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おや?
向こうから、綺麗なマダムがやってくる、と和香は思った。
シンプルだが、上品な装いに高いヒール。
名画のようなその横顔を見て、
……うーん。
何処かで見た顔だ、と思ったその瞬間、マダムがこちらに気づいた。
あら、という顔をする。
すると、まだなにも問われていないのに、突然、
「石崎和香です」
と耀が自分を紹介しはじめた。
「あら、そう」
……考えてみれば、なんかすごい会話だな、と和香は思う。
スーパーで会うなり、なんの挨拶もなく、いきなり、
「石崎和香です」
「あら、そう」って……。
そんなこと思いながら、和香は、ぺこりと頭を下げた。
マダムは窺うように和香を見ていた。
そのままなにも言葉を発しないので、耀が和香に彼女を紹介する。
「母だ」
「可愛らしいお嬢さんね」
まるで耀が紹介するのを待っていたかのように。
耀の言葉に被せるように彼女はそう言った。
「今度、うちに遊びにいらっしゃい」
「ありがとうございます」
と和香は頭を下げた。
そのまま耀の母は行ってしまう。
振り返りながら和香は呟いた。
「課長は女装も似合いますね」
「今の一連のやりとりの感想がそれかっ?」
と言われたが。
いや――
母だと言われなくとも、課長とそっくりだから、お母さんだってわかるなあ。
それにしても、ほんとうに似ているな~。
ということは、課長はああいう格好も似合うんだろうなあ。
などと考えていた、その結論のところだけ語ってしまったのだが……。
これが、真剣に課長との結婚を考えている、とかなら、緊張する場面なんだろうけど――。
まあ、そういうわけでもないもんな、と和香は思う。
それにしても、課長は何故、私なんぞに日々、付き合ってくれているんだろうな。
同じ本好きだからだろうか。
うむ……と冷蔵棚を眺めていたら、探していたチーズと遭遇した。
それは耀の母と遭遇した以上の衝撃で。
「やったっ。
ついに見つけましたよっ」
と和香は丸くて、つるんとした、そのチーズを両手に掲げ持つ。
「そうか。
……よかったな」
と耀が後ろで、全然よかった感を醸し出さない口調で呟いていた。
「このチーズ、クセがないな。
あまり味もない」
「そうなんですよ。
ちょっと不思議なチーズで。
普段は臭いくらいの方が好きなんですけどね。
たまには、こういうのもいいかなって思って」
とワインを呑みながら、チーズについて語り合う。
今日も耀の家はホテルのように綺麗だった。
チーズを食べ、少し呑んで。
前回、お互いが借りた本の感想を述べ合う。
「あ、じゃあ、その本、今度借りてみます」
と和香が言うと、
「そこにあるぞ」
と耀がソファの方を指差す。
「なんかいいですね。
今話題に出た本がすぐそこにある。
なんとなく家族のようですね」
「すぐに本が共有できたら家族か」
と言ったあとで、耀は一瞬、黙り、
「……そういえば、さっき、うちの親が遊びに来いと言っていたが」
と言う。
「行った方がよければ行きますが」
「軽く言うな。
親に挨拶に行くということは、結婚を前提に付き合っています、と報告に行くのと同じなんだぞ」
「あ、じゃあやめます」
「……だから、軽く言うな」
とまた言われ、睨まれる。
「課長がお困りのようだったので、でしたら行きましょうかと言っただけです」
「――俺とのことはさておき。
お前は結婚とか考えてないように見えるが。
なにかわけでもあるのか」
「はい」
……あるのか、という顔をする。
「まあ、訊いても答えてはもらえまいが――」
と耀が言い終わる前に、和香は言った。
「実は、専務と常務を失脚させようと思っています」
訊くんじゃなかった、という顔を耀はした。
「何故、しゃべる……」
と嫌そうに耀は言う。
「いや、訊くからですよ」
と和香は答えた。
「普通、そこで言葉をにごすもんだろう」
「まあ、普通はそうなんですけど。
課長には、二宿何飯かの恩義がありますので、しゃべりました」
「いや、そんな恩義はいらないから……」
と言ったあとで、耀は、待てよ、と呟く。
「もしかして、俺が酔っていると踏んでしゃべったのか?
明日には忘れていると思って」
「いえ、そうではありません。
実は、この家に入ってからずっと、課長を観察してたんですけど。
この話をするためにか、最初から、あまり呑んではいらっしゃらなかったようですね」
そう言うと、耀は何故か機嫌が悪くなる。
なんで、専務たちの失脚計画を聞いたときより悪くなるんですか、と思ったが、耀は不満げに言う。
「何故、お前は俺と二人きりのときに、捜査対象でも見るかのように、俺を観察する」
「ああ、観察って言い方は悪かったですね」
と言ったあとで、和香は言いかえた。
「課長をずっと見つめていたので、気がつきました」
「……いや。
それはそれで、なんか恥ずかしいからやめろ」
と言う耀は、ちょっと照れているようにも見えた。
「やっている行為自体は同じなのに、言いかえただけで印象って、違うものですね」
和香は感心したようにそう頷いた。
視線をそらしたまま、耀は言う。
「俺が酔わないようにしてたのは、単に、お前にみっともないところを見せたくないからだ」
「課長のみっともないところなんて、私、見たことないですよ。
酔ってるときの方が人間味があるように感じますし」
フォローをするつもりで、うっかりそう言い、
「いや、普段はないのか……」
と言われてしまった。
「結局、お前は何者なんだ」
と和香は耀に問われた。
「昔、今の専務と常務にはめられて、一家離散した家の娘です」
「じゃあ、FBIにいたというのは……」
いや、あれはジョークだったか、と言いかけた耀に和香は言う。
「いました。
前の職場の研修で」
「……どんな職場からなら、FBIに研修に行けるんだ。
スーパーか、デパートか。
ああ、学校の先生が社会勉強のために一般企業に研修に行くという、あれかっ?」
「FBI、一般企業ですかね?」
と和香は小首をかしげる。
どうもこの人は、私を元学校の先生とか、そういう堅気な職業の人間だったと思いたいようなのだが。
もちろん、そんな平和な過去は私にはない。
そもそも、一度学校の先生をやってから、この会社に入ったとかいうような年齢でもないし。
そんなことを考えながら、和香は言った。
「それで、私は、ここから逃げて、遠い地で姉と暮らしていたんですが。
復讐するという私に姉が反対したので――」
「いたのか、姉っ」
「喧嘩になって、蚊を家に連れ込んでやりました」
「いたのか、蚊っ」
いや、蚊は全世界の大抵の場所にいますよ、と和香は思う。
「だが、そんなことが過去あったというのは意外だな。
俺が今まで接してきた専務や常務は社内でも、いい人の部類に入るんだが」
「そうですね。
私も今の常務は嫌いじゃないです」
「そういえば、いつぞや、エレベーター前で常務と歓談していたな。
あのとき、お前は自分のことを一人っ子だと言っていた。
常務にお前の素性をごまかすためか」
そうです、と和香は頷いた。
「確かに今の常務は気さくで話しやすいですし。
専務は話しやすくはないですけど、悪い人ではないです。
でもそれは今の地位を得て、安定したせいで生じた余裕のせいです。
彼らにとっては、あの頃はのし上がるために、黒い力が必要だった、という思い出にすぎないのでしょうが。
その思い出話の中の住人にも、それぞれの人生ってものがあったんですよ。
今更、いい人になられても我々には関係ありませんし。
なにも取り戻せません」
「それで……、お前はこれからどうするんだ」
和香は答えない。
「お前が心に決めたこと。
困ったことがあるのなら、手を貸そう」
決意を秘めた瞳で耀は和香を見つめる。
テーブルの上に置いた和香の手に耀が手を重ねてきた。
その手を見つめ、和香は言う。
「そうですね。
とりあえず、今、一番困って、迷っていることは――
課長のお母様にご挨拶に行くかどうかってことですかね?」
「いや、そっちか……」
と耀が眉をひそめた。