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保谷東
リゼが目を覚ました後。
患者の男は簡素な服に着替え、椅子に腰かけていた。
「ここは何処だ?」
男が尋ねる。リゼとノアとメイジーは顔を見合わせ、うなずく。
人体解剖はブラックウェル家の秘密。
安易に話せば、当主様かベアトリス様に殺されるだろう。
「えっと、先にあなたの素性をお聞きしても?」
リゼが誤魔化すように言った。
「俺は……わからない。すまない、記憶が……」
男は途方に暮れている。嘘を言っている顔ではない。
三人は円陣を組み、ヒソヒソ話を始めた。
「おい、最悪だ。こっちの素性も明かしにくいのに、あっちの素性もわかんねえぞ」
「……会話成立しない」
「一時的な記憶の混濁なら、すぐ戻ると思うよ。素性が分かり次第家に帰してあげよう?」
「あいつが本当に暗殺されかけた王族なら、素性を知るのもヤバくね? 何も訊かずに放り出した方がマシだったりする?」
「うん。今さら助けちゃダメなんて言わないけどさ、早く捨てた方がいい」
「駄目だよ。病み上がりの患者さんを放置なんて。私にはムリ」
リゼがきっぱりと言うと、ノアとメイジーは「仕方ないか」とでも言うように肩をすくめた。
名無しの男はそんなリゼたちを無言で観察していた。
――治癒師の姿はない。少年たちの風体は浮浪児そのもの、助手ではなさそうだ。
――ここは医療機関じゃないのか?
男は自身の頭部の裂傷の治療跡をさする。
――技術は本物だ。
――あの少女は、医療に携わる者。それも相当練度の高い。
――なぜ、こんな薄暗い地下室に追いやられている?
男は、アーチ状にくりぬかれた、解剖室の壁の向こう側に目を向ける。
「……驚いた。ここは、あらゆる死を揃えているのか」
アーチをくぐった男は、無数の人体標本に出迎えられた。
入ってまず目を引いたのは、五つ子の胎児だった。
生存闘争からいち早く降りてしまった子どもたちが、瓶の中で身を丸めて眠っている。彼は机の前にしゃがみ込み、顔を近づけた。保存液に用いられている酒精だろうか、甘く芳醇なブランデーの香りが、鼻腔に忍び込んでくる。
左手にある黒塗りのキャビネットには頭蓋骨が並べられている。膨れ上がった奇形の跡や銃弾による穿孔など、一つ一つが固有の特徴を備えていた。
その奥の展示台には、赤い小枝が複雑に絡み合ったような、ヤドリギに似た球形が鎮座していた。肺の標本だ。屍体の気管に朱い|蠟《ろう》を流して行きわたらせ、それが冷えて固まったのち、屍肉だけを酸で溶かしたもの――細かい脈管まで余すことなく蠟でなぞった、人体の芸術品だ。
一通り眺めて、男が言った。
「素晴らしい技術だ。尊敬に値する」
リゼの身体が、照れと驚きで強張る。
父もベアトリスも人体標本を毛嫌いしている。どれだけ標本の技術を磨いても、評価してくれたことなどない。
リゼは褒められることに慣れておらず、嬉しそうにしながらも、視線を迷わせていた。
男はリゼに歩み寄る。
「これを作ったのは、君か?」
「えっと、はい、そうです!」
緊張で、自分の話をしてはいけないことなど、忘れている。
「ぜひ、話を聞きたい。君の持つ医学について」
リゼが目を丸くし、やがてその顔がぱあっと輝いた。
生まれて初めて、自分の研究に、興味をもってもらえたのだ。
「えっと、えっと! お話ししたいことはたくさんありますけど……あ! そうですね。まずは貴方の怪我の話からにしましょう!」
リゼがガラス瓶をもってきた。
「これは?」
「貴方の頭部に集ってた蛆です!」
リゼはニコニコとした顔で瓶を掲げる。
男は真面目そうな顔つきだが、後ろで見ているノアとメイジーは一歩後ろに退いている。
「南国の先住民の壊疽予防法で、患部で蛆の卵を塗りこむものがあるのです! 蛆が壊死した血肉を腐る前に食べるおかげで、かえって傷口が清潔に保たれるのです!」
「へえ、そんな治療法が……」
「この国で治療法として確立できるかは微妙ですけどね。デリケートな傷口を蛆が蠢く感触は単純に不快ですし、匂いもひどいので……」
「詳しいんだな」
「それはもちろん、試したので」
「試した?」
リゼが左腕の袖をまくり、凄惨な傷跡を露にした。切り傷、刺し傷はもちろん、ねじり切った跡や爛れた火傷、黒く変色した痣などが広がっている。リゼは、腕の腹のある一点を指で示した。
「蛆治療を施した場所はここです! 比較的目立たないほうですよね? 貴方の傷はきっと、跡を残さず治癒できると思います!」
「……これはまさか、自分で?」
「はい! ピストルで撃って、その傷口に蛆を這わせたんです」
「……ひょっとして、あなたの腕が傷だらけなのは」
「地方の通説に魔女の秘薬、外国の医学誌の新たな仮説……効能を試したいことがたくさんあって、自然と、こうなりました」
「……大丈夫なのか?」
「一応自在に動かせますけど、感覚機能は駄目ですね。熱も痛みも感じません。実験体としては、もう使い物にならないでしょうか」
男はリゼの眼をしっかり見据えて、彼女の手を両手で包んだ。
「君は立派な医学者だ。ただ、君の尊敬すべき手を、これ以上傷つけてはいけない」
男の声は賞賛と心配が半々といった様子だったが、リゼには前者しか聞こえていないらしい。自分の研究について話し、真剣に聞いてもらえることに舞い上がっている。
そんな二人を、ノアとメイジーが遠巻きに眺めていた。
「俺は蛆の瓶を持ってきたあたりで既にドン引き。メイジーは?」
「蛆で三点、腕の傷で六点、自らピストルで撃ちぬいたエピソードでフルスコア」
「……だよなあ、普通は人体標本も毛嫌いされるもんだぜ? 旦那様やベアトリス様みたいに汚らわしいとまでは言わないが……俺も最初見たとき、ちょっと怖かったし」
「でも、あの人は違うみたい」
蛆の話が終わった後も、男はリゼに話を求め、ますます彼女を喜ばせた。
リゼの医学についての話は、素人には難しいものも多かったが、それでも男は根気強く聞いている。
ときにうなずき、訊き返し、リゼの言葉ひとつひとつを大事にしたいとでも言うように、ゆっくりと咀嚼していた。
そんな二人を見て、ノアが言う。
「やっぱりあの男は捨てないでおこうぜ? あいつはきっと、リゼを悪いようにしないから」
「……そうだね」
その時、解剖室のドアが開いた。
入って来たのは、リゼの父と継母のベアトリスだった。
「相変わらず臭いな、ここは」
同じ場所で息をするのも不愉快だと言わんばかりの口調で、リゼの父が言った。
「わざわざ報告書を取りに来てやったんだ。用意できているな、リゼ?」