ゆっくりと目を開けるとそこは自分のベッドの上で、真っ白なベッドの上でもなければ、隣に洸夜も居るはずがない。現実のようで夢なのだ。 たくさんのキスをされ、艶のある声を身体に注ぎ込まれ、なんだか消化不良のようでムラムラする。
(熱が下がって元気になったとたんこれなんだから……こっちの身にもなってほしいわよね)
外に出ると少し太陽が顔を出してきたぐらいで薄暗い。日和の熱のこもった溜息は真っ白な色をつけて外の寒い空気と混じり合う。冬の朝は寒すぎる。両手をこすり合わせながら仕事場へ向った。
「おはようございます」
「ん~おはよーさん」
健は今日も安定の気怠げな話し方。あぁ、シュガーベールにきたんだなぁと安心する声でもある。
「んじゃあ今日もよろしく~」
「了解です」
ショートケーキの準備にとりかかるため、サラサラとボウルにクリーム用の砂糖を計る。
ふと気を抜けば洸夜の顔が、声が、身体が、頭の中に現れて、心臓をガサガサと乱暴に振り回されているようにざわつかせた。
(あぁ! ダメダメ! 仕事に集中しなくちゃ!)
頭の中を空にする勢いで生クリームをかき混ぜ、その勢いでショートケーキを完成させた。
十時開店。綾乃の「いらしゃいませ」と明るい声が店内に響く。
使った道具の洗い物をしていた日和のもとに慌ただしく綾乃が駆けつけてきた。なんだかこんな光景前にもあったような気がする。
「日和っ! 日和のケーキファンのお客さんだよ!」
自分のケーキのファンと聞き真っ先に浮かんだのは洸夜の顔だった。以前日和の作ったザッハトルテが好きだと言っていた。
まず会ったら今朝の夢の文句を言ってやる! 熱が治ったからって調子にのるな! そう言ってやると意気込み、洸夜が来ているとそう思っていたのだが売り場に顔を出すと子犬のような人懐っこいオーラを放つ悠夜がヒラヒラと手を日和に向けて振っていた。
「日和さん! 日和さんにラインしても既読無視するからケーキ買いに来たっていう口実で会いに来ちゃました」
テヘッという効果音がいかにも似合う笑みを悠夜は見せた。
(あ……ライン……)
悠夜と連絡先を交換した後にラインが来ていたことをすっかり忘れていた。後で返そう、後で返そうと思ってたらどうやらそのまま忘れてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。忙しくてつい返すの忘れちゃってたわ……」
「パティシエって忙しいんですね。そりゃそうか、こんなにたくさんのケーキ作ってるんだもんな」
いえ、仕事は確かに忙しいけれどそれ以上に頭の中を占領している奴がいるから、なんてことは口が裂けても言えない。でも忙しいということにしておこう。そうすれば連絡を返さなくてもいい口実になる。
「そうなのよ! 朝も早くて、夜も遅いし休みも少ないしで忙しいんだよね!」
軽くブラック会社のように言ってしまい心の中で健に謝った。
「そうなんですね。じゃあ、次の休みの時に僕と――」
「お前、誰?」
悠夜の言葉に覆いかぶさるように明らかに機嫌の悪い低い声が重なった。
「な、なんでまたあんたが来てるのよ……」
スリーピーススーツをビシッと着こなした洸夜がまるで獲物を捉えた狼のような鋭い眼光で悠夜を睨んでいる。まぁあらかた察しはつくけれど。
「日和の顔を見に来たんだ。婚約者なんだから店にいつ来たっていいだろう? それに俺はケーキだって買いに来たんだ」
わざわざアピールするように婚約者と強調して言うものだから溜息が出る。婚約者だなんて認めてはいないのに。認めてはいないけれど、最初に比べて悪い気はしなく、むしろ少し嬉しいと思ってしまい、胸の奥がそわそわくすぐったい。
「じゃあ、日和さん、また連絡しますね!」
「あ、うん。お買い上げありがとうございました」
危険を察知したかのように悠夜は自分に火の粉が降ってくる前にシュガーベールを出て行った。何か言いかけてたような気がしたけれど……
「なぁ、あいつ誰? 日和のこと名前で呼んでた。気に入らねぇなぁ」
不機嫌な声に不機嫌な態度の洸夜。悠夜の後ろ姿を睨みつけている。
「誰でもいいでしょう。仕事中なんで帰ってもらえます?」
胸の奥がそわそわしてしまっている事を気づかれたくない一心で冷静を装いすぎて冷たい態度になってしまう。
「俺はお前が他の男にその可愛い笑顔を振りまくのは嫌だ」
この前も同じような事を言っていたが、そんなことを真剣な顔で言われても困る。困るけれどドキッとしてしまった自分もちゃんちゃらおかしい。昨日から自分が自分じゃないような気がするくらい洸夜の一言、一言にいちいち反応してしまう。洸夜のことを深く知ってしまったからだろうか。心音を掻き回すように乱されてしまう。
「仕事なんだからしょうがないでしょう」
乱されているけれど平然を必死で装った。
「日和は俺の婚約者だろ?」
「婚約者じゃないってば。ケーキ買いに来たなら早く選びなさいよ」
「日和、さっきのあの男には気をつけろよ。なんか気に食わない目付きだった。もしかしたら日和の事狙ってるのかもしれねぇからな」
話が噛み合わない。早くケーキを選べと言ったのに違う話をしだした。しかも悠夜が自分の事を好きかもしれないって? そんな事あり得ない。悠夜はケーキが好きで気に入ってくれているだけだ。可愛らしい子犬のような目つきが気に入らなかったのだろうか。「早く選びなさいよ」そう急かさせると店の中に「社長、遅すぎます!」とスーツ姿の秘書らしき男性がタイミングよく洸夜を引っ張るようにして店を出ていった。
本当嵐のような男だ。いきなり現れては日和の心をガサガサとかき乱して急に去っていく。
「今日の社長も独占欲が最強だっだわね。あの爽やかイケメンに嫉妬してたわね、あれは」
「爽やかイケメンって……」
一通りの出来事を隣で見ていた綾乃がボソリと呟いた。いつの間にか悠夜の事を爽やかイケメンと呼んでいる。まぁ確かに側から見たら黒髪の笑顔が可愛い爽やかイケメンなのかもしれない。
「独占欲なんだか、俺様なんだか……」
「婚約者だなんて焦れったいこと言ってないでさっさと結婚しちゃえば?」
「な、何いってんのよ! そんなの有り得ないでしょ。付き合ってもいないんだし」
「え、そうなの? てっきりもう付き合ってるのかと思ってたわ」
「本当あの男何考えてるんだか分からないし……婚約者なんかじゃないから」
そうだ。あんなに愛おしそうに日和を見つめ、好きだと何度も囁き、あんなにキスをして、セックスする。なのに日和と洸夜は付き合ってはいない。この関係を言葉にするならなんて言うのだろう。恋人? いや、付き合ってとは言われていない。セフレ? とはまた違う、曖昧な関係だ。もやもやする。
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