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結構胸糞悪い終わり方します。メリバ?の練習作です。日本さん出て来ないやつはこれが最初で最後かな。
いつからだろう。
あの人が、私を「中華さん」と呼ぶようになったのは。
春の初めの、雪解け水が路傍に溜まる頃。
「私」の記憶はそこから始まる。
____中華さん。
そう呼ばれるたび、胸の奥が鈍く揺れる。
『はじめまして。私は大日本帝国。お前は「満州」だ。いいな?』
そう言った彼の瞳に映っていたのは、確かに自分だった。
『満州、いいか?お前はただの足がかりに過ぎん。私はアジアの解放のため、お前をいちばんの成功例にする義務があるのだ。』
傲慢なほど己の使命に忠実な、ぶっきらぼうな男。
勿論、笑顔など全く見せない。それが彼だった。
それなのに_______
「中華」とは誰かと問うと、彼はクスリと笑う。
「寝ぼけていらっしゃるんですか?ご自分のことでしょう。」
その声はどこまでも軽やかで、けれどどこか壊れかけのような歪さを持っていた。
***
春風が吹き抜け、桜のつぼみがほころび始めている。
私は穏やかな白光に包まれながらも、内心のざわめきを誤魔化せないでいた。
解け残った雪の縁に、薄紅色の木々が立ち並ぶ道。
そこには、「満州」の形をした自分の影が伸びている。
けれど背中にまとわりつく何かは、私のものではない面影だった。
「中華さん!」
目尻をくしゃりと下げた、ひどくあどけない笑み。
高らかに踵を鳴らして駆け寄ってきたのは、紛れもなくあの人だった。
ざわり、と胸が不快に軋む。
月明かりの差し込む寝台。
小さな手の温もり。
手放したくない、という強い愛情。
梅のように切なげな香り。
制御が効かなくなったように、脳が私の知らない記憶を映し出す。
自分ではない何かに、魂の縁をなぞられるような、上書きされるような感覚に気分が悪くなり、思わず片膝をつく。
雪解け水が肌に染み込むように布地に広がった。
「中華さん!?どうしたんですか、どこか痛むんですか?」
お薬でも取ってきましょうか、と惜しげもなく感情を晒す声。
彼は膝をついて、私の顔を覗き込んだ。
背中に添えられた手の温もりが気持ち悪い。
『ーーさん、お熱ですか?』
泣き出しそうな湿度を持った声。幼い手が、不器用に手拭いを絞る。
『おでこにのっけますね。』
背伸びをして、甘い香りが寄ってきた。
額に清水をまとった布が置かれる。
『……手間かけさせるネ。』
ふるふると左右に振られる小さな頭。
きゅっと引き結ばれた唇は、この世の終わりを迎えるかのように震えていて、愛おしさが込み上げてくる。
『おいで。かわいいかわいい、我の日本。』
まただ。
自分によく似た声。幼い日の彼。
必死に喉奥から逆流してくる胃液を抑え込む。
「中華さん………」
か細い声がそう囁き、私に触れた。
咄嗟にその手を払う。
一対の宝玉が怯えるように震えて、たちまち薄い膜が張った。
「私は、『満州』です。貴方の望む方は、貴方が傷付けた。貴方が、紛れもない貴方が………。」
弱々しい姿に、張り詰めていた糸が切れて、思わず彼の胸ぐらを掴んだ。
「それなら私は何故生きている!……貴方が、………貴方が、奪って作り上げたからでしょう!」
「………うそだ………。」
蛍火のように、彼の瞳がゆらりと揺れる。
その奥に、確かにかつての彼がいた。
傲慢で、強くて、まばゆい彼が。
否定とも嘆きともつかない声で繰り返されるうわ言が、胸の内側に突き刺さる。
「中華さん、そんな怖いこと、言わないで………。」
愛おしい子。そんな顔をしないで。
違う。
「私は『満州』。貴方の手で、作られた影法師だ。貴方が望んだ身代わり品の成れの果てです。」
吹き抜ける風に体を刻まれたように、彼の顔が痛みに歪む。
胸元を掴む手が少し震えた。
あぁ、我が傷つけた。こんな幼い子を。
違う、違う。
「全部、夢なんですよね……?中華さん、ちゃんと目が覚めたら、あなたは私の……」
「やめろ。」
その言葉が、自分でも驚くほど冷たい鋭さを持って彼を突き刺した。
雪はすっかり溶けたというのに、季節が逆流したような寒気が背を伝う。
おいで、日本……我の、我の宝贝。
違う、違う、違う!
去ろうと向けた背中に、小さな温もりが絡みつく。
「行かないで……お願い……ひとりに、しないで………。」
満州、と呟きが添えられる。
それだけでどくりと胸が高鳴る。
「お願い……行かないで………。」
満州、満州、と今までの日々を塗り替えるよ彼が呟く。
そうやって、何度貴方に呼びかけられただろう。
私が去ろうとする度、消えようとする度に。
私は貴方の心を埋めるだけの、贋作だったはずなのに。
真作よりも強く触れ合える愉悦感が嬉しくて、何度も彼に別れを切り出してしまう。
『嬉しい』?何故、何が?
「違うっ……私は……。」
ぐしゃぐしゃと行き場のない感情が脳に溜まって、何が何だかわからなくなる。
掠れた声は溶けていく自身を肯定するかのように響いた。
私は、何を望んでいる。
わからない、わからない。
はらりと一筋真珠をこぼして、貴方がいなきゃ、と彼が呟く。
爪の先に至るまで狂気に染まってしまった彼は、酷く脆くて罪深い美しさを纏っていた。
幾分か力の抜けた拳を、やわらかな手に包み込まれる。
「大丈夫ですよ、中華さん。きっとまた、思い出せますから。」
壊れたカラクリを抱きしめるように。
幸せの断片を掬い上げるように。
そう言って、彼は頬を染めて笑った。
梅の香りが、くらりとするほど甘美に漂っている。
目を閉じて、肌に触れる温もりを許諾した。
(終)