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私は、走り出していた。
その光景から生まれた胸の苦しみを抱えながら、あてもなく走り出す。
ただ、その場から離れたかった。
バラと蝶を背に、一直線に駆けていく。
誰も、走り出す私を、引き止めてくれることはなかった。
気付くと、見慣れたドアが待っていた。
そこに戻ってくるのが必然であったかのように、私も足を運んでいた。
ドアノブを引き、部屋に入る。
そこには、いつもの光景がある。
けれど、キリンさんは見当たらなかった。
たぶん、今で迎えられていても、すぐに仲良くすることは出来なかっただろう。
代わりに、部屋に残されていた二匹の蝶が私を出迎えた。
肩に留まり、おかえりと呟いているようだった。
ローズに留まった時のように、迷いなく、引き寄せられるように。
「あなた達は、キリンさん……じゃないよね?」
自分でもおかしなことを言っていた。
不安で答えを求めるような、でも聞きたくないような。
複雑に感情が入り混じってしまった言葉。
「自分でも、おかしなことを言っている自覚はあるよ。でもね……なんか苦しかったの」
身体的な疲れもあるのか、今の私は一人で立っていられなかった。
ドアに背を預け、なんとか自立を保つ。
ローズという名のバラに、蝶が吸い込まれていく光景が、閉じた瞼にしっかりと焼き付いていた。
ローズの言う好きな人は、もしかしてキリンさんのことではないだろうか。
そんな考えがよぎり、忘れようと振り払う。
長身で細身で優しい。
時々悲しい顔をする。
言葉に縛られるように、キリンさんの姿が思い浮かんでしまう。
「なんで苦しいんだろ。ローズの好きな人がキリンさんかどうか、まだ分からないのに」
肩にとまる蝶を撫でる。
小さく羽を動かす仕草が、嬉しそうだ。
「キリンさんが手品で生み出す貴方たちは、キリンさん自身じゃないのにね。なんで、あの光景が苦しいの……」
花の蜜を求めに行くのは、蝶の生態であり、理解している。
花も蝶に合わせて。蜜を蓄える。
当たり前のことなのに、どうしてこんなにも……。
「とりあえず、あなた達もローズの所へ連れていかなきゃ。キリンさんのお願いごとだったもんね」
私は半ば強引に、気持ちに蓋をして再びバラ園へと向かった。
「あら、また来てくれたのね」
肩にとまっていた蝶は、二匹ともローズを見つけた瞬間に飛び去ってしまう。
そして、ローズは私にではなく、キリンさんの蝶に語りかけているようだった。
「貴方が来てくれる度、蝶と会える。こんなに嬉しいことはないわ」
ローズは蝶を見つめ、愛おしそうに触れ合っている。
私はなんだか、いい気持ちがしなかった。
「そういえば、貴方に言いたいことが出来たの」
ローズは、すぐさま私の方へ向き直る。
私の気持ちなど知れない癖に、自分の用事だけは済ませようとする。
ロイに似たマイペースな彼女に、嫌悪が募る。「私、ヤキモチを焼いたの」
「ふーん、誰に?」
ローズは、蝶を手駒に取りながら私を指す。
「貴方によ」
蝶によって露になった蕾の底に、密かな熱を持つ瞳が見えるようだ。
「え、私に?」
「そう、私、この世界に来てから彼と会えていないの」
言われてみればローズは、彼と呼ばれる好きな人を追いかけ、この世界に来たと言っていた。
私の中である人物が思い浮かぶ。
「でも、貴方が来てからは彼と会えているの。つまり、どういう事か分かるかしら?」
バラの葉に身を委ねる蝶が目につく。
「それが貴方の好きな人なんだね」
ローズは否定も肯定もしなかった。
静かに目を伏せるように、過去を懐かしむように語り出す。
「以前の世界では、彼といられる時間が短かったわ。私が彼に、きっと嫌われていただけとは思うけど……」
あくまで穏やかな口調で話すローズ。
けれど、赤いバラはどこか悲しげだ。
「どうしてそう思うの?」
「さあ、それが分かっていたら、今この世界にいないわよ。でも……」
取り繕っていた声色から、隠しきれない悲しみが溢れ出る。
「彼は……私を世界から追い出そうとしたのよ」
そう言って、バラは苦笑した。
「きっとそういう命《めい》を受けていたのでしょうけど、さすがに泣いたわ。好きな人の傍にいられないなんて。ましてや、本人が私を遠ざけるんだから」
ローズは周りを飛ぶ蝶に手を伸ばす。
想い人を追いかける乙女のような、あまりに人間らしい手つきで。
「来訪者として、勝手に呼ばれて導かれる。それが正しい道だとは思うわ。だから、私もそれは納得してるからこそ……今度は、住人として、生きる覚悟をしてここへ来た」
来訪者とか導かれるとか、キリンさんの日記で読んだ内容と同じものだ。
私は、気付いてしまったかもしれない。
薄々感じていたものが、確信へと変わる。
ローズが本当に好きなのは、今触れている蝶でもない。
私の中で浮かんでは消えを繰り返しているあの人ではないだろうか。
「住人として……?」
「ええ、住人は世界に居続けることが出来るの。彼がまさにそうだから、私もなろうとしたの」
キリンさんが思い浮かぶ。
もしそうだとしたら、キリンさんはこの世界の住人で、来訪者を導く役目を持っている。
日記で見た彼女を導くというのは、ローズのことだったのだろうか。
ローズは写真の女の人を否定したけど、他にそんな女性らしい人は知らない。
私の知らないキリンさんの全てを、ローズが握っているようだった。
それがまた、苦しかった。
「それでも、会えてなかったの。今までずっと。この瞬間まで。でも、貴方はずっと会えていたみたいね?」
急に声色が冷たくなり、矛先が自分に向けられる。
赤バラからは、表情こそ読み取れないが、軽蔑にも似た雰囲気が伝わってくる。
「貴方は何もしなくても、彼は傍にいてくれるみたいじゃない。この蝶も貴方の為を思った優しさの具現化でしょう?」
その言葉が、確信だった。
赤バラの傍を場違いなほど、照らす蝶が目に入る。
思えば、本棚の整理をしている時も、怪物から助けてくれた時も、キリンさんが傍に居た。
私がこの世界で目を覚ました瞬間でさえも、最初から隣に居てくれた。
「貴方の顔からして、彼のこと、何も知らないみたいだし、私みたいにこの世界に逢いに来た必死さも感じられない」
ローズの言葉は、キリンさんへの愛情の深さで満ち満ちていた。
蝶に花開くバラは、蜜を対価に、共に過ごす時間を得ているようだった。
遠くの花とも受粉出来るようにと、蓄えた蜜。
自分の子孫と引き換えに差し出す姿は、私とは比べ物にならない、愛の大きさなのだと伝わる。
「貴方はどうして、あの人の傍にいられるのかしらね」
完全な皮肉だった。
私はそう、受け取った。
不思議なほど的を得ている言葉だった。
ローズが受けてきた扱いと私へのキリンさんへの対応の違いは、天と地の差がある。
拒絶と許容だ。
自発的に動いたローズの努力は報われず、何もしない私は、ローズの望んだ夢を叶えている。
それが私の中で、心に大きな影を生み出していた。
キリンさんの本心と意図。
私がいちばん知りたいキリンさんのこと。
「私じゃ傍に居ることさえ、叶わなかったのに……」
この世界は分からないことが多く、本でキリンさんのことを、この世界のことを知ろうとした。
けれど、今は知らなくてもいいというキリンさんの言葉を信じ、それを見て見ぬふりをしてきた。
でも、今思えばそれは、キリンさんに向けられた詮索を避けるために、私に告げた言葉ではなかったのだろうか。
ローズは私と違うというけれど、キリンさんは 私の想いからも逃れるために……。
「まあ、それでも私は彼が好きなんだけどね」
ローズの言葉は、私の胸の内を透かしたように言い放った。
重い空気を払うように軽快に言うローズは、どこか清々しい表情をしていた。
途端、その言葉を合図のようにバケツをひっくり返したような雨が降り出す。