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【BBC緊急速報】
本日 2002年5月13日 午後1時11分
“ホワイトハウスを狙った撃墜予告”──史上最悪の犯行声明か
ロンドン、BBCニュースセンターより
つい先ほど、匿名の動画投稿を通じて、犯人とみられる人物より──
『アメリカ・ホワイトハウスを標的とした航空機による撃墜』の声明が発信されました。
■“ストラトス”をめぐる疑惑
──英国所有の大型航空機が危機の中心に問題となっている航空機は、イギリスが開発・保有する軍民両用大型航空プラットフォーム『ストラトス』。
機体構造や飛行制御システムには。
■子供たちが搭乗──ワイミーズハウス避難計画の余波
さらに問題を深刻化させているのは、現在このストラトス機に“避難中の子供たちが多数搭乗している”という未確認情報です。
この情報が事実であれば、乗員の大多数が未成年者であり、避難民であることになり、仮に機体が攻撃対象となった場合、人道的・“政治的影響は計り知れない”と専門家は警鐘を鳴らしています──
◈◈◈
「──Lです。現在の状況は?」
回線の向こう側にいるのは、《GCHQ》──イギリス国家の中枢に位置する、技術・情報インフラの要。
この回線を使うのは、Lにとっても久しぶりのことだった。
〈こちらGCHQ。報告いたします──現在、ストラトス機の制御システムに対し、外部からの不正アクセスが検知されました〉
Lの指がピクリと動く。
「──どの層ですか?」
〈第一層および……第二層です〉
「──……」
Lは額を抑え、爪を噛み始めた。
「……侵入者は特定できていますか……?」
〈断定はできませんが……使用された暗号鍵の一部、および攻撃パターンの一部に“特有の癖”がありました〉
Lは小さく息を吸う。
〈我々の解析班の見立てでは──“Eraldo=Coil”によるアクセスである可能性が高いと判断しています〉
Aの心臓がどくん、と跳ねた。
……ここにきて、エラルド=コイル──?
(Zが操縦権を握っているはずじゃなかったのか……?)
それとも、“途中で奪われたのか”──あるいは最初から、別の誰かが裏で動いていたのか。
状況が一気に不透明になる。
もし本当にエラルド=コイルの手に操縦権が渡っているのなら、それはそれで危険だ。奴が何を目的に動いているのか、こちらには分からない。
協力者なのか、独自の思惑で介入しているのか……味方とも断言できないし、敵とも言い切れない。
そのエラルド=コイルがなぜ?
どういうことだ……。
Aは唇を噛んだ。
Zの挑発、ストラトスの異常挙動、そしてエラルド=コイルの名前。それぞれが別の線で動いていたはずなのに、今、同じ一点で重なりつつある。
もし操縦権がエラルド=コイルに奪い合われているのだとしたら──機体は“誰の意思”で飛んでいる?
最悪なのは、“どちらも制御しきれていない場合”だ。
状況は、想定よりもはるかに悪い──
(……第一層が“敵”の手に落ちたなら──)
Aは喉の奥を押さえた。
(……──墜落は、《確実に》実行される)
けれど、次の瞬間、ふと脳裏をよぎったのは──
(でも……あの飛行機──どうやってピンポイントで“ワシントンD.C.”に落とすつもりなんだ?)
通常航路に載せた機体が、大統領府の屋根に正確に激突するなんて、まず──あり得ない。
現実的に考えれば、ただ落っことすだけで“命中”なんて不可能だ。
にもかかわらず──Zは「ホワイトハウスに墜とす」と宣言した。
「…………………」
どちらにせよ──ストラトスが、今まさにアメリカ領空を目指していることは間違いない。
今、この状況で……もしストラトスがアメリカ本土に落ちたら──
Aの顔色が明らかに青ざめた。
──航空機は“イギリス”の所有物。
──搭乗者は“フランス”の保護対象である子供たち。
──墜落予定地は“アメリカ本土”。
──犯人は、“イギリスのワイミーズハウス出身”とされるテロリスト。
──しかも、イギリス王室はすでに“アメリカ由来の麻薬”で壊滅。
──世界は今、“欧州バイオテロ疑惑”のただ中。
そんな中で、第一層、第二層は敵に掌握されている。操縦不能。墜落は、確実──
「最悪だ……ッ」
思わず、喉から声が漏れた。
地獄のような構図。
イギリス所有機が、フランス保護下の未成年を乗せ、アメリカ本土へ墜落──しかもテロ容疑者はイギリス出身。
これは事故ではなく、“国家間事案”になる。
アメリカは報復の正当性を主張でき、イギリスは管理責任を問われる。フランスは保護義務違反を非難する。
三国間の緊張は一気に軍事レベルへ跳ね上がるだろう。
Aは震える声で、Lを振り返る。
「……どうするんだよ、L……!まずいよ!」
Aの声は、絞り出すような悲鳴だった。
そのとき──
〈……緊急ですッ!!こちらGCHQ──ストラトス機内で重大な異常が発生しました!〉
突然の通報。
回線越しの声は、もはや報告という体を成していなかった。
受話器の向こう側で、数人の怒号と混線が走る。
〈……心拍数が……! 副機長も……っ、もう……!〉
〈AED反応なし!心電図、フラット──!〉
〈確認しました……機長・副機長、両名とも……《死亡を確認》!〉
「「──ッ!!」」
Lの指が止まり、背筋が鋭く伸びる。
Aは目を見開いたまま凍りつき、次の瞬間には椅子を蹴って立ち上がっていた。
「嘘だ!なんで……、なんで今……!!」
膝が笑う。頭が真っ白になる。
誰もが最悪の事態を予想しながら、どこかで「まだマシかもしれない」と思っていた。
けれど、それは突然に、最悪を通り越す──
〈機体は現在、自動操縦に移行していますが、“コース修正不能”。第一層・第二層ともに指令反映せず!〉
「……死んだ……?」
Aは呆然と呟いた。
「……殺されたのか?」
誰が──
どうやって──
遠隔で?
機内に仕込まれていた何かで?
それとも──“最初から、そうなるように組まれていたのか”。
〈第一層・第二層のコントロールは、すでに“外部からの指令”で上書きされています〉
Lの視線が、鋭く一点を見据える。
「……エラルド=コイルか」
──Lの拳が、震えた。
「どこまで私を怒らせれば気が済む……!エラルド=コイル」
Aは一歩下がり、机の端に手をつく。
「やばい……やばいって、L! これ、止まらないッ……!!」
「………………」
ストラトスの軌道は、現在も変更不可能。
高度・速度・進行方向は、完全に“誰かの手”に握られている。しかもそれが、Lの天敵──
《エラルド=コイル》。
次の一手が、思い浮かばない。
何としてでもあのストラトスを止めなくてはならないのに──Lは、動かない。蹲って額を抑えてるだけだ。
「……何か言ってよ」
Aの胸の奥で、苛立ちが形を持ち始める。
どうして?
どうして何も言わない?
「……L、なにか考えてよ!!」
その声には、すがるような切迫感が滲んでいた。
「このままだと、落ちるんだよ!アメリカに!!」
Lは歯を食いしばり、ほとんど独り言のように、低く呟いた。
「……第一層が奪取されている。……こちらのコマンドも通らない……」
低い、押し殺した声。
「……やられたか……」
ほんの一瞬、Lの目が揺れる。
「最初から……こうなるように、組んでいた……これも私を殺すためか……?」
唇がわずかに歪む。
「……さすがは、エラルド=コイル……」
机の縁を握る指に、血の気が失せる。
「私を、ここまで追い込むとは──想定外だ」
Aは耐えきれず、Lの肩を掴み、ガクンと揺さぶった。
「ねぇ!! L!! Lってば!」
Lは答えなかった。
その指は硬直し、口元に当てた親指の爪を──ガチガチと、食いちぎる勢いで噛んでいた。
「……っく、ぅ……」
Aは、そんなLを見て、さらに言葉を失う。
“Lが、黙っている”──
これまで、どんな絶体絶命の場面でも、最悪の推測の先でも、あの人は動じなかったはずなのに。
そのLが──今、目の前で、怯えている。
口を閉ざし、指を噛み、なにかに必死に抗うように……。
Aの全身が、粟立った。
“本当に、何も……手がないのか?”
いや。
そんなはずがない。
Lだ。
世界最高の探偵。
幾度も不可能を覆し、理不尽を論破し、世界を正しい位置へと戻してきた男。
負けるはずがない。
勝つ。
正義は勝つ。
そうだ──正義は勝つんだ。
Lは必ず勝つ。
勝たなければならない。
それがLとしての役割。
Lが負けるなんてことは──徹頭徹尾、許されない。
許されないのだから。
「L──……頼むよ……L……」
頼るしかない。
考えるのはLの役目。
答えを出すのもLの仕事だ。
そう、Lとしての──役割。
それがL。
世界の運命を背負う存在。
それがL──
そう、それがL。
そうだ──
──“それで、いいんだ”。
──そのとき。
〈緊急通達。GCHQ経由でアメリカNSAより連絡──ストラトス撃墜のため、米軍が出動を開始しました〉
「……えっ……?」
Aの呼吸が、一気に止まる。
〈現在、ストラトスはアメリカ本土へ接近中。ワシントンD.C.周辺への侵入が予測されています〉
〈これを阻止するため、迎撃機および地上の対空ミサイル部隊が展開を開始〉
〈状況次第では、“即時撃墜”が実行されます〉
つまり。
このまま進めば、アメリカは撃つということ。
空の上で。
子供たちを乗せたまま。
ストラトスは撃ち落とされる──
「……や、やめろっ!何考えてる……!」
膝から力が抜けた。
手をつこうとして、キーボードにぶつかり、そのまま滑り落ちた。
「そんな……」
──本当に、撃つつもりか!?
アメリカは。
今この瞬間、僕らの仲間が乗った飛行機を、本気で──撃ち落とすつもりだ。
「──や、やめろ……」
背中が折れそうだった。
アメリカは、“正当防衛”の名のもとに、撃てる。国家を守るという理屈の下で、子供が乗っていようと関係ない。
「……だめだ、こんなのっ……」
Aは顔を両手で覆い、叫んだ。
「L……なんとかしてよ……ッ!!」
Aの絶叫が部屋に響いた、その瞬間──
──ピ、ッ……!
Lの眼前の端末が、唐突に音を立てた。
次の瞬間、通話画面が強制的に終了される。
「──ッ!?」
Lが顔を上げる暇もなく、画面が切り替わり、数秒後、勝手に“メモ帳アプリ”が立ち上がる。
何の操作もしていないのに、カーソルが点滅し──文字が、打ち込まれはじめた。
《L、どうするんだ?》
Aがはっと振り返った。
だが、そこに映っているのは、もはや“こちら側”の画面ではない──
Lのパソコンごと、乗っ取られたのだ。
完全に。
「……ッ、み、見事だ」
Lの指が髪に食い込み、無造作に引っ掻く。
「私の王手を、王ごと盤外に捨てるとは」
画面を睨みつける。
「……ここまでは、お前の思惑通りということか……エラルド=コイル」
息を吐く。
「綺麗に詰まされた……。こちらの一手は、最初から計算済みだったらしい。私一人追い込むために世界を人質にするとは──品がない。美学も節度もなければ、勝負の矜持すらない。己の優位を証明するために無辜を踏み台にするとは──悪趣味にも程がある」
瞳が浮き、じっと目の前を睨みつけた。
「お前は悪だ。悪、悪!悪は悪──!」
ガチッ、と爪を噛み砕く音が響く。
「──探偵の皮を被っただけの、『悪者』に過ぎない」
背筋に、ひやりとした汗が伝う。
“あのコイル”が、Lのパーソナル端末を“初手で破った”のだ。
信じられない──
そして──再び、画面に打ち込まれる文字。
《コース変更は、無意味だったろう?》
《私が、第一層共に二層を“乗っ取って”おいたからさ》
《あの飛行機は、もう“まっすぐ”絶望へと向かっているよ》
Lの指が止まる。
Aの呼吸が荒くなり、肩が震えた。
《お前の脳みそでどうにかできるか?》
《本物のLなら、わかるはずだろう?》
《“ここ”が、本当の詰みであることを──》
画面に浮かぶ文字だけが、淡々と現実を突きつけてくる。
──詰み。
そう、これは詰みなのだ。
勝てる余地がない。
《アメリカにストラトスが落ちたら、私は“全部”を喋るよ》
次に現れたメッセージは、それだった。
Lの指が止まる。
画面に、さらに文字が走る。
《犯人がZであること》
《Zが、ウィンチェスターのワイミーズハウス出身であること》
《“ゼカインがアメリカで作られたこと”》
《それと──お前の“代理、A”のことも》
Lの目が見開かれる。
「……ゼカインが“アメリカ生産”……!?」
その情報は、Lにとって“初耳”だった。
しかし──Aは、無意識に視線を逸らしていた。
──僕は、知っていた。
ゼカインがアメリカ生産であることを。
イギリスのハーヴェル科学防衛庁の内部記録に侵入した際、Aはその事実を掴んでいた。
だが、その直後に逆ハッキングを受けた。
本来なら──すぐ、Lに報告すべきだった。
しかし、Aは黙っていた。
怒られるのが怖かった。
見限られるのが怖かった。
使えない駒だと思われるのが怖かった。
だから──何も言わなかった。
──報告したところで、犯人を特定できる材料にはならない。生産国が分かったところで、直ちに打開策が見つかるわけでもない。
なら言う必要もない、そう思った。
だから、言わなかった。
言う必要なんてなかったから──
《──L。お前ならわかるよな》
《ストラトスがアメリカに落ちれば、戦争が始まる》
《ミサイル一発では終わらない》
《乾いた森に、たった一粒の火──誰かの正義が、誰かの報復を呼び、灰の上にまた新たな火種が落ちる》
《悲劇は連鎖し、復讐は世代を渡る》
《一つの墜落が、幾つもの死を生む》
《棺が並べば、旗が立つ》
《旗が立てば、正義が湧く》
《正義が湧けば、愚か者が銃を握る》
《血は乾く前に次の血で染まる》
《“報復”という言葉を、都合よく飾り立てるだけだ》
《笑えるよな、L》
《たかが一機の撃墜が、世界を焦土に変える》
《お前が守りたい“世界”っていうのは、その程度の脆さだ》
《表面だけ磨き上げた銀食器みたいにな。中身はとうに腐ってる》
《甘い理屈で覆ったところで、芯は黒い》
《水に沈めたリンゴみたいに。確実に、内側から崩れていく》
《人間は心がある限り腐る》
《正義ほど都合のいい防腐剤はない》
《自分の腐臭だけは感じなくて済むからな》
《──L、お前もそうなんだろう?》
《正義を語るその舌で、どれだけの血を飲んできた?》
《光を当てればよく分かる。お前の心の汚さがな》
《反吐が出る──薄汚い探偵め》
《やり方も、お前の掲げる正義も、何もかも》
《同じ色をしている──真っ黒だ》
《最も醜い──偽善者探偵》
Aの視線が、無意識にLへ向く。
指を噛み、歯を食いしばり、必死に考えている。
あれが。
あれが偽善者の顔か?
違う。
違う。
違う。
Lは正義だ──!
そう、Lは正義──!
偽善者なんかじゃない──!
《もう、探偵ごっこは終いだ、L》
《盤上の推理で済む段階は過ぎた》
《ここから先は、命の勘定だ》
《お前の正義に──鎌をかけてやる》
《この絶望的な状況でストラトスを止める手段は、ただひとつ》
《──“名前”だ》
「……名前?」
《そうだ──》
《Lの名で──ストラトスを撃ち落とせ》
息を呑む音すら、空間から消えた。
“Lの名で、落とせ”──
それはつまり、「子供たちを殺せ」という命令。
自らの手ではなく、命令という“形式”で、国家でもなく、誰の都合でもなく──
“Lの責任で”。
その選択を強いられる、最悪の構造。
あらかじめ設計された、破滅への一本道。
「──……ッ」
目の奥で、世界の歯車が狂っていく音がする。
(何を言っているんだ、こいつ……)
Lの“名前”で撃ち落とせ?
それは撃墜命令を出せ、という意味じゃない。
【責任を負え】という意味だ。
国家でもなく、軍でもなく。
L個人の意志として。
子供たちの死を──背負えと言っている。
そんなこと、あるか……!
そんな構図があっていいはずがない!
ふざけるな。
Lは探偵だ。
処刑人じゃない。
なのに──Zはそれを分かって言っている。
“Lの一番重い部分”を、正確に抉ってきている。
“Lに命じさせる”。それが奴の狙い。
Lという名前を、血で汚させること。
……狂ってる。
しかし──ストラトスがアメリカに落ちれば、戦争は現実味を帯びる。
引き金は一発で済まない。報復は報復を呼び、最悪の未来──《第三次世界大戦》へと連なっていく。
だが、アメリカが撃墜すればどうなる?
機内にいるのは、フランスの未成年者。“安全保障”の名目があろうと、結果は大量殺害だ。
人道的にも外交的にも、致命傷。
フランスは黙ってない。
世界は糾弾する。
それでも、《正当防衛》の理屈は成立してしまう。
そういう未来が、あり得る──
では──イギリスが撃ち落とせば?
ゼカインがアメリカ製だと露見した今、その判断はこう映る。
『アメリカの過ちを、イギリスが子供の命で清算した』
怒りは抑えきれない。
ただでさえ軋んでいる両国関係は、決定的に裂ける。
アメリカとイギリス──
どちらが撃っても、地獄。
どちらが撃たなくても、地獄。
そして、エラルド=コイルが突きつけているのは──
“誰の手も汚れずに、Lに引き金を引かせる”構図。
責任を個人へ圧縮し、国家を免罪する。今の盤面は、そのために用意されたようなものだ。
なら、止められるのは──
世界を手にかける《L》しかいない。
どの国にも属さないL。
今、最小限の被害で撃墜命令を出せるのは──“Lが自分の名前で、その飛行機を撃ち落とすほかないのだ”。
(だが──そんなことしたら……)
……Lは終わる。
世界は助かるかもしれないが、Lは“自分の名前”で子供を殺した者として残る。
国家でもない。
軍でもない。
Lという一個人が、命じた死として──
しかも、機内にいるのはワイミーズハウス出身の子供たちだ。
Lと同じ場所で育ち、同じ生活をし、同じ未来を夢見たかもしれない子供たち。
その命を、Lの名で断つことになる。
そんなことになれば──僕らはどうなる?
ワイミーズの子供たちは。
尊敬してきたその名を、どうやって受け止めればいい?
救われた世界の裏で、僕らは、Lを許せるのか。
いや──許せるはずがない。
それは、世界を救う代わりに、“Lの名を失う”選択だ。
でも──それ以外に、今、この地獄を止める方法があるのか──
「──エラルド=コイル……ッ!」
珍しく、明確な怒気を含んだ声だった。
その名を吐き捨てるように、Lは呟いた。
「私を、怒らせたな」
モニター越しの相手には届かない怒声。
それでも、抑えきれない。
Lはかつてないほど、感情を剥き出しにしていた。
「どこまで、私の名前で弄べば気が済むんだ……!」
低く絞り出すような声だった。
それは、かつてLが誰にも見せたことのない“怒りの決意”──
Lは、勢いよく振り返ると、机の上に並んだ端末二台を次々に立ち上げる。
一台は暗号通信専用のインターフェース、もう一台はスーパーコンピュータ搭載のパソコン。
薄暗い部屋に、一気にモニターの明かりが増していく。
「ワタリ、NSAへ接続。──至急だ」
「了解しました」
ワタリは短く返事をして、即座にラインを確保し始めた。
Lは別のキーボードを操作しながら、Aの方へ向き直る。
「A」
その声は、驚くほど冷静だった。
「第二層へ侵入してください。フライトコントロール・オーバーライドを奪取します」
Aの思考が一瞬、白くなる。
「無理だ。第二層はコイルが握ってる。第一層も、自動操縦は外部コマンド優先だ」
「承知しています」
即答。
「ですが、“完全掌握”とは限らない」
「コイルが侵入したのは第二層の制御ルーティング。ならば──そのさらに下層、物理制御補助レイヤーに“隙間”がある可能性があります」
「……バックドアを探せって?」
「ええ。奪い返します」
冷たい声。
「第二層を再上書きしてください。衝突コースを一度でも逸らせればいい」
一度。
たった一度の角度変更。
だが──
それは、ほぼ不可能に等しい。
現在のストラトスは、自動操縦の最深層が外部コマンド優先に固定されている。
第二層はコイルの手に落ち、指令ルートは上書き済み。操縦桿の入力も、地上からの再指示も、すべて拒絶される構造だ。
しかも高度は巡航域。
速度は音速に近い。
巨大な機体の進行方向を“わずかに”変えるには、エルロンかラダーの制御値を書き換え、機体姿勢演算を再計算させ、慣性制御の補正を突破しなければならない。
ミリ秒単位の割り込み。
それも、敵のセッションが優先権を握った状態で。
事実上──鍵の掛かった部屋に、内側から押し返すようなものだ。
Aの喉がひりつく。
「……第二層はコイルの排他制御下だ。優先順位テーブルも握られてる。再上書きなんて、衝突判定で弾かれる」
「ですから、“完全掌握”でなく“競合”を起こしてください」
競合。
つまり。
コイルの制御と僕の書き換える制御で衝突させる。
ほんの一瞬でも演算を揺らせば、オートパイロットは再計算に入る。
その再計算の隙に入る。
だが──その再計算は保証されない。
最悪の場合、制御が暴走する。
失速。
スピン。
空中分解。
Aの指先が冷たくなる。
「……それ、成功率いくつだと思ってるんだ?」
「理論上、ゼロではありません」
「“ゼロじゃない”ってことは、ほぼゼロって意味だろう?」
Lは視線を逸らさない。
「可能性が存在する限り、試行する価値はあります」
「統計的には“誤差”って言うんだ、それ」
Aの指先は冷えたまま、キーボードの上で止まっている。
「数百ミリ秒の再構築タイミングに割り込んで、敵のセッションと競合起こして、姿勢角を数度ずらす? しかも音速域で?」
息が浅い。
「暴走したらどうなるか、分かってるよな?最悪、空中分解だ。子供ごと空で爆ぜる」
沈黙。
Lは、ほんのわずかに爪を噛む。
「分かっています」
それでも声は揺れない。
「“ほぼゼロパーセント”に命を賭けろと言うのか?」
ほんの一瞬だけ、視線を上げる。
「僕が一番嫌いな確率論だ」
「ええ。私も好きではありません」
一拍。
「ですが、それが唯一の“希望”であることも事実です」
指は止めないまま、続ける。
「私は、絶望を見守るより──希望にしがみつく方を選びます」
Lの声は、感情を排している。
運命の綱渡り。
しかも、足場は敵が握っている。
それでも──
「……やるしかないのか」
Lの視線が、Aを射抜く。
「あなたなら、可能性を“0から1へ”引き上げられる、そう信じています」
言葉が、そこで止まる。
Aの視線はモニターに落ちたまま。
僕は……そんな大層な存在じゃないよ。
「スーパーコンピュータを使用してください」
でも──できるかどうかじゃない。
やるしかないんだ──
「……──わかっ、た」
AはLの言葉を背中で聞きながら、隣のスーパーコンピュータに接続された端末に向き合った。
机の上のケーブルを差し替え、起動シーケンスを確認。
瞳はまっすぐモニターに向かっていた。
その隣──Lは、別の端末に向き合っていた。
「──Lです」
重く沈んだ空気を切り裂いた。
暗号通信プロトコルが安定し、アメリカ国家安全保障局(NSA)のオペレーターが接続を確認する。
〈こちらNSA本部〉
「状況は──?」
〈現在、迎撃シークエンスは待機段階に入っています〉
迎撃“待機”。
つまり、指一本で発射可能ということだ。
「待ってください。その命令──“私名義”で実行していただきたい」
沈黙。
回線の向こうで、誰かが息を止めた気配。
〈……どういう意味です?〉
Lは間を空けずに返した。
「そのままの意味です。撃つなら──“Lの名で”撃ち落としてください。国家の命令ではなく、“私の判断”として記録を残す。作戦報告、履歴、すべてです」
Aの鼓動が跳ね上がる。
L、本気なのか……?
そんなことしたら、本当に後戻りできなくなる。
今やろうとしているのは、“責任の全引き受け”だ。
L一人が背負うには重すぎる──
〈なぜ、そのような措置を?〉
疑念。警戒。計算。
NSAは簡単には動かない。
しかし、Lは突き進む。
「理由は明白です。アメリカが撃墜すれば、外交問題になるからです。フランスも英国も黙っていない。国同士の責任論が始まる」
一拍。
「ですが、“Lの独断”であれば話は別でしょう」
部屋が凍る。
Aの視界が歪む。
だめだ、L。
それは。
それだけは……。
それは“Lを殺す”選択だ。
そんなの誰も望まない──
なのに。
「“最悪を回避するために私が全責任を負います”」
Lは自己犠牲へと進んでいく。
〈……しかし、どうやって?〉
Lは一瞬も迷わない。
怖気づく気配もない。
なぜだ。
なぜ、そこまで躊躇がない。
「報告書には、こう記してください──“Lの指揮により、アメリカ合衆国はストラトスを撃墜した”と」
Aの呼吸が浅くなる。
どうして。
どうしてそこまで割り切れる?
死ぬのが怖くないのか?
「国家はLに従っただけ、という形を取ればいい。撃墜判断も、命令系統も、すべて“個人の裁量”に帰属させる」
それは──国の血を、一人の名で拭う行為。
国家という巨大な罪を、たったひとつの存在に引き受けさせる。
贖罪を、集中させ、雷の落ちどころを一点に集めるように──世界が背負うべき重みを、Lという名に縫い付ける。
それは、決して正義じゃない。
犠牲だ。
だがLは、それを犠牲とも呼ばない。
〈……そんな“便利な個人”が、存在してたまるか〉
呆れとも、畏れともつかぬ声が、回線越しに滲む。
その言葉を、Lは否定しなかった。
「──“それが、Lです”」
言い訳でも誇示でもない。
事実の提示。
わずかな沈黙が、重力のように沈む。
「ただし、指揮権は私にください。“Lの名で撃つ”のなら、“私の判断で撃ちます”」
責任を差し出す代わりに、決定権を奪う。
Lらしい、やり方だ。
回線の向こうで、誰かが息を呑む。
〈……………〉
数秒。
異様に長い数秒。
〈……こちらで協議を開始します。即時返答はできません〉
協議。
時間稼ぎか。
「協議は不要です。今──返答をください」
〈無茶を言うな〉
「いえ?合理です。私はあなた方に“責任を押しつける”つもりはありません。これは、私個人の名において発行される“命令”。あなた方の合議体制や報告体制に敬意は払いますが──“時間”が、それを許してくれない」
通信が、一瞬緊張に凍りつく。
「今この瞬間にも、あの機体は接近している。何を選ぶにせよ、選ばなかった方には、“子供の死”か“大統領の死”が待っている。そのリスクを分散させる手段を、私は提示しているのです。『Lの名で撃ち落とす』。それが、唯一の妥協点でしょう」
〈……〉
「“合意形成を待つ間に、何千人が死ぬ”──それを受け入れる覚悟があるのなら、どうぞ協議を続けてください。ただし──その時は、“あなた方の責任”になります」
そこまで言い切ると、Lは一瞬だけマイクから顔を離した。
「……答えは──“今”、ください」
モニターの前、わずかにサー……という回線のノイズが広がる。
〈……通信、繋ぎます。国防副長官が出ます〉