テラーノベル
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チャイムが鳴っても、誰も帰ろうとしなかった。いつものことだった。
教師は何も言わず、教室を出ていった。
それが「開始の合図」だと、生徒たちは知っている。
日下部もまた、誰にも呼ばれず、誰にも命じられず、その空間の中にいた。
“仲間”として数えられていないことが、逆に彼を身動きできなくさせた。
「じゃ、今日も“始めよっか”」
女子が言った。明るい声だった。
男子のひとりが、カーテンを閉めに行く。
窓からの光が遮られ、教室の空気がじっとりと湿気を帯びる。
「ほら、遥。来て」
女子の声に、遥は黙って立ち上がる。
机をまわり、教室の中央へ。
まるで自分が“道具置き場”に戻るかのような歩き方だった。
「今日はね、ちょっと新しいの、試したいんだよね」
「“そっち”のほうが、痛くないから優しいって言われたし」
誰かが笑った。
別の誰かがカバンの奥から、束ねたコードを取り出した。
「今日は、音、出したらダメな日だから」
「ね、わかるよね。昨日、叫んだから、罰ゲームって決まってたよね?」
遥は、何も言わない。
ただ、制服のボタンに手をかけ、いつものように、上から順に外していく。
「──ちょっと、今日はゆっくり見せて」
「“自分からやるのが当たり前”なんでしょ?」
その言葉に、遥は一瞬だけ動きを止めた。
でも、次の瞬間にはまた手を動かしていた。
白いシャツがはだける。
痩せた胸元に、いくつもの痣が走っていた。
骨の出た肩に、焼けたような跡。
腹部にはマジックの落書き。
「“いちばんひどいの”は、やっぱ見えないとこにあるよね」
女子が笑いながら、スカートの裾を指先で弾いた。
「今日、撮る?」
「素材、そろそろ提出でしょ。ほら、文化祭の」
それは完全に、別の意味の「素材」の話だった。
「声、出したら、明日もっと痛いの決定ね」
「じゃ、今日の“処理”、始めまーす」
──机をどける音。
──床に新聞紙が敷かれる音。
──ビニール袋が開かれる音。
──誰かがスマホの録画を始める音。
日下部の背中に、汗が伝っていた。
立ち上がれなかった。
“遥がまだ自分を見てくる”のが、怖かった。
遥の瞳は、空白だった。
でも──その空白の奥には、今や誰にも届かない“静かな怒り”が沈んでいた。
それは、誰かを責めるものではなかった。
自分自身すら、責めきれないほどに、壊れた“どこか”。
処理は、粛々と進められる。
罰。
確認。
撮影。
記録。
共有。
それは儀式だった。
名もなき神を崇めるような、生贄の手順。
遥は、声を出さない。
ただ、じっと天井を見ている。
口がかすかに開き、喉が震えたが、何も出ない。
指先だけが、硬直したように机の端を握りしめていた。
──それでも、顔だけは横に向けなかった。
「“誰か”を探すように」
その姿に、日下部は歯を食いしばるしかなかった。
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