「ばく?」
ばくってなんだろう。
彼は言い終えてしまったのか、それきり俯いてしまう。
話している方が辛そうに見える。
「うんうん。何も心配はいらないよ。一緒に行こ」
彼からは嫌という意思を感じることは無い。
だから、私と行くことを拒まないという事実
だけが私を嬉しい気持ちにさせる。
私は言葉を飲むような間、彼を押して校庭へ向かった。
私と彼が出会ったあの大きな桜が、私達を迎えている。
「人結構多いね。んで、桜がいい感じ」
初めての学園祭で彩り豊かに染まる校庭。
両端にあったチューリップは桜を囲うように移動され、今は屋台のようにお店が並んでいる。
手にしていたパンフレットを見る。
「へぇー、なんか屋台っぽいなと思ってたら
やっぱ夜までやってるみたい」
開店時間 九〜二十一時。
ほぼ丸一日開いているようだ。
屋外の時計はやっと九時を過ぎたようだった。
「ね、あそこいこ!おいしそうな食べ物ある!」
半ば強制に車椅子を動かしていた。
焦げのついたフランクフルトが目当て。
「えー、おいしそう!ほら見て」
彼の視界に映る位置まで近づかせる。
「おい、そこ。商品との距離感は守れ。後ろの客が見えないだろ」
奥からずけずけと出てきた男性は、強い口調で言う。
「あ、すみません…」
私は慌てて車椅子と共に、列の最後尾に並ぶ。
つい、商品に夢中になってしまったようだ。
「おい、線が見えなかったとかないだろうな?」
前に並ぶ人影から先程の男性が現れる。
わざわざ店から出てまで言いに来たようだ。
「はい。ちゃんと並んで。始まったばかりだからこそ列、崩されると困るんだよ」
彼は私達を睨みながらも、
列の線からはみ出している他の生徒も
早々と整列させていく。
「あれ、嫌な感じ…」
と言いつつも、その男性は平等だと思った。
知らん顔して病人と表面上だけ接する先生よりは、全然いい。
それでもクインテッドくんが一度眠って起きるくらいの時間は、待たされた。
「はい。ご注文の品になります。お待たせしていてすみません」
他にも数名の男女が奥の厨房へ出入りしている中、
指示厨であった彼が再び商品を渡しに来る。
「お熱いので気を付けて」
鋭く細い目。
目こそ腐っているが、態度は慎ましく紳士的だった。
「ありがとうございます」
もう少し口調が柔らかければ彼は百点満点だった。
でも、良い人だった。
この学園には平等に扱ってくれる人もいるのだと希望を持てた気がした。
私はこの心境を彼に呟きながら、学園祭のお店をあちこちと回った。
放送で流れるノリのいい曲を耳に入れながら、口内をかけめぐり、健康的に体を動かした。
彼も少なからず首ぐらいは軽く動いたのではないだろうか。
私が大袈裟に動かしたからかもしれないけれど。
それでもいい思い出になったと思う。お互いにね。
あっという間に最後は全校生徒が体育館に集められる。
演劇部の感動映画やバンドが開催され、館内は熱気に包まれていた。
暗い夜の中、ステージをテラス照明が星のようで雰囲気のある空間を醸し出す。
「ちょっと、恋人みたいじゃない?」
彼を見ると、エメラルドの瞳は既にこちらを見つめていた。
「え…どうしたの。そんな見て…」
首だけをこちらに向けたまま、何も言わない彼。
驚いた表情で私を見つめる。
私も彼に驚いたまま言葉に詰まっていたが、
一瞬にしてそれは直る。
「分かった。焦点を合わせてるように見せてるだけでしょ」
私の背後を見ているのかもしれない。
少しばかり右にズレると彼の視点はちゃんとついてきた。
向けられている瞳を返さず、彼の肩を見て言う。
「どうしたの。何が言いたいの?」
彼の不思議な動作をどう捉えていいのか分からなかった。
何となく、恥ずかしいという気だけが沢山だった。
彼が僅かに肩を下ろした時、 背後に人の気配を感じた。
「やあ、お二人さん。もうちょっと前の方で見たらどうかな」
振り返ると私は固まってしまった。
彼と同じエメラルドの瞳がこちらを見つめていたからだ。
「え…クインテッドくんのお兄さん…ですか?」
一目見て、似ていると思った。
男性の胸元には最高学年のバッジがついている。
「さ、前へどうぞお嬢さん」
彼は私達を誘導し、人の群れの中へ導く。
けれど、そんな急に出会えるものだろうか。
後ろ姿は項垂れている彼とは全く違っていた。
彼は私の手から車椅子を代わりに押しながら、
先頭へ進んでいく。
「ごめん、少しいいかな」
彼の配慮した声掛けに、生徒たちはすぐさま空間を開けてくれる。
私は彼の背中について行くしかなかった。
隅と言えど、ステージの最前列付近まで辿り着き、腰を下ろす。
「いやごめんね、壁際に張り付く生徒を座らせないと行けなくてね」
彼は困り笑顔で言う。
「い、いえ。壁に張り付いててすみません」
「ははっ、いいんだよ。 車椅子の生徒もいるしね。君たちなりの配慮なのは知っていたよ」
彼はクインテッド君を一瞥すると、すぐさま私に微笑みかける。
その笑顔がすぐさま、何事も無かったかのようにステージへ向く。
それはそこで話が終了の合図だった。
「あの」
私は彼に声をかける。
聞きたいことが山程あるから。
「ん?どうかした?」
すぐさま微笑みを返してくる辺り、どうやら出来る男らしい。
「えっと…」
変なことを考えたせいか、聞くことを忘れてしまう。
その時、クインテッド君が腕を伸ばして私の方へ手を置く。
手の先を辿ると、彼はとても真剣な顔で男性の方を見つめていた。
「貴方が僕の…兄上なのですか?」
それははっきりと言葉になっていた。
初めて彼のその瞬間を聞いたのだった。
「…失声じゃ、なかったの?」
私はこの気持ちをなんと感じたのか、自分でも分からなかった。
ただ、思考が真っ白に染まるような感覚だけが
占めた。
そんな私を待ってくれることはなく、彼は続ける。
「いえ、兄弟かどうかは関係なくとも。おじさんに何か関わっているのであれば、話をしなければなりません…」
あまりに流れるように話す彼。
私は彼に釘付けになっていた。
学園祭の盛り上がりの一つの音よりも、
彼の声が言葉が静寂の中でこだまするようだった。