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「まあ、それでも私は彼が好きなんだけどね」
ローズの言葉は、私の胸の内を透かしたように言い放った。
重い空気を払うように軽快に言うローズは、どこか清々しい表情をしていた。
途端、その言葉を合図のようにバケツをひっくり返したような雨が降り出す。
「痛いっ痛い!」
雨に打ち付けられ、花をしぼませるローズ。
悲鳴を上げるローズの声を無視して、篠突く雨は注ぎ続ける。
その場にいた蝶も雨のせいか、いつの間にか姿を消していた。
辺りが一瞬で、灰色の世界に包まれる。
霧に囲まれたようだ。
「随分と愚かなことを言ってくれるようになったな。ユリア」
聞き覚えのある声に振り返ると、ロイがどこからともなく姿を現した。
「あんた……誰よ」
今にも消えてしまいそうな声を吐くローズ。
雨の勢いに散らされて、みすぼらしくなっている。
「これで何度目だろうな。お前にそれを聞かれるのは」
私の知っているロイではなかった。
彼は、淡々と言葉を紡ぐ。
そこにいつもの表情はない。
ロイは、赤バラを見下ろす。
堂々とした風格を放ちながら、憂いを帯びたような眼差しをしている。
彼が現れる頃には、雨は嘘のように止んでいた。
「そういえば、君に試し忘れていたことがあったんだ」
ロイは、私に向き直る。
その目はキリンさんの手の甲に牙を突き立てた獣のように、鋭かった。
私に合わせて、身長を折り曲げるロイは、私の手を不自然なほど優しくとる。
「やめて!」
嫌だった。
ロイは目を見開き、私を見つめている。
なぜそうされたのか、分かっていないようだった。
キリンさんとロイの会話が脳で再生される。
包帯を巻き付け、血の滲んだ手。
傷をつけたのは、紛れもない目の前にいる人物がやったのだ。
「なんで、キリンさんを傷付けたの!」
ロイに八つ当たりにも似た感情で、言葉をぶつける。
止まれなかったのだ。
彼は目を伏せ、視線を逸らす。
「それはっ……」
ロイの反応が事実だった。
「どうして!」
止まれない刃を叩きつける。
彼が、キリンさんにしたように。
「なんでそんな事をしたの!」
「僕は……いや」
ロイは言いかけては言葉を詰まらせる。
傷をつけたのも、理由も分かってる癖に言おうとしない。
「はっきり言ってよ!私の大事な人がどうして怪我をしなくちゃいけないの!」
「ごめん、今は説明できないのだよ……」
私の言葉をあまりにも静かな声が遮った。
それは、壁の向こうに隔てた世界を説明するようで、
今の私には理解できない領域があるみたいだった。
キリンさんが高い本に手が届くように、私には届いたとしても読むことが出来ないような。
私自身も最初から、ロイがキリンさんに乱暴するような人だと思っていた訳ではないはずだった。
「僕にはやらなければならないことがあるのだ」
真剣に見つめる瞳からは、強い信念を感じる。
何かがロイを突き動かしているようだった。
そんな別次元で生きているような彼を、否定することは出来なかった。
「はぁ」
ため息の分の隙間に、彼の言葉を飲み込む。
ロイは、そんな諦めた私を見て、再び手をとる。
「乱暴な真似をしてすまないとは思っている」
私の手を包み込む大きな手は、微かに震えていた。
それが緊張なのか、反省なのか。
「彼にももちろん……。そして、これからする君にも」
聞き間違いだと思った。
「これは君のためなんだ」
カバンから小さな何かが光った。
ナイフだとわかる頃にはそれが、私の手の甲を貫いていた。
「えっ」
私は、刺さった衝撃や血よりも、ナイフが刺さっている光景に一つの違和感を覚えた。
「痛くない……」
零れた言葉が現実と歪みを生じさせる。
抱いた違和感と、これが現実であるという事実に、頭が混乱する。
私の手の甲全体を横断するナイフは、堂々と突き刺さったままだ。
「やはりか」
ロイは私の言葉を聞いて、納得しているようだった。
「これがどういう事か、分かるかな?」
ロイの言葉が上手く頭に入ってこない。
「どうして痛くないのか」
その言葉を聞いた瞬間、脳内の違和感が晴れた気がした。
「最初にそう思うはずだよね、普通ならば」
渦巻いていたものが消え去り、違和感が形になっていく。
「確かに、そうかも!」
鋭いナイフが私の甲を貫いた時、私の中で何かが足りなかった。
痛みを感じていなかったことだ。
「それとは別にもう一つ。君に問うことがあるんだ」
ロイは呼吸を整えると、ローズに視線を移す。
ローズは茎が萎れ、花びらは散り、衰弱しきっていた。
「どうして、彼は君だけを特別扱いするのか」
その瞬間、大きく心臓が跳ねる。
「あの花にも釣れなかった彼が、どうして君ならば良かったのか」
ロイから重ねられる問いを頭で繰り返す。
分かるはずがない答えの手がかりを、彼を知るために探そうとしてしまう。
止められない好奇心のように。
「彼はこの子を、この世界から追い出そうとはしていないようだね?」
それは明らかに、ローズへ、皮肉を込めて語りかけていた。
「どうして、この花はダメで、君ならば良かったのかな?」
今度はこちらを見つめる瞳が 私を煽るように、促すように。
考えた先に、私の望む答えがあるかのように、
問いかけてくる。
今は、何も言い返せなかった。
知らないことが多すぎて、気付けていないことがありすぎて。
「今は、それを考えて見てほしい。それが分かれば、僕も君の力になれる」
ふと、ロイから別人の気配が消えた。
いつも通りのロイに戻ると、そっと手からナイフが抜かれる。
その瞬間、傷口を覆うように金色の蝶が手から溢れ出す。
「彼女から離れてください」
静かな怒りを孕んだ声に、背後から抱きしめられる。
「キリンさん!」
見る前に、本能が名前を呼んでいた。
見上げると、キリンさんの心配そうな顔が私を見つめていた。
「来るのが遅れてすみません。もう大丈夫ですからね」
その言葉に、思わず笑みが零れてしまう。
自分でも分かるほどに、顔が緩んでいた。
安堵の中で、キリンさんは笑みを返してくれる。
「とうとう、おでましですね。王子様が」
ロイは表情こそ笑みのままだが、声色に温度はなかった。
ロイは、赤いバラの行方を遮るように立ち塞がった。
「ユリアを導いてくれた事に関しては、礼を申し上げなければなりませんね」
帽子をとり、キリンさんに向かって貴族のような洗練された動きで礼をする。
「しかし」
すぐさま帽子を被り直す。
「再びこの世界に、捕らえるような真似をするとは何事か」
ロイの言葉からは、隠しきれない怒りを感じた。
「もちろん、説明をしていただけますね」
私と対峙していた時のロイとも、いつも通りのロイとも違う別人が、赤い薔薇を守るように言う。
そこにはどこか、家族愛のようなものを感じられる。
それが歯痒くて、なんだか居心地の悪さを感じて、キリンさんの腕の中に潜り込む。
私は、どこか寂しさを感じていた。
「まあ、問われたところで、この世界の運命では答えることは不可能に等しいのでしょうけど」
ロイはひとりでに嘲笑する。
「一体、何が言いたいのですか?」
キリンさんの腕に心做しか、力がこもる。
「あなたも早く目覚めるべきだ。そうでないと、このようにユリアを苦しめる羽目になる」
ロイは赤いバラをキリンさんへ見せる。
バラは、既に枯れていた。
美しく可憐だった面影はなくなっている。
「ユリアが君を好きになってしまったがために……こんなことに」
ユリアと名を零す先には、ローズが、赤いバラがいた。
「だから、僕も……傷つけるしかなかったのだ」
彼は悔やむように、独り言のように呟く。
ロイの感情がこの場に沈黙を生んだ。
誰も彼に、答えられるものはいなかった。
けれど、長い沈黙を破ったのはキリンさんだった。
「私からも一つ宜しいですか」
頭上から、淡々とした声が降ってくる。
ロイは僅かに顔を強ばらせる。
「貴方は、ユリアさんという方が、私のせいでこの世界に囚われたとおっしゃいましたね」
ロイは無言で頷く。
「けれど、私は、その女性を存じておりません」
キリンさんは、私を腕に抱え込んだまま立ち上がり、ロイと向き合う。
「私がこの世界で存じているのは、彼女だけなのです」
ふいに大きな手が頭を撫でる。
腕の中でキリンさんと目が合う。
幸せを噛み締めるような表情をしている。
「ですので、私にはユリアさんという方との関わりは……」
「それ以上は言うな!」
突然、ロイの怒りが場を支配した。
小さく光ったナイフの切っ先がこちらに向けられる。
「これ以上の会話は、不要だ。話しても無駄という事がよく分かったよ」
目の前のナイフが、ロイの感情に合わせて鋭く、巨大な鎌へと姿を変える。
キリンさんの腕に力が込められる。
それに合わせて、無数の蝶が私たちを取り囲む。
あまりの眩しさに目を瞑ると、一瞬の風が人の手のように頬を撫でる。
目を開けることを許されたようで、開けてみるとそこはいつもの書斎に戻っていた。