い。
怖い。
でも、
今はそれよりも、 この場所が、
“知っている匂い”を している事の方が、
不思議だった。
人の生活の匂い。
洗剤と、
少しだけ甘い香り。
(…ここ)
理由はないのに、
ここに来るべきだと思った。
足が、
ここまで運んだ。
選んだ記憶はない。
でも、
立ち去ろうとは思わなかった。
鍵の音がした。
金属が擦れる、
小さな音。
それだけで、
心臓が強く鳴る。
― 誰かがいる。
ドアが開く。
光が差し込んで、
影の中に立つ人影が見えた。
女性。
驚き。
警戒。
戸惑い。
一瞬のうちに、
いくつもの感情がその顔を通り過ぎる。
それでも、
逃げなかった。
声がする。
「…大丈夫ですか?」
その一言が、
胸の奥に落ちた。
理由は分からない。
でも、
その声を聞いた瞬間、
「ここにいて良い」と思ってしまった。
助けを求めるつもりなんて、
なかったはずなのに。
口が、
勝手に動く。
「…すみません」
自分の声が、
思ったよりも不安定で、
自分でも驚いた。
「ここ…どこですか?」
その質問が、
世界と自分を繋ぐ、
最初の糸だった。
彼女の目が、
大きく揺れる。
― この人は、
何かを知っている。
そう直感した。
でも、
それ以上考える前に、
彼女は言った。
「…寒いですよね」
そして、
扉を開いた。
その瞬間、
世界が1段階、
内側に入った気がした。
これは、
奇跡の始まりじゃない。
選択の話でもない。
これは、
“拾われてしまった”話だ。
拾われる側も、
拾った側も。
その先に、
どんな終わりが待っているか、
この時は、
まだ誰も知らない。
ただ、
1つだけ確かな事がある。
この朝、
2人の時間は、
確かに始まってしまった。






