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「ねぇ、ちょっと天音ってば!!」
「ん〜……聞こえてるって。」
「“聞こえてるって”じゃないわよ!! ここ、どうにかしなさいって言ってんの!!」
「時雨がやれば早いだろ。」
「自分でやれって言ってんの!!」
……あれ、俺、何してんだっけ。
目の前では、床に散乱した書類と空き缶を挟んで、
時雨と天音が、ほぼ夫婦喧嘩みたいな口調でやり合っている。
俺は何故か片付けをしていて。
仕事の様子を観察してこい──廻谷にそう言われて来たはずなんだけど。
どう見ても、仕事してるようには見えない。
いや、そもそもここ……家だよな? 事務所じゃないよな?
「天音、いい加減に……!」
「……あーはいはい。やるやる。今、心の準備してるから。」
「その準備、何分かかんのよ!!」
……俺は深くため息をついた。
この人たちが“怪異専門の探偵”だなんて、誰が信じるだろう。
──そして、時は一時間前に遡る。
入社して2日。
特に何かがある訳でもなく、俺はただ黙々と書類を片付けていた。
そんな時だった。
「武器はまだだが…赤坂、仕事の見学にでも行ってこい。」
廻谷から不意にそう言われた。
「…急じゃないか?」
俺が怪訝そうに眉を寄せると、
「急な依頼が入ったんだよ、依頼が。」
と、廻谷は豪快に笑った。
「氷見の所で見学させようかと思ったが、生憎アイツは暇じゃなさそうなんでな。」
「仕事か?」
「そうそう。少し遠方に足を運んでる。」
「…分かった。で、俺は誰の所で見学すればいいんだ?」
まだ入って2日。
俺は、氷見以外の社員と顔を合わせたことすらなかった。
「なに、もうすぐ来るぞ。」
廻谷がそう言った瞬間——
ガンッ、と勢いよく事務所の扉が開かれた。
「ま、間にあったぁ!!」
息を切らし、桃色の髪を乱しながら駆け込んできたのは一人の女。
肩まで伸びる髪がふわりと揺れ、黒のオフショルダーに深紅のスカート、
そして膝上まであるブーツがやけに印象的だった。
探偵事務所の職員とは到底思えない、その軽やかでどこか戦場めいた姿に、
思わず言葉を失う。
「アイツが今日、お前が仕事を見学する奴の1人だ。」
廻谷が笑いながら言う。
俺はただ、開け放たれた扉の前で呆然と立ち尽くしていた。
肩で息を切りながら、女は廻谷に顔を向けた。
「はぁ…社長、依頼が入ったんですよね…?」
「当たりだ。で、天音はどうした?」
その問いに、女は頬をぷくっと膨らませた。
「アイツ、また寝坊です!!もうっ!」
プリプリと怒るその姿に、思わず笑いそうになる。
だが、彼女の視線がこちらに向いた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「あれ? 君は…?」
「コイツは昨日付けで入社した──」
廻谷が言いかけたところで、俺は慌てて口を開く。
「…赤坂颯です。」
一瞬の沈黙のあと、女の顔にぱっと笑みが広がった。
「お〜!赤坂くん、よろしくね! 私は──」
彼女は軽く髪をかき上げ、柔らかな笑顔を浮かべながら名乗った。
「時雨。霜月時雨って言います! 今日からよろしくね、後輩くん!」
その瞬間、事務所の空気が少し明るくなった気がした。
「よし、お前たち二人でまずは、天音を起こしてこい。時雨は得意だろ?」
廻谷の軽い声が響く。
その瞬間、霜月は露骨に顔をしかめた。
「得意じゃないです……ホントに、アイツと来たら……」
肩を落とし、ため息をつく姿は、もはや“慣れてる”というより“諦めてる”に近い。
「……その、天音って人って……?」
恐る恐る尋ねると、霜月はちらりと俺を見て、
眉間にしわを寄せながらぼそりと答えた。
「私とツーマンセルの男……顔だけ番長よ……」
短い沈黙。
その一言に込められた怨嗟の濃度が、想像以上に重かった。
「……大変そうだな」
俺がそう呟くと、霜月は虚ろな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「大変どころじゃないのよ、ホントに。」
その表情には、長年積もった疲労と諦観が滲んでいた。
「行くわよ、赤坂くん。あいつの部屋は地獄よ。」
霜月が立ち上がり、俺を振り返った。
嫌な予感しかしない──そう思ったのは、出発するほんの数分前だった。
天音と呼ばれる男の家は、事務所からそう遠くない場所にあった。
歩いて十五分ほど。人通りの少ない路地を抜けながら、俺と霜月は並んで歩いていた。
道中、少しだけ話をした。
どうやら霜月は十九歳で、俺より一つ年上らしい。
そして、その“寝坊魔”こと天音はさらに一つ上の二十歳。
「年下に面倒を見られてる年上って、どうなんだろうな……」
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、もちろん口には出さない。
出したが最後、霜月の愚痴が延々と続く未来が、容易に想像できたからだ。
霜月はふと、俺の視線に気づいたようで、ちらりとこちらを見た。
「……なに?」
「いや、別に」
「ふーん……ならいいけど」
その何気ないやり取りの中にも、
彼女と天音の長い付き合いを感じさせる空気が滲んでいた。
そして、気づけば天音の家と思われる建物へと到着していた。
何の変哲もない、どこにでもあるような二階建てのアパート。
古びた外壁と、少し軋む鉄製の階段が、静まり返った住宅街にやけに響く。
霜月は慣れた足取りで階段を上がり、二階の一室——“203”と書かれたプレートの前で立ち止まった。
「ここ。」
そう言って、インターホンを押す。
……反応はない。
数秒待ってから、もう一度。
しかしやはり、無音。
俺が何か言おうとしたその時、霜月は小さくため息をつき、
ショルダーバッグから鍵束を取り出した。
カチャリ。
金属の触れ合う音が小さく響く。
そのまま何のためらいもなく、鍵を差し込み、
慣れた手つきでドアノブを回した。
ガチャリ——。
解錠の音と同時に、ドアが静かに開く。
「……おじゃましまーす。」
どこか事務的な声色でそう呟きながら、
霜月は当然のように部屋の中へと足を踏み入れていった。
俺はその背中を見つめながら、思わず遠い目になった。
(……これ、完全に不法侵入じゃないか?)
心の中でそう突っ込みながらも、
何故かこの人なら許されそうな気がして、俺はただ黙って後を追った。
部屋の中は、大惨事だった。
まず、玄関がグチャグチャだ。
靴は脱ぎ散らかされ、至るところに転がっている。
居間へと続く廊下も、洗濯物や紙が散乱しており、足の踏み場すらない。
どうにか避けながら進み、ようやく居間へと辿り着いたのだが——その先はもっと酷かった。
テーブルの上には、飲みかけの缶コーヒーやエナジードリンクの空き缶が山のように積まれ、
その下には、書類らしき紙が無造作に散らばっている。
「……つい三日前に片付けに来たばっかなんですけど?」
霜月の低い声が、静かな部屋に響いた。
その声には、明らかな怒気が滲んでいる。
途端に、部屋の隅に積まれた布団の山がもぞりと揺れた。
「あり? 時雨じゃん。なに?」
くぐもった声が、布団の中から聞こえた。
「『なに?』じゃないわよ!!」
霜月の怒号が飛ぶ。
「そんなに怒るなよ、可愛い顔が台無しだぞ」
ヘラヘラと笑いながら、布団の山から這い出てきた男。
それが“天音”だった。
……しかし、その格好を見た瞬間、思考が止まる。
パンツ一枚。
ただそれだけ。
まごうことなき最悪な状態だった。
「お前……その格好で人前に出るなよ……!」
思わず心の中で叫ぶ。
女子の前で何してんだよ、と。
恐る恐る霜月の顔を盗み見たが、彼女は特に動じていなかった。
怒るでも、恥ずかしがるでもなく、ただ深いため息をつくだけ。
……なるほど。これが“日常”ってやつか。
それにしても、 コイツ。
だらしない見た目に反して、意外と引き締まった身体をしている。
細身だが、しなやかな筋肉が腕や腹に浮かび上がっていた。
氷見と言い、この男と言い——
うちの事務所、なんでこうもスタイルのいい奴ばっかなんだ。
内心でそんな嫉妬混じりの愚痴を漏らしながら、
俺は呆れと驚きが入り混じった視線を向けた。
しかし、俺のそんな様子には気付かず、男は霜月へと視線を向けた。
「なぁ、時雨。今、何時?」
「もう十時よ。早く起きなさい」
「……その男は?」
「話を逸らさないで。——この子は赤坂颯くん。昨日入ったばっかりの後輩くんだよ」
「へぇ、そうか。俺は神薙天音。よろしくな」
神薙がにやりと笑い、手を差し出してきた。
仕方なくその手を取った瞬間、ギシッと音が鳴った気がした。
「っ……!? ちょ、痛い痛い痛いっ!」
冗談抜きで、握力がおかしい。
焦って顔を上げると、神薙はにこりと笑っていた。
「時雨は、取るなよ?」
その目が冗談ではないことを告げていた。
軽口に見えて、視線は妙に真っ直ぐで——まるで牽制のようだ。
やがて手を放すと、神薙は何事もなかったかのように霜月の方へ向き直った。
そして、霜月は大きなため息をつきながら、ゴミ袋を俺に突き出した。
「はい、これ」
「……え?」
「見て分かるでしょ?片付けて」
にっこり笑うその顔が、全く笑っていないのは気のせいじゃない。
どうやら、俺の初仕事はゴミ処理らしい。
こうして俺は、神薙天音の“地獄の部屋”と格闘する羽目になった。
——そして、冒頭へと至る。