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るあ
第一話 春、花は散る
吉原の夜は、美しい。
格子窓から漏れる灯りが雨上がりの石畳を照らし、
遠くでは三味線の音が静かに響いている。
酒の匂い、白粉の香り、男たちの笑い声。
そのすべてが混ざり合い、この場所だけ別の世界のようだった。
けれど、そこに生きる女たちは皆知っている。
ここは夢の国なんかじゃない。
「吉原はね、綺麗な地獄だよ」
そう言って笑った女がいた。
その女の名は、銀鈴。
吉原一の花魁だった。
「銀鈴花魁、お呼びです」
禿の少女が襖の外から声をかける。
「……今行くよ」
銀鈴は鏡台の前からゆっくり立ち上がった。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
そして、どこか冷たい瞳。
男たちは皆、彼女に夢を見る。
だが銀鈴は、誰にも心を許さなかった。
「今日はあのお客さん、また来てるみたいですよ」
少女がくすりと笑う。
「……そう」
「花魁、あの人の前だと少しだけ優しい顔する」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
銀鈴は簪を挿しながら小さく息を吐いた。
だが、その指先はほんの少しだけ揺れていた。
宴席には今日も大勢の客がいた。
酒を飲み、遊女を抱き寄せ、大声で笑う男たち。
その中で、一人だけ静かに座る男がいる。
朝倉朔也。
名家の息子でありながら、妙に気取らない男だった。
「遅かったな」
朔也は盃を置きながら笑う。
「客に時間を使うかどうかは、私が決めることです」
「相変わらず手厳しい」
「……当たり前でしょ」
他愛のない会話。
けれど、それが不思議と心地よかった。
朔也は他の客のように、銀鈴を品定めしない。
無理に触れようともしない。
ただ、彼女と言葉を交わす時間を大切にしていた。
「今日は桜が綺麗だった」
朔也がふと窓の外を見る。
「見てないのか?」
「花を見る暇なんてありません」
「なら今度、一緒に見に行くか」
その言葉に、銀鈴は眉をひそめた。
「……吉原の女を外へ連れ出す気?」
「駄目か?」
「馬鹿な人」
そう言いながらも、銀鈴は少しだけ笑った。
朔也はその笑顔を見るたび、胸が締め付けられる。
この女は、きっとずっと一人だった。
宴が終わった後も、朔也だけは帰らなかった。
部屋には静かな空気が流れている。
「今日は帰らないのですか」
「帰れと言うなら帰る」
「……別に」
銀鈴は窓を開けた。
春の夜風がそっと入り込む。
遠くで桜が揺れていた。
「銀鈴」
不意に、朔也が真面目な声を出す。
「なんでしょう」
「お前を、身請けする」
空気が止まった。
銀鈴の瞳が揺れる。
「……何を言ってるの」
「本気だ」
「遊女を身請けするなんて簡単じゃない。家も黙ってない」
「分かってる」
「だったら——」
「それでもだ」
朔也は真っ直ぐ銀鈴を見つめていた。
その目があまりにも真剣で、銀鈴は視線を逸らす。
「私みたいな女に、本気になるものじゃありません」
「お前だから本気なんだ」
胸が痛んだ。
こんな言葉、信じてはいけない。
期待してはいけない。
それなのに。
「……ほんと、変な人」
銀鈴は小さく笑った。
その夜。
彼女は初めて、未来を夢見た。
それから数ヶ月後。
朔也は本当に身請けの準備を進めていた。
必要な金も揃え、店との話もまとまり始めている。
「あと少しだ」
朔也は言った。
「もうすぐ、お前をここから連れ出せる」
銀鈴は何も言わなかった。
ただ、その言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
——もうすぐ。
——ここを出られる。
——この人と、生きていける。
そんな未来を、少しだけ信じてしまった。
その夜、嫌な予感がした時。
胸がざわついた。
「……銀鈴?」
返事がない。
店の奥。
静まり返った部屋。
朔也は急いで襖を開ける。
そして——息を呑んだ。
畳に、血が広がっている。
真っ赤な血。
その中心で、銀鈴が倒れていた。
「……は……?」
喉を深く裂かれ、白い肌が血に染まっている。
信じられなかった。
つい数日前まで笑っていた人間が。
未来を語った人間が。
こんなにも冷たく動かなくなっている。
「銀鈴……」
震える声で名前を呼ぶ。
返事はない。
駆け寄って肩を抱く。
冷たい。
もう、何も返ってこない。
「なんでだよ……」
涙が零れる。
「なんで、お前が……」
その時。
銀鈴のすぐそばに、一本の簪が落ちていることに気づいた。
見覚えのない簪。
誰かがここにいた証。
朔也はそれを拾い上げる。
強く。
血が滲むほど強く握り締めた。
「……必ず見つけ出す」
低い声だった。
「お前を殺した奴を、絶対に許さない」
外では、春の桜が静かに散っていた。
まるで、一つの恋を弔うように。