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『第十一話 夏のキャンパス』
──夏休みが始まって一週間。
朝から照りつける日差しの中、千夏は駅の改札で結衣を待っていた。
目的地は、都内にある私立大学。
今日はオープンキャンパスだった。
前日に悠真から聞いていた話では、とにかく歩くとの事なので、動きやすい服装を選んだ。
襟付きのボーダートップスにデニムパンツ。
いつもの普段着なので、こんな格好でいいのか少し不安になる。
「千夏、お待たせー!」
白いワンピースにブルーの襟付きシャツを重ね着した結衣が麦わら帽子を押さえながら駆け寄ってくる。
考えてみれば、互いの私服姿を見るのは初めてだ。
「ごめん、電車一本乗り遅れた!」
「まだ五分しか経ってないよ」
「お、優等生的な発言っ」
「褒めてる?」
「もちろん」
二人は笑い合い、ホームへ向かった。
──電車に揺られて。
「正直さ」
車窓を眺めながら結衣が言う。
「まだ大学なんて全然実感ない」
「私も」
「何になりたいかも分かんないし」
その言葉に千夏は頷いた。
将来。
夢。
進路。
学校では何度も聞かれる言葉なのに、自分の答えだけが見つからない。
──大学正門
「オープンキャンパスの受付はこちらでーす」
広いキャンパスに着くと、二人は思わず足を止めた。
「すご……」
ガラス張りの校舎。
芝生の広場。
笑いながら歩く大学生たち。
高校とはまるで違う空気だった。
「なんか、うちらといくつも違わないのに」
結衣がぽつりと言う。
「もう大人って感じ」
「うん」
千夏も静かに頷いた。
──
模擬講義を受け、図書館を見学し、学生スタッフから話を聞く。
どれも新鮮だった。
けれど最後の進路相談だけは困ってしまった。
「将来、やりたいことはありますか?」
係の学生が優しく尋ねる。
千夏と結衣は顔を見合わせた。
「……まだ」
「決まってなくて……」
学生は笑顔で。
「大丈夫ですよ。決まっていない人の方が多いですから」
その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。
──昼。
学食は大勢の学生で賑わっていた。
「安い!」
「しかも量多い!」
結衣は唐揚げセット。
千夏はオムライス。
窓際の席に座ると、夏の日差しがテーブルを照らした。
「大学生になったらさ」
結衣が箸を動かしながら言う。
「うちら彼氏とかできるのかな?」
「え、急に恋愛話?」
「うん、大学生ってそういうイメージ」
結衣が視線を向ける方に、大学生のカップルが並んで仲睦まじく食事をしていた。
千夏は苦笑した。
「結衣さんらしいね」
「千夏は気になる人いんの?」
千夏は考えた。
……気になる人。
そんな相手はいない。
そう思った時、不思議と悠真の顔が浮かんだ。
「……違う」
千夏は慌ててその考えを振り払った。
いや、お兄様はお兄様だ。
「結衣さんは?ほら、こないだの同じ中学だった人とか」
「隆太?」
結衣は垂直に立てた手のひらを、すごい勢いで振る。
「ムリムリ!同い年の男子なんかガキじゃん」
「…………」
「付き合うなら私は年上がいいな」
千夏のスプーンが止まる。
「どうして?」
「余裕ありそうじゃない?」
結衣は指を折りながら数え始める。
「車運転できるし」
「頼れそうだし」
「落ち着いてるし」
「甘えさせてくれそう」
千夏は少し考えた。
「そういうものなのかな……」
「千夏は?」
「私は……」
言葉が出てこない。
恋愛を考えたことなんて、ほとんどなかった。
「分からない」
正直に答える。
「まあ、千夏っぽい」
結衣は笑った。
少し沈黙が流れた。
その時、千夏は思い立ったように口を開いた。
「あのさ」
「ん?」
「例えばの話なんだけど」
「うん」
「高校生が……年上の男の人の部屋によく遊びに行ってたら……」
結衣の箸が止まった。
「え?」
「例えばだよ?」
「う、うん」
「そういうのって……変なのかな」
結衣は少し考え込んだ。
「うーん……事情にもよるけどぉ」
「うん」
「事情を知らない人が見たら」
一呼吸置く。
「付き合ってるか……よからぬ関係って思うかも」
その一言だった。
千夏の胸が、小さくざわついた。
「で、でもさ」
千夏は慌てたように言う。
「親戚とか、お兄ちゃん代わりとかなら全然あるよね?」
「うーん……ま、そういうこともアリかな?」
「うんうん」
「ま、うちは親戚の家なんかお正月くらいしか行かないけど」
結衣は笑って最後の唐揚げをかじった。
千夏もスプーンで残り少ないオムライスを口に運び、ぎこちなく笑う。
けれど、オムライスの味は全くわからなくなっていた。
──帰りの電車。
「今日のとこ、どうだった?」
千夏はパンフレットをめくりながら結衣に聞く。
「うーん、良かったけど……私にはレベル高いかな」
結衣は腕を組んで言う。
「けど、千夏には物足りなくない?もっと上、狙えるでしょ」
「そんなことないよ……」
正直、本当によくわかっていなかった。
でも、この大学で結衣と並んで歩くのも悪くないと思った。
やがて、結衣は疲れたのか麦わら帽子で目元を隠し、うとうとしている。
窓の外では夏の街並みが流れていた。
千夏は、ぼんやり景色を眺める。
『事情を知らない人が見たら、付き合ってるか、よからぬ関係って思うかも』
その言葉だけが頭の中で繰り返される。
──夕方。
家には帰らず向かいのアパートへ。
見慣れた階段。
見慣れた二階。
悠真の部屋の前まで来て、足が止まった。
私たち……。
『付き合ってるか、よからぬ関係に見えるかも』
インターホンへ手を伸ばす。
けれど押せない。
今まで考えたこともなかった。
向かいに住む、お兄様。
それだけだった。
なのに今日は。
その関係を、誰かの目で見てしまった気がした。
「千夏ちゃん?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
スーツ姿の悠真が立っていた。
仕事帰りらしい。
「そんなとこで、どうした?」
「えっ?」
千夏は慌てて首を振る。
「な、何でもありません!」
悠真は不思議そうに笑った。
「そう?」
「はい」
笑う。
いつも通りに。
けれど。
部屋へ入る時。
スーツを着た悠真の後ろ姿を見ながら、千夏は初めて思った。
お兄様も『男の人』なんだ。
その考えに、自分自身が一番驚いていた。
──続く
コメント
3件
「将来は何になりたい?」と聞かれても答えられないの、すごく分かります。 この悩み、千夏さんはどう乗り越えていくんだろう🤔楽しみにしてます🎶
リオンです。 第十一話、読みました。オープンキャンパスの何気ない一日が、千夏の中で「お兄様」が「男の人」に変わる瞬間を静かに描いていて、とても印象的でした。結衣との会話から「よからぬ関係に見えるかも」と外の視線を借りたことで、それまで無意識だった距離感に初めて気づく—その心理の揺れが繊細で、オムライスの味がしなかった一文に全部詰まっている気がします。 次、どうなるんだろう…。続きが気になります。