永い貴方と儚い貴女
第2話 儚い貴女
これは悪い夢なんじゃないか。
目の前で真っ赤に染っていく彼女を、諦めたように安らかな笑みを浮かべる彼女を、未だ鮮明に思い出すことが出来るのに…。
俺はあの日からこの現実を受け止められない。
ずっと今が悪夢である事を願い続けている。
「くっ…主様…。」
刀を握る度、貴女がここには居ないことを、そして自分の弱さを思い知らされる。
優しい彼女の事だ。
きっと、忘れて欲しいと俺に願っている。
「はぁ…忘れられねぇよ…。」
「忘れたくないからな。」
雲ひとつない空の下、俺は今日も彼女に語りかける。
返事が返ってくることはないと分かっていても、辞める理由にはならなかった。
「…」
もう一度、俺の名前を呼んで欲しい。
「実は生きてました」
なんて言って指輪を輝かせながら、フラッと自室からその顔を覗かせてはくれないだろうか。
そんな願いも虚しく、時ばかりが進み、俺はあの日から止まったままだった。
その時、冷たい風が俺の髪を揺らした。
「うっ…寒いな…。」
「…フッ。」
ふと、彼女の優しい声が聞こえた。
こんな時、彼女ならなんて声を掛けてくれるだろうか。
「こんな時主様なら…。」
「そろそろ部屋に戻らないと風邪を引く」
「とか言って心配してくれそうだな。」
「なんて…、」
「…分かってるなら早くそうしてよ。」
「って怒られちまいそうだ。」
貴女にならどんなに叱られてもいい。
全部受け止めるから、逢いに来て欲しい。
いっその事、俺の方から逢いに行くか。
なんて、それこそあっちで酷な説教を受けそうだな。
・・・
「まぁ…今日くらいいいだろ。」
屋敷へ入って真っ直ぐ執事室に向かうはずだった俺は、何故かワインセラーに来ていた。
「別に予定も無いしな。」
「昼間からなんて自分でもどうかと思うが…。」
何となく疲れていて、
何となく何もしたくなくて、
何となく全部忘れたかった。
俺が仕事をしなければ、壊滅的なセンスの執事が出張ってくるかもしれない。
でも今は、どうでも良かった。
「何となく…今は全部忘れたい…。」
彼女は心配性だから、程々に。
飲み過ぎないように、自分に言い聞かせた。
そのまま今度こそ執事室に向かい、俺は椅子に腰を掛けた。
「チッ…はぁ…。」
心底自分に呆れた。
溜め息をこぼす俺の手にはグラスが2脚。
いつもの癖なのか、あるいは今日の彼女の為なのか。 自分でもよく分からない。
「なんで2脚持ってきちまったんだろうな…。」
なんて口はそう言いながらも、俺の手は丁寧に2杯分のワインを注いでいた。
「ほらよ…主様。」
誰もいない椅子に向かって話し掛ける。
大のワイン好きだった彼女は、俺が飲んでいるのを見掛けると必ず寄ってきた。
「一口ちょうだい」とか、
「一緒に飲みたい」とか、
初めは執事として躊躇いはあったが、回数を重ね、次第に定期的に2人で飲むようになった。
「主様、これ好きだろ?」
もしかしたら今日も、あの時のように酒に釣られて帰ってきてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、無意味だと分かっていても、今の俺はこうするしかなかった。
“もう二度と逢えない”
そんな現実を認めることになれば、きっと耐えられないだろうから。
「…寂しいもんだな。」
「目の前に居ないだけで…こんなに違うのか。」
「当たり前だと思ったことはなかったが…、」
「こうもいきなり居なくなっちまうとはな。」
「フッ…俺の主は意地悪だな…。」
そう、本当に意地悪だ。
普段はあんなに優しく瞳を輝かせて微笑んでくれたのに、まるで全てが幻だったかのようにあっさり居なくなってしまった。
ふとぼやけてしまった視界を誤魔化すように、俺はグラスのワインを飲み干した。
空になっては注ぎ直して、これでもう何杯目だろうか。
「ゴクッ…ゴクッ…っ。」
(はぁ…主様に怒られちまうな…。)
飲めば飲む程、頭が回らなくなる。
忘れる所か、今まで忘れようとしていたあの日の出来事が鮮明に思い出される。
駄目だ…もう疲れた。
「くそっ…やっぱり思い出しちまうな…。」
「グスッ…主様…。」
「本当にっ…すま…ない…っ。」
「うぅ…っ…。」
今まで押し込めていたものが、視界を滲ませる涙と共に一気に溢れ出てきた。
俺はその場に泣き崩れたのだ。
そして遂には、右手に持っていたワイングラスを滑り落としてしまった。
「…っ。」
俺は自分の義手を睨みつけた。
「そもそも…!」
「この右手さえ失わなければ…っ!」
「右目も右手も自由だったら…、」
「未来は変わったのか…?」
滲む視界の中には、左目を頼りに醜い世界が広がっている。
不自由な右手は貴女に触れる事も許されず、ひたすら握ってきた刀すらも拒絶するようになった。
全てはあの時、
俺が右手を失ったから? 右目を失ったから?
俺に体力がないから?
(…どこで間違えたんだ…っ。)
床を赤く染めるワインとグラスの破片。
それはまるで、あの日の悲劇という名の血に染った現実を突き付けているようだった。
「もし来世があるなら…。」
「今度こそ…俺があんたを守り抜きたい。」
「っ…だが…、」
「世界が平和になった今。」
「これ以上に喜ばしい事は…、」
きっとないはずなのに。
例えどんなに厄介な敵が現れようと、貴女が居ない世界よりずっと生き甲斐がある。
また振り出しに戻ってもいい。
だから、もう一度貴女に逢いたい。
なんて・・・
これまで必死に戦ってきたのにも関わらず、ついそんな事を考えてしまう。
俺はあの日をずっと後悔している。
だって・・・
───貴女は悪魔の為の最期を迎えたから。
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