テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
白波 灯
219
鬼霧宗作
303
莉央の妊娠が分かったのは、それから五週間後。
朝、母から電話が入る。
『検査薬が陽性だった。莉央が、千紘に診てほしいって』
「私には診られない。前に話した病院へ連れていって」
『分かった』
昼過ぎ、実家へ向かうと、食卓へ妊娠検査薬を置いていた。
二本の線を、勲章のようにこちらへ向けている。
「お姉ちゃんが診れば、すぐ分かるでしょう」
「検査薬だけでは、正常妊娠かどうかも週数も分からない」
「だから診て」
「家族だから診ない。あなたの妊娠へ私情が入る可能性がある」
「私の子だけ見たくないんだ」
「見たくない気持ちがあるから、別の医師へ任せるの」
顔が強張った。
「医者なのに、そんなこと言っていいの?」
「医師だから言うの。感情が影響する相手を、自分で抱え込まないために」
母に付き添われ、莉央は以前紹介した産婦人科を受診した。
私は診察へ同行しなかった。二時間後、二人が戻ってくる。
妊娠六週。子宮内に胎嚢が確認され、心拍の確認は一週間後になった。
超音波写真を食卓へ置いた。
「ここが赤ちゃんだって」
「出血や強い腹痛があれば、すぐ受診して。自己判断で待たないで」
「心配してくれるんだ」
「あなたの体と胎児の安全は心配する。遼介とのことを許すかは別よ」
写真へ手を重ねた。
「この子が生まれたら、お義兄さんは私を選ぶ」
「遼介へ連絡した?」
「写真を送った。今夜来るって」
「ここへ?」
「父親なんだから当然でしょう」
母が口を挟む。
「来てもらいます。その前に、莉央へ確認することがある」
自治体でもらってきた妊娠・出産支援の資料を食卓へ並べた。
「今の会社は辞めている。住民票はまだ前の住所。健康保険と年金の手続きも途中でしょう」
「お義兄さんと結婚したら、全部久世家でやってくれる」
「結婚しなかった場合を考えなさい」
「するから」
「相手が妻と離婚していないのに、決定したこととして扱わない」
出産までの受診費用。
働けなくなった場合の生活費。
認知と養育費。
出生後に一人で育てる場合の住居と保育。
一つずつ確認していく。
「そんな話、赤ちゃんができた日にしなくてもいいでしょう」
「赤ちゃんができた日だからするの。産むと決めるなら、男に選ばれなかった場合も育てられる形を作る」
「お母さんは、私が捨てられると思ってるんだ」
「遼介さんの行動を見て、捨てられない保証があると思う方が難しい」
資料を払いのけた。
「お姉ちゃんの時は、こんなこと言わなかったでしょう」
「千紘は妊娠していない」
「結婚する時!」
「千紘は自分の仕事と収入があり、遼介さんの家へ入らなくても暮らせた。それでも、病院の経営まで確認すべきだったと思ってる」
母の声が低くなる。
「母親として、同じ失敗を二度しない」
私の結婚を祝福し、久世家の態度に違和感があっても、幸せだという娘の言葉を優先した。そのことを母は悔いている。
「私、産むよ」
腹部へ両手を置いた。
「お義兄さんが何を言っても、この子は産む」
「では、父親が結婚しなくても育てる準備をする。それが条件よ」
「条件って、誰の?」
「この家で暮らし、私の援助を受けるなら私の条件。嫌なら、自分で住居と生活費を用意しなさい」
母は、いつものように莉央を庇わなかった。
体と胎児は守る。でも、選んだことの責任まで全部代わりに背負わない。
母なりに、今までの家族の形を変えようとしているのだと思った。
「お姉ちゃんも、私を追い出したい?」
「私は、あなたの生活費を負担しない。必要な医療や公的支援へ繋ぐことはできる」
「家族なのに」
「家族だから、遼介に選ばれるまで私たちが支える形にはしない」
泣きそうな顔で私を見た。
それでも私は、以前のように代わりの住居を探したり、金を渡したりしなかった。
困っている莉央を見ると、今までの癖で手を出したくなる。
でも、その場だけ助けることが、本当に莉央のためになるとは限らない。私が何でも片づけてきたことも、今の妹を作った一つなのかもしれなかった。
「来てもらいます。三人だけで話させない。千紘も残れる?」
「うん。録音もする」
夕方、遼介が実家へ現れた。
受診から戻ってから、何度も髪を直し、口紅を塗り直していた。妊娠の今後を相談するというより、恋人へ勝利を報告する顔だった。
食卓へ置かれた超音波写真を見ても、手に取らなかった。
「本当に妊娠していたのか」
「六週だって。次は心拍を見るの」
「避妊薬は飲んでいたはずだろう」
「飲んでるって言っただけ」
「莉央ちゃん……」
「赤ちゃんができたら責任を取るって言ったよね」
「そんな約束は」
莉央がスマートフォンを操作する。
遼介の声が流れた。
『千紘より、莉央ちゃんの方が一緒にいて楽だ。あいつと離婚できたら、君みたいな女と暮らしたい』
勝ち誇った目を向けてくる。
「ほら」
その横から、遼介が録音を止めるように手を伸ばした。
「これは、莉央ちゃんを落ち着かせるために言っただけだ」
「私を宥めるため?」
「君が千紘へ張り合って、興奮していたからだ」
「私の方が妻に向いてるって言ったのは本心でしょう」
「妻として選ぶ話はしていない」
顔から笑みが消えた。
「子どもができたのに?」
「認知と養育費は考える。結婚は別だ」
「真帆さんには、子どもが生まれるまでに離婚するって」
「あれも不安定だったから言った」
「じゃあ、誰と結婚するの?」
視線が私へ向いた。
「千紘とは離婚しない」
妹の下腹部には、遼介の子である可能性が高い命がある。
それでも、彼が見ているのは私だけだった。
「どうして?」
莉央の声が掠れる。
「私の方が、お義兄さんを大事にできる。家にもいる。赤ちゃんも産む」
「久世記念病院を継ぐには、千紘が必要なんだ」
「病院?」
「産婦人科部門を新設する計画がある。千紘が責任者になれば、金融機関も納得する」
「私は医者じゃないから、妻にはできないの?」
「そういう単純な話じゃない」
「単純だよ。お姉ちゃんは病院に使える。私は使えない」
その瞬間、莉央の顔から何かが落ちた。
女として求められた。私より愛されていると思っていた。でも、妻として選ばれていたわけではない。
妹はようやく、その違いを突きつけられたのだ。
母が超音波写真を透明な袋へ戻し、莉央の前へ置く。
「この子を産むなら、遼介さんと結婚できなかった場合の生活も考えなさい。住む場所、仕事、費用。口約束ではなく、父親として何を負担するのか書面にする」
「私は結婚する」
「今の会話を聞いても?」
「お姉ちゃんがいなくなれば変わるわ。離婚してよ」
「離婚はする。でも、あなたのためではない」
「お姉ちゃんが手放せば、私が選ばれる」
「遼介が私を失っても、あなたを妻にする保証はない」
「手放してから言って」
妹は、夫の言葉よりも私との勝敗を見ていた。
遼介は莉央の妊娠について、次回の心拍確認後に弁護士を交えて話すと言った。
帰り際、莉央が腹部を押さえて呼び掛ける。
「パパ、写真を持っていって」
一度だけ振り返った。
「病院の画像なら、スマートフォンで見られるだろう」
写真には触れず、玄関を出た。
扉が閉まると、超音波写真を握りしめた。
「お姉ちゃんがいるからだ」
責めるべき相手は、超音波写真に触れようともしなかった男のはずだ。
それでも莉央の怒りは、まだ私へ向いている。
私さえいなくなれば幸せになれる。そう信じている限り、妹は遼介の本当の姿を見ないのだろう。
コメント
1件
妹がようやく真実を受け止める場面、本当に苦しかったです。千紘が「家族だから診ない」と線を引く姿勢、母が「同じ失敗を二度しない」と悔いる姿、どれも重くて。遼介が超音波写真に触れなかった瞬間の冷たさ、あれで全てが決まったように思えました。莉央の怒りがまだ姉に向いているのが切ないけど、その視線をいつか彼女自身が変えられる日が来るといいな。