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私は動揺しながらも、どうにか優斗と目を合わせて訊ねた。
「責任?」
「ああ、そうだ。紗那が俺と別れるなんて言うからこうなったんだ」
「それなら別れる原因を作ったのはあなたよ」
「俺が浮気した原因は紗那なのに。紗那は同棲してからうるさくなった。昔みたいに素直で可愛い紗那がいなくなった。俺はそれが耐えられなかったんだ」
優斗は涙ぐみながらすがりつくように私に訴える。
「なあ、俺が全部悪いのか? こういうのはお互いに非があるもんだろ。俺だってこんな家に住みたくないんだ。同居なんて俺も嫌だったんだ」
今さら何を言い出すのだろう。散々私に暴言を吐いておきながら今度は同情を引くやり方ですか。
そんなもの通用しない。
「お願だ、紗那。別れないでくれよ」
優斗が私に抱きついてくる勢いで迫り、とっさに川喜多さんが口を挟んできた。
「優斗くん、紗那さんに接近……」
「山内くん!」
私は川喜多さんの発言を遮るように、わざと優斗を名字呼びした。
優斗は驚いて目を見開き、硬直する。
私は冷静に、静かに告げた。
「私はあなたに対して、もう同情も愛情もないのよ。昔の私とかどうでもいいの。美化した思い出にすがらないで。現実を見て」
「ううっ……紗那」
「気安く名前で呼ばないでください」
「待って……待ってくれよ……」
私に伸ばしてきた彼の手を、私はただ冷たく眺めて、最後に言った。
「さようなら」
山内家を出て、すっきりしたかといえば、そうではなかった。
優斗が泣きついてくることは多少想定していたけれど、いざそれを目の前にすると心が揺らいだ。
別に彼に情があったわけじゃない。もう好きでもない。
けれど、付き合った5年間はなかったことにならない。
楽しい時間は確かにあった。幸せを感じた瞬間もあったし、一生一緒にいようという気持ちもあった。
泣きつかれると絆されてしまうかもしれない弱い心がまだ私にはある。
それでも私が最後に優斗を突き放すことができたのは、まわりの支えがあったからだ。
さようならを口にしたとき、複雑な気持ちだった。ようやく解放されるというのに、晴れ晴れした気持ちにはなれなかった。
「紗那!」
遠くから呼びかけられて振り向くと、千秋さんが息を切らせながら走ってきた。
「え? 千秋さんどうしてここに?」
私のその問いに答えたのは川喜多さんだ。
「彼とは通話状態でしたから」
「まさか、ずっと私たちのやりとりを聞いて?」
その返答を聞く前に千秋さんが私に抱きついてきた。
「よかった無事で。君に何かあったかと思ったよ」
ああ、なるほど。
優斗母のご乱心のことだと思った。
川喜多さんがスマホを通話状態にしておいたのは千秋さんからのお願いだったらしい。山内家の異常なまでの私への執着に、ひどく心配した千秋さんは何かあったらすぐに警察を呼ぶつもりだったようだ。
「だから外で話し合いをすべきだと言ったんだ」
「そうすると彼らは本性を出さないでしょう。世間体が何より大事な人たちですからね。おかげでたっぷり証拠もゲットできましたよ」
川喜多さんはスマホに収めた優斗母のご乱心の写真を千秋さんに見せつけた。
「紗那が怪我をしたらどうするつもりだったんだ?」
「僕の鞄は頑丈なので、とっさに防ぐことができますから」
「そういう問題じゃない。紗那を危険な目に遭わせたことには変わらないだろう」
「依頼者の身の安全は保障しているつもりです。これでも僕は護身術を身につけています」
「だが、紗那に恐怖を与えてしまったことは君の失態だぞ」
「そのことについては謝罪します。しかし、千秋くんは紗那さんのことになるとずいぶん感情的になるんですねえ。面白っ」
川喜多さんは真顔で口もとを押さえてふふっと笑った。
真っ赤な顔で黙り込む千秋さんを放置して、川喜多さんは私に目を向けた。
「紗那さん、お疲れさまでした。もう山内家の連絡先をブロックしてもいいですよ。もし別の手段で接触してきたら法的措置を検討しましょう。ですが、もうその心配はなさそうですね」
山内家は今後、私のことより自分たちの家庭のことで頭を悩ませることだろう。私がきっかけにはなったけど、いずれ彼らはそうなる運命だったのかもしれない。
「本当に、ありがとうございました」
私は頭を下げて礼を言うと、川喜多さんはぺこりとお辞儀をして「それでは」と短く挨拶すると自分の車を停めた駐車場に行ってしまった。
私は千秋さんの車で帰宅することになった。
帰る道中車内で私はぼんやりしていた。すべてが終わったはずなのに、まだ落ち着かないからだ。
私がだんまりだから、千秋さんが話しかけてくれた。
「今日は疲れただろう。お腹減ってる?」
「えっと、あんまり……」
「そうか。じゃあ、帰って何か軽い食事でも作ろうか」
「それは申し訳ないです」
「いいよ。今回俺は何も役に立っていないから」
千秋さんは苦笑しながらそう言った。
そんなことないのに。私のことをずっと気にかけて、心配してくれて、そばにいてくれた。それだけでもずいぶん救われている。
「そんなことないです。千秋さんがいたから、私はあの状況から抜け出せたんです。本当に、感謝しています」
「そっか。嬉しいな」
私がちらりと目を向けると、千秋さんはまっすぐ前を見たまま嬉しそうに微笑んでいた。
その横顔がすごくかっこよく見えて、不覚にもドキドキした。
千秋さんが私の視線に気づいてちらりと横目で見た。
私はどきりとしてとっさに目をそらしてしまった。
「どうかした?」
「いいえ。あの、山内家のことが少し気になって……」
「彼に情がある?」
「いいえ、それはないです。けど、あんなことになってしまって、ちょっと複雑な気分です」
山内家が今後どうなっていくのか不安な気持ちが拭えない。もう私とは関係ない家だけど、私のことがきっかけでこうなったなら少しばかり責任を感じてしまう。
けれど、そのことを吐露したら千秋さんはさらりと言った。
「あの家の問題と君は無関係だよ。君のことがなくても、あの家はいずれ崩壊する道を辿っていた。それが早まっただけさ」
「そう、ですね」
誰かからそう言ってもらえると、少し心が軽くなる。
千秋さんはいつも私の心を救ってくれる言葉をくれる。
じわりと胸が熱くなって、私は安堵の笑みがこぼれた。
「あの、やっぱり安心したらお腹がすいてきました」
「そっか。何が食べたい?」
「ん-っと、お刺身とか海鮮丼とか、魚が食べたいなー」
居酒屋に出てくる刺身盛り合わせが頭に浮かんだのでそれを口にしたら、千秋さんは「了解」と言って車を車線変更して右折した。
「銀座で寿司を握ってもらおう」
「え? 違う。そんな……」
「大丈夫。刺身の盛り合わせも作ってくれるんだよ」
「それめちゃくちゃ高いでしょ」
「日本の魚は美味いよなあ」
「話聞いて……わっ」
千秋さんはいきなり左手を伸ばして私の髪をくしゃくしゃを撫で回した。
「元気出た?」
「……はい」
「そう、よかった」
撫でられた頭にそっと手をやってその感触の名残を感じながら私の胸中はドキドキしていた。
私はたぶん、千秋さんのこと、結構好きかもしれないって、このとき少し自分の気持ちに気づいたのだった。
だけど、気づいてはいけなかったのかもしれない――。