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「つまり殿下は──厳密にはまだ、死んでいないということです」
ジークフリート殿下の仰った、お香の匂い。
ベッド周辺に落ちていた、溶け固まった蝋。
さらに、ベッドの真下の絨毯に隠れていたのは、見覚えのある魔法陣。
何者かが黒魔術を行ったと見て間違いない。
そして、それは──
「……いまの私は、魂のみの状態だと?」
「はい。幽体離脱、と言うべきでしょうか。おそらく強力な睡眠薬で眠らされ、器から魂を抜き出す黒魔術をかけられた。実際のお身体はいま、仮死状態なのだと思います」
──ジークフリート殿下の死を覆す、動かぬ証拠になる。
「この奇妙な紋様を見つけるより先に、お前は気づいていたな。なぜだ」
殿下は魔法陣を一瞥し、至って冷静に私に問うた。
馬鹿げた話をするなと、一蹴される可能性もあった。
魔術に関わりのない人間にとっては、突拍子もない、それこそフィクションの世界だろう。
それでも殿下なら、お耳を傾けてくださる気がしていた。
「大前提として、降霊術なしで幽霊と対話するなど不可能なのです。私に霊感があるといっても、せいぜいその場所で死んだ者の残留思念を感じ取れる程度で、殿下のような生前と変わらない精神的実体を視ることなどできません。なのではじめは、殿下は天使か妖精にでもなられたのかと思いました」
「おもしろい冗談だ」
真顔で言われた。
ちなみに私は冗談のつもりではなく本気で思った。
「しかも殿下は幽体の状態で、自律的に思考できていらっしゃる。脳が動いている証拠です。お身体との接続も、まだ完全には断ち切れていないのでしょう」
「妙に詳しいな」
「魔女の娘ですので。超自然的事象にまつわる知識なら、そこらの魔術師には負けません」
「まず魔術師はそこらにいるものではないと思うが……」
ツッコミを聞きつつ、床の魔法陣を指でなぞってみた。
指先に汚れは付着しない。
「お前の言葉が真実ならば、いまならまだ、私は身体を取り戻せるということか」
殿下の確認に、私は密かに、腹を括った。
「……はい。ただしタイムリミットは、魔術をかけられてから、この魔法陣が消滅するまで。約1ヶ月以内です」
魔術に使われた魔法陣はいくら拭いても取れず、1ヶ月ほどかけて薄れていく。
魔法陣が完全に消滅したその瞬間──ジークフリート殿下の魂は、身体に戻ることが叶わなくなる。
「ジークフリート殿下」
絨毯を元に戻し、意を決して立ち上がった。
かつてないほどの緊張感と、高揚感を抑えつつ、殿下と向き合う。
「私でよければ、協力いたしましょう」
「ラインハルトを殺す気になったか」
「違います」
食い気味で否定した。
このタイミングで殺人を決意するわけないし、いつの間にかラインハルト殿下が犯人だと断定されている。
「殿下を陥れた犯人を捜すのです。私はこの10年間、魔女の所在はおろか、魔術痕の情報すら手に入れられませんでした。これは私にとって、願ってもないチャンスなのです。殿下に魔術をかけた魔術師に辿り着ければ、母の手がかりも得られるかもしれません」
「ほう。あくまで己のためと?」
「はい」
一介の使用人が王子殿下相手にこんな提案をするなど、身の程知らずも甚だしい。
でもそんなことを考えている余裕はない。
「殿下がお身体を取り戻すおつもりなら、私は私の目的のため、最大限手をお貸しいたします。単なる主従関係では、いつ私が梯子を外してもおかしくありません。互いに利のある協力関係のほうが、殿下も信用できるのではないですか?」
かなり危ない橋を渡ろうとしている。
それは承知の上だ。
私はどうしても、もう一度、母に会いたい。
そして知りたいのだ。
10年前のあの夜、なぜ私を置いて姿を消したのか──その理由を。
「……やはり、お前は聡明らしい。気に入った」
覚悟を決めた私にジークフリート殿下は、また生前と変わらない、麗しい笑みを見せた。
「手を組もうか、シルヴィア。復讐を遂げるためなら、お前の母親捜しも手伝ってやる」
◆
「殿下にかけられた黒魔術は上級魔術に分類され、術者にとっても非常に危険なものです。おそらく実行したのは上級魔術師でしょう。念のため確認ですが、弟君のラインハルト殿下は魔術を心得ていらっしゃるのですか」
ジークフリート殿下と協力関係を結んだ私は、とりあえず寝所の掃除に取り掛かりながら、問いかけた。
「その線はないな。学術も武術も私に劣るあの愚弟が、上級魔術とやらを器用に扱えるはずがない」
侮辱というよりは事実を述べる口振りで、ナチュラルにラインハルト殿下を見下すジークフリート殿下。
「王太子殿下をそんなふうに評して許されるのは、この王国でジークフリート殿下だけですね……」
恐ろしすぎてぼそりと呟いた。
ピク、と殿下の肩がかすかに反応する。
「その肩書きも、近く私のものになる予定だったのだ」
「……え?」
思わず掃除の手を止めた。
「かねてより私を王太子に擁立する臣下の声が強く、国王は決断を迫られていた。そして先日ついに、議会で私を王太子に据える決定が正式に下されたのだ。ラインハルトの生誕パーティーが終われば公表されるはずだった」
……とんでもない情報を、聞かされた気がする。
もちろん派閥があることは知っていたが、次期国王は、順当にラインハルト殿下だろうと思っていた。
エデルブルク王国で王位継承権を与えられるのは、代々国王と正妃の間に生まれた御子のみのはずで、平民の血を引く庶子が王太子に立てられるなど、前代未聞だ。
「そ……そんな重大な機密を、一介の使用人に明かしてしまって大丈夫なのですか」
別に誰かに漏らしたりしないが──というか漏らす相手がいない──あまりにもさらっと話されるので、度肝を抜かれてしまった。
「持ちつ持たれつの対等な協力関係だろう。有力な情報は提供する」
殿下は顔色ひとつ変えずに続けた。
一国の王子と対等な立場など、さすがに恐れ多すぎてちょっと遠慮したい。
「私がいま死んで得をするのはラインハルト派だ。多少不自然でも私の死亡さえ確定してしまえば、現王太子の座を守れる」
ラインハルト殿下を殺害したがる理由がわかった。
ジークフリート殿下にとって、正妃の血統を持つ弟君は、容疑者である以前にこの事態の元凶なのだ。
「だとすれば、黒魔術は暗殺にうってつけですね。仮死状態にしてしまえば外傷もなく、病死に見せかけられます。知識がなければ証拠もまず見つかりません」
「ああ。ただし、魔術師が単独で王宮殿内に忍び込み、王子の部屋で手の込んだ魔術を行うにはリスクが大きすぎるだろう。ラインハルト派の臣下だけで企てられるはずもなし、確実に王室の者が糸を引いている」
家族が、自分を陥れたのだと。
まるでなんでもないことのように、平然と話される。
「お前の役目は王室に接触し、探りを入れることだが──」
そこまで告げ、殿下は無機質な瞳に、私を映した。
「雇われた上級魔術師とやらは、もしかしたら魔女と呼ばれる、稀代の魔術師かもしれない」
一切の情が消え失せた、ひどく温度の低い声だった。
空気が張りつめ、心臓が凍てつく感覚に陥る。
「先に言っておく。黒魔術を行ったのがお前の母親であっても、私は手心を加えるつもりはないぞ」
それは当然、考え得る可能性のひとつだ。
魔術師そのものが希少なのに、上級魔術師なんてそう何人も存在するものじゃない。
しかし、わざわざ反感を買うような忠告をして、私がここで協力関係を破棄したらどうするおつもりなのか。
「……たしかに、可能性がゼロとは言いません」
それでも私が逆らわないと踏んだのか、もしくは。
「ただ──私の記憶にある母は、先程ご覧になったものより、もっと美しい魔法陣を描く魔術師です」
もしくは、協力相手である私に思惑を包み隠さず、できる限りの誠意を示してくださったのか。
なんとなく、後者のような気がしたから、ほほ笑んで切り返した。
「……私を、冷酷だとは思わないのか」
そんな私を見極めるように、じっと視線を向けてくる殿下。
「それは殿下ではなく、殿下を陥れた人物のことでしょう」
素直な答えを返すと、殿下はフッと小さく微笑を零した。
途端に空気が弛む。
「さすが魔女の娘だ。肝の据わる魔術でもかけられたのか」
「どうでしょう、案外この王宮殿で培ったのかもしれません。……さて、寝所の掃除は終わりました。次は手前のお部屋です」
話している間も絶えず手を動かしていたので、滞りなく完了した。
掃除用具を持ち直して寝所を出る。
「待て、シルヴィア」
「はい」
引き留められ、殿下を振り返った。
「私がここから出られる魔術はないのか」
「あ。もちろんございます」
「え? あるのか。期待していなかったのだが」
「非常に簡単ですよ」
手前のお部屋で、掃除用具を置く。
「ジークフリート殿下。どうぞ、お入りください」
来室を促すように手のひらを室内へ向け、殿下に呼びかけた。
殿下はきょとんとしたあと、半信半疑ながら、ふわ〜とこちらへゆっくり飛んでくる。
そしてなんの妨げもなく、すんなり私の元へ辿り着いた。
本当に可能だとは思わなかったようで、驚いた様子で寝所を振り返る。
「……どれだけ出ようとしても、叶わなかったのに」
「地縛霊でもなければ、生身の人間が許可することで空間を行き来できます」
「本当になんでも知っているな」
感心しつつ、1週間ぶりの自室をしげしげと見回す殿下。
それから、改めて私を見て、とても柔らかく笑った。
「感謝する。ありがとう、シルヴィア」
──その、あまりにも思いがけない言葉と表情に。
どきりと、心臓が動揺した。
「……い、え」
思わず目を逸らしていた。
誰かに感謝なんてされたのは、いつぶりだろう。
考えてみれば、殿下は1週間もずっと誰にも認識されず、なににも触れられず、寝所に閉じ込められていたのだ。
寂しい、なんて、そんな感情を殿下が抱いていたかはわからない。
それでも想像するだけで、私はいまよりもひどい孤独感に襲われた。
なにか、もっと。
殿下にしてさしあげられることはないかと、考えてしまうのは──単純すぎるだろうか。
「しかし、部屋を移動するたびに許可を受けていては面倒だな。なにか手間を省く方法はないのか」
「……ございます」
「これもあるのかよ」
殿下がいまより自由に動き回れる方法も、存在するには、する。
ただ……、ひとつ懸念事項も生じる、「契約」だ。
「殿下は悪魔でも悪霊でもありませんので、やはり方法自体は簡単なのです。しかしながら……、誇りを、捨てていただく契約でございます」
「誇りを捨てる、契約?」
「はい。ある意味、殿下にはとてつもなく困難な問題かと」
「どういう意味だ。具体的に申せ」
言葉を濁す私に、焦れたように要求する殿下。
私は殿下と目を合わせられないまま、ゆっくりと口を開いた。
「私に、隷属したいと」
「……は?」
「この私に従い、使役されたいと、殿下自ら望んでください」
「…………」
「…………」
なんとも居心地の悪い沈黙が、しばし流れたあと。
「おもしろい冗談だ」
真顔で返された。
……冗談ならばどれほどよかったでしょう。