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みら

19,807
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寝室へ戻ると。
目黒は眠っているように見えた。
阿部は音を立てないようにベッドへ入り、そっと布団をかける。
その瞬間。
隣で、目黒の呼吸がわずかに乱れた。
「……あべちゃん?」
「起こした?」
「ううん」
目黒がゆっくり目を開ける。
暗がりの中で、阿部を探すように視線を動かした。
「どこ行ってたの?」
「リビング」
「眠れなかった?」
「ちょっとね」
阿部は横になり、目黒の方を向いた。
少し迷ってから。
「天使が来た」
目黒の目が、わずかに見開かれる。
「……あいつ?」
「うん。あいつ」
「何て?」
「いろいろ」
阿部は、天使と話したことをゆっくり話した。
現実では、まだ三分か四分ほどしか時間が進んでいないらしいこと。
身体は大丈夫だと言われたこと。
最初にここへ来た自分と、今の自分は同じ願いなのかと聞かれたこと。
そして。
「心に傷を負ったのは、俺だけじゃないって言われた」
目黒の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「過去のことを全員で笑い話にできるくらいまでは、ここにいたらって」
「天使が?」
「うん」
「珍しくまともなこと言うね」
「言い方は、めちゃくちゃ適当だったけど」
目黒が小さく笑う。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
阿部は、暗い部屋の中で目黒を見つめる。
「めめ」
「ん?」
「みんなの傷って」
言葉を探す。
「俺、ちゃんと知らない」
「そうだね」
「バーではみんな泣いてたけど」
あの日。
みんな、声を押し殺すように泣いていた。
でも、阿部は自分の記憶を取り戻すことだけで精一杯だった。
あの涙が何を意味していたのか。
誰が、何を後悔していたのか。
聞く余裕などなかった。
目黒が静かに言う。
「後で聞いてみなよ」
「みんなに?」
「うん」
「話したくない人もいるんじゃない?」
「その時は、無理に聞かなきゃいい」
「……そうだね」
阿部は頷いた。
それから。
目黒の顔を見る。
「めめは?」
「俺?」
「今、教えてくれるの?」
目黒は黙った。
暗闇の中で、目黒の横顔だけがぼんやり浮かんでいる。
阿部は急かさなかった。
しばらくして、目黒が天井へ目を向ける。
「……聞きたい?」
「聞きたい」
「結構、重いよ」
「分かってる」
「俺も、ちゃんと話せるか分かんない」
阿部は布団の中で目黒の手を探した。
指先が触れる。
その手は、少し冷たかった。
阿部はそっと握る。
「ゆっくりでいいよ」
目黒は絡んだ指を見つめた。
それから、息を吐く。
吐いた息が、暗闇に溶けていく。
「一番は」
声が低くなる。
「あべちゃんがああなったの、俺のせいだって思ってる」
阿部の胸が痛んだ。
「めめのせいじゃないよ」
「分かってる」
目黒はすぐに答えた。
「頭では分かってる」
「……」
「あの人がやったことは、あの人の責任だし」
「うん」
「俺が悪いわけじゃないって、みんなにも何回も言われた」
それでも。
目黒は握った阿部の手から目を逸らせなかった。
「あの人があべちゃんに近づいた理由は、俺だった」
「……」
「俺を好きになって」
「俺とあべちゃんを別れさせようとして」
「写真を作って」
「週刊誌に売って」
「ずっと、あべちゃんに酷いことを言って」
声が、少しずつ掠れていく。
「最後は」
目黒が言葉を止めた。
その先を口にしなくても、阿部には分かっていた。
無理やりされたキス。
目の前で壊れていった自分。
そして、何もできなかった目黒。
「俺と付き合ってなかったら」
目黒が言う。
「少なくとも、あの人には狙われなかった」
「めめ」
「分かってる」
目黒は、もう一度そう言った。
「そんなこと考えても意味ないのも分かってる」
でも。
分かっていても、消えない。
その顔が、そう言っていた。
阿部は握った手に力を込めた。
けれど、目黒の指は動かなかった。
しばらくして。
目黒が、また口を開いた。
「あと」
「うん」
「あの日」
阿部は何も言わず、目黒の声を待った。
「あべちゃん、一人にしてって言ったじゃん」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
思い出した。
『今は一緒にいたくない』
そう言った。
目黒は何も悪くないのに。
顔を見るだけで、あの女優を思い出してしまった。
だから、少しだけ離れてほしいと頼んだ。
「あべちゃんが一人になりたいって言ったから」
「俺、帰らなかった」
阿部は、握った手に力を込めた。
「今でも分かんない」
「本当に、あれでよかったのか」
目黒の目が、少しずつ赤くなる。
「嫌がられても残ってたら」
「玄関を開けさせなかったかもしれない」
「めめ」
「ドアホンも、俺が見たかもしれない」
「……」
「あの人が来ても、あべちゃんのところまで行かせなかったかもしれない」
目黒の声が震える。
「刺されなかったかもしれない」
阿部は、何も言えなかった。
目黒の中で、あの日は終わっていない。
何度も何度も、別の結末を探している。
一緒に帰った結末。
電話をかけた結末。
誰かを向かわせた結末。
どれも、現実には存在しない。
だから、いつまでも終われない。
「何回考えたか分かんない」
目黒が続ける。
「もし俺が、あの日一緒に帰ってたら」
「……」
「もし電話してたら」
「もし誰かに見に行ってもらってたら」
「もし」
そこで、目黒は目を閉じた。
長い睫毛の先に、涙が溜まる。
「俺が、あべちゃんを一人にしなかったら」
一滴。
涙が落ちた。
音はしなかった。
それなのに、阿部にははっきり聞こえた気がした。
胸の奥へ落ちていく音だった。
「あれは」
阿部の声も震える。
「俺が一人になりたいって言ったんだよ」
「分かってる」
「本気で」
「うん」
「めめが嫌いだったわけじゃない」
「知ってる」
「でも、あの時は本当に一人になりたかった」
目黒は何も言わない。
阿部は、目黒の手を両手で包んだ。
「だから、めめが俺の言葉を聞いてくれたことまで」
少しだけ身体を近づける。
「悪いことにしないで」
目黒の顔が歪んだ。
「あべちゃん」
「結果が悪かったからって」
「……」
「めめが俺を尊重してくれたことまで、間違いにしたら」
阿部は首を横に振る。
「俺、悲しいよ」
目黒は、しばらく何も言えなかった。
ただ、阿部の手を握り返した。
その力は弱くて。
それでも、離れたくないという気持ちだけは伝わってきた。
「病院で」
やがて、目黒が話を続けた。
「ずっと寝てるあべちゃんを見てた」
「手、冷たく感じた」
「本当は、ちゃんと温かかったと思う」
目黒は、少し笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
「冷たく感じた」
阿部は目を伏せる。
「握ってても」
「全然、握り返してくれない」
目黒の涙が、また落ちた。
「名前呼んでも、何も返ってこない」
阿部も泣いていた。
聞いているだけなのに、胸が苦しかった。
目黒がどれだけ長い時間、眠っている自分のそばにいたのか。
どれだけ返事を待っていたのか。
今の自分には、想像することしかできない。
それが、苦しかった。
「俺」
目黒が息を詰まらせる。
少し間を置いて。
「あべちゃんがいなくなるかもしれないって、本気で思った」
阿部の指を、目黒が強く握る。
「今までだって、怖いことはいっぱいあったけど」
「うん」
「でも」
目黒は首を横に振った。
「あの時は違った」
「……」
「本当に」
声が震える。
「もう二度と、目を開けないかもしれないって」
阿部は目黒へ近づいた。
額が触れそうな距離まで。
「怖かった?」
「怖かった」
目黒は迷わず答えた。
「今も怖い」
「今も?」
「うん」
「俺、目の前にいるよ」
「分かってる」
「話してる」
「分かってるよ」
それでも。
目黒の中には、病院のベッドで眠っている阿部がいる。
握り返してくれない手。
呼んでも返ってこない声。
目を開けない瞼。
あの日から、まだ数分しか経っていない。
天使の言うことが本当なら。
目黒にとっても、何週間も夢で過ごした時間は、現実ではあの恐怖のすぐ続きなのだ。
「だから」
目黒が言う。
「この夢で、あべちゃんが笑ってるの」
「うん」
「ずっと見てたかった」
阿部は黙った。
「最初は、俺のこと何も知らなくて」
「寂しかったけど」
目黒は、泣きながら少しだけ笑った。
「でも、生きてた」
その言葉に、阿部の涙が落ちる。
「ご飯食べて」
「仕事楽しいって言って」
「みんなと笑って」
「俺のこと好きになって」
目黒が、泣きながら笑う。
「全部」
「うん」
「嬉しかった」
その声は、嬉しかったというより。
失いたくなかった、に近かった。
阿部は目黒の頬へ手を伸ばした。
涙を拭う。
指先に触れた肌は、夢の中なのに確かに温かかった。
「めめ」
「うん」
「帰りたい?」
その問いに、目黒の表情が止まった。
今まで、阿部はずっと自分が帰るかどうかを考えていた。
目黒は、
「あべちゃんが決めたところにいる」
と言った。
帰るなら一緒に帰る。
残るなら、ここにいる。
でも。
目黒自身が本当はどうしたいのか。
阿部は、ちゃんと聞いたことがなかった。
「俺じゃなくて」
阿部が言う。
「めめはどうしたい?」
目黒は、しばらく答えなかった。
視線を逸らす。
暗い部屋の中で、その横顔がひどく遠く見えた。
「……帰らなきゃとは思ってる」
「現実のあべちゃんの身体もあるし」
「仕事もある」
「ずっと夢の中にいるわけにはいかないって分かってる」
そこまで言って。
目黒は黙った。
阿部は待った。
急かさず。
ただ、隣にいた。
やがて、目黒が本当に小さな声で言った。
「でも、本当は」
目黒は一度、目を閉じた。
「まだ帰りたくない」
阿部の目が揺れた。
目黒は涙の残る目で阿部を見る。
「怖い」
「……」
「戻ったら」
言葉を探すように、ゆっくり息を吐く。
「また病院から始まるから」
阿部の胸が、強く痛んだ。
自分が目を覚ませば。
自分にとっては、新しい始まりかもしれない。
でも、目黒にとっては。
阿部が刺されて。
目を覚まさなくなった。
その時間の続きなのだ。
「ここなら」
目黒が言う。
「あべちゃん、普通に歩いてる」
「ご飯も食べる」
「隣で寝てる」
「俺のこと、好きって言ってくれる」
声が、また震える。
「だから、もう少しだけ」
阿部の手を握る。
「ここにいたい」
阿部は、何も言えなかった。
天使の言葉を思い出す。
――心に傷を負ったのは、あべちゃんだけじゃないよ。
今、ようやく、その意味が分かった。
目黒も怖かった。
目黒も、まだあの日から動けていなかった。
自分だけが現実へ帰る勇気を探せばいいわけではなかった。
阿部は身体を寄せる。
目黒の胸に顔を埋めた。
目黒の腕が、ゆっくり阿部を抱きしめる。
その腕は、抱きしめるというより。
確かめるようだった。
ここにいる。
消えていない。
まだ、触れられる。
「……めめ」
「うん」
「俺」
少し考えてから、言った。
「このままじゃ帰れない」
目黒の身体が、ほんの少し強張る。
「ここに残りたいって意味じゃないよ」
「……うん」
「俺だけが元気になって」
言葉を探す。
「俺だけが帰ろうって決めて」
「……」
「みんながまだ、あの日のままなら」
阿部は目黒の服を握った。
「そのままじゃ帰れない」
目黒は何も言わなかった。
ただ、阿部の髪に頬を寄せる。
「めめが」
阿部が続ける。
「本当に帰っても大丈夫って思えるまで」
「……」
「みんなも」
「うん」
「少なくとも」
阿部は、泣きながら少し笑った。
「思い出しただけで泣くんじゃなくて」
天使の言葉を借りる。
「いつか、笑い話にできるくらいになるまで」
目黒が、かすかに笑った。
「それ、結構時間かかりそう」
「いいじゃん」
「いいの?」
「現実、三分くらいしか進まないらしいし」
目黒が、ほんの少し吹き出す。
「本当に?」
「天使情報だから、信用できないけど」
「じゃあ、五分くらい?」
「それ、天使と同じこと言ってる」
二人で笑った。
ほんの一瞬だけ。
苦しさの中に、笑い声が落ちた。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
消えたあとに残った静けさが、かえって切なかった。
阿部は目黒の胸元に額をつけたまま言う。
「こうやって」
「うん」
「少しずつでいいんじゃない?」
目黒は阿部の髪を撫でた。
「うん」
「俺もまだ怖い」
「俺も」
「じゃあ」
阿部は目を閉じる。
「二人とも、怖くなくなるまでじゃなくて」
少し考える。
「怖くても帰れるって思えるまで」
目黒の腕に、少しだけ力が入った。
「うん」
静かな声だった。
「そうしよ」
阿部は、その返事を聞いても安心できなかった。
目黒の胸の奥にある恐怖は、まだ消えていない。
自分の中にも、帰ることへの怖さが残っている。
それでも。
今は、離れずにいられる。
それだけだった。
自分の傷だけではない。
目黒の傷も。
みんなの傷も。
この夢の中で、まだ少しずつ癒していくしかない。
今すぐ帰らなくてもいい。
でも。
いつかは、九人で帰る。
そのために。
もう少しだけ。
この夢で一緒に過ごそうと思った。
目黒の腕の中で。
阿部は目を閉じる。
眠りに落ちる直前。
現実の病室で、目黒が握っているかもしれない自分の手を思った。
その手はきっと。
夢の中のように、握り返せてはいない。
それでも。
いつか必ず。
自分から握り返したいと思った。
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めめの過去、こんなに重かったんだね……。自分のせいだって思ってたこと、あの日一人にしなかったことを後悔してること、全部初めて聞いた。阿部ちゃんが「めめが俺を尊重してくれたことまで間違いにしないで」って言ったところ、本当にそうだよね。抱きしめ合って「怖くても帰れるって思えるまで」って決めたふたりの距離が、少しずつ縮まってる感じがして、温かくて切なかった🥀