クリス殿下とわたしは植物園の入口で見えなくなるまで、馬車を見送った。
見えなくなっても3人が帰って行った方角を見たまま、ふたりともただ茫然と立ち尽くしていた。
「シャンディ、アドニス嬢の介抱をありがとう」
クリス殿下が静かにお礼を言われた。
「いえ、わたしはなにも。こちらこそ、ペイトン様がいろいろと申し訳ありませんでした」
植物園に来たばかりで、嵐のような時間を過ごし、まだ頭の中はぐちゃぐちゃだ。
考えも気持ちの整理も少しもできていないのはクリス殿下も一緒だろう。
「シャンディも馬車で帰るか?呼んでこよう。少しだけ、ここで待てるか?」
クリス殿下の方がお辛いだろうに、この人はこんな時でも先に人の心配をしている。
本当に気遣いの人。
「ありがとうございます。でも少し落ち着くために歩いて帰ります」
「そうか。家まで送るよ。そう遠くないだろう」
「でも…」
空を見上げる。
空はいまにも雨が降り出しそうだ。
「わたしを送っていたら、クリス殿下が雨に降られてしまいます。わたしは大丈夫ですのでクリス殿下は先に馬車でお帰りください」
馬車を呼びに行こうとすると、止められた。
「今日は雨に降られても良いんだ。濡れても良いんだ」
クリス殿下の長い前髪から見える少しだけの表情が辛そうに微笑むのがわかった。
雨に濡れても良いと思う気持ちは一緒だ。
ふたりで無言のまま、歩き出した。
先ほどより少し風が強くなってくる。
束ねてこなかった髪の毛がもうボサボサだ。
クリス殿下の前髪も風に吹き飛ばされそうだ。
お互いが必死で髪の毛を押さえる。
目が合い、重い空気で硬くなっていた表情をどちらからともなく思わず緩めた。
「クリス殿下はこれからどうされますか?」
「私達の婚約は政治絡みだからね。アドニス嬢や私の気持ちと一番遠いところで、みんなの都合の良いように政治的に上手くいくように好き勝手に話し合われることになると思うよ。私はどんな結果でもただ受け入れるしかないし、どんな結果でも受け入れるつもりだよ。私からアドニス嬢に何か発言することはもうないよ」
「クリス殿下はそれで良いのですか?」
いつもなら受け流せたのに、今日はどうも思考がそこまで至らない。
思わず、感じたことがそのまま口から飛び出した。
「どういうこと?」
クリス殿下の絶対に触れてはならない逆鱗に触れたようだった。
それは長い前髪をかき分けて、その綺麗な青い瞳を覗くぐらいにやってはならないこと。
そうわかっていても、もう止まらなかった。
「貴方の意見や気持ちはどこに向かうのですか?アドニス様の幸せを願っているなら、アドニス様にそのことを直接伝えてあげてください。婚約者としての最後の言葉を他人から聞くほど辛いことはありませんよ。それに今後はクリス殿下はどうされたいんですか?なぜ、そんなに受動的なんですか?時には能動的に発信していかないと、伝わらないことがたくさんありますよ」
珍しく捲し立てるように喋るシャンディに私は核心を突かれた思いだった。
自分ではわかっていたけど、絶対に人に触れられたくない部分。
兄達の王位継承争いに巻き込まれることのないよう、第3殿下という立場は何も主張することなく、言われるがままの受け身で、ただひたすら目立たずに生きるのが良策であると思っていた。
「こいつはなにを考えているかよくわからないから使えない」
私には最高の褒め言葉だ。
だから、ずっと前髪を長いままにし、さらにメガネまでかけ、その表情や瞳から私の思考を他人に読み取れないようにしていた。
それでも最近は、このままではいけないと、まずはアドニスに対してはこれからもっと私から気持ちや思いを伝えて行こうと行動した矢先だった。
「そうだな。シャンディのいう通りだ。私はなにもしてこなかった。アドニスに対しても自分の人生にもだ。すべて「受動的」だったな。シャンディは今後どうするんだ?」
私の核心を易々と突いてきたシャンディは私の気にしていることを言ってしまったのではないかと、横で歩きながら、いまにも泣きそうな顔をしていた。
君は私のそんなことで、そんな泣きそうな表情をするんだ。
私のことで。どうして?
私の心が波立つ。
シャンディは無理矢理に作った上手くない笑顔でニッコリした。
「私はペイトン様のお考えに一任しようと思っています。アドニス様と一緒になられるのも良し、わたしとの婚約を継続されるも良し。政略結婚ですから」
諦めにも似た、全く彼女らしくない発言だ。
「シャンディ、君にイライラするよ。なぜペイトン殿に怒らないんだ。取り乱さないんだ。どうして、我慢するんだ。嫌なら嫌って言えよ。どうしていま、泣きそうな顔なのに我慢するんだ!泣いたらいいんだよ!」
自分でも驚くぐらい激しい感情が湧き上がってくる。
かつて、こんな感情になったことはあっただろうか。
空がもう限界だったのだろう。
小粒の雨がポツポツと顔に当たり出した。
「クリス殿下なら分かると思っていた」
シャンディが立ち止まって、私の方を向き、私を見上げてくるその瞳には涙がいっぱい溜まっていた。
「誰が辺境の地に来たい?戦争に怯えて、平和から程遠い地に誰が好き好んでくるの?しかも政略結婚よ」
シャンディの頬に涙が伝う。
「クリス殿下の王都で政治的だけど、王城で安心して暮らせる結婚とは全く違い、危険な辺境の地に来る政略結婚よ。わたしのことが好きでくるのとは訳が違うの。婿になる人は好きでもない女のところに死を覚悟してくるのよ。そんな人を怒れる?」
涙を拭もせず、真っ直ぐに私を見てくるシャンディ。
この前髪が初めて「鬱陶しい」と感じる。
「少しでもわたしのことを好きになって、辺境の地に行っても良いなって思ってもらえるようにしたかったの。たったそれだけだったのよ」
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