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「夕ご飯、本当に、用意して行かなくていいの?」
出かけるぎりぎりまで、母は俺の夕飯の心配をした。
俺はもう大学生だし、簡単な物くらいは自分で作ることができるのだ。
「心配しなくていいから。それより、そろそろ出た方がいいんじゃないの?」
「あら、ほんとだ」
母は時計を見て、いそいそとバッグを手に持った。
「じゃあ、行ってくるわね。そんなに遅くならないように帰ってくるから」
「あぁ。気を付けて行ってらっしゃい」
大学時代の仲間との集まりに出かけて行く母を見送ってから、俺は部屋に戻った。夕飯の前に、明日の授業に持って行く物を準備しておこうと思ったのだ。そのために時間割を眺め始めて、はっとする。
「やばい」
明日までに提出しなければならないフランス語の課題があったことを思い出した。締め切りまでまだ余裕があるからと、後回しにしていたのがまずかった。
俺は早速課題に手を付けようとした。しかし、それに必要な辞書は友人に貸したままで、手元にない。ネットを利用する手もあったが、こういう場合、アナログな手段に慣れている俺にとっては、辞書の方が使い勝手がいい。
辞書を貸してくれそうな、近くに住む知り合いはいないかと考えて、柚乃の顔がぱっと浮かんだ。この時間なら、恐らく家にいるはずだ。ちょっと行ってちょっと借りてこようと、俺は慌ただしく家を出た。
藤川家のインターホンを押して間もなく、玄関のドアがガチャリと開いた。そこに現れたのは、詩乃だった。
「よぉ。急に悪い」
俺は詩乃に短く声をかけてから、おやっと思った。家の奥の方から、なんだかうまそうな匂いが漂ってきたのだ。この時間ならまだだろうと思っていたが、食事中だったようだ。
時折何かと食事に誘ってもらっているのは事実だが、タイミングを見計らって来たのかと思われるのは心外だ。さっさと用件を告げてしまおうと、俺はここに来た理由を詩乃に話した。
「辞書?」
首を傾げる詩乃に、俺はさらに詳しく説明した。話し終えてから、何気なく目線を動かした玄関の端っこに、男ものの黒のスニーカーを見つけた。双子の父親が履くようなデザインには見えない。
「もしかして、お客さんが来てるのか?」
俺の質問に、詩乃は作り物めいた固い笑みを浮かべた。そこには憂いがあった。
「戸崎さんが来ているの。それで、皆で夕飯食べてたところなんだ」
どうして彼が、と思った。しかし詩乃の答えで、俺の疑問はすぐさま解消する。
「柚乃と戸崎さん、付き合ってるのよ」
「えっ、そうなのか?」
俺は驚き、記憶を辿った。
詩乃と神澤大の学祭に行ったのは十月下旬だった。柚乃のサークルが企画した軽喫茶に顔を出し、そこで戸崎に会った。その時、彼と柚乃が一緒にいる場面を目にしたが、二人の間に漂う雰囲気からは、花火大会の時に感じた以上の、互いが互いを意識し、好意を抱き合っている様子が見て取れた。つまり、その後ついに、二人の関係が進展したということなのだろう。
しかし、それならば――。
戸崎に対する詩乃の気持ちにすでに気づいていた俺は、彼女の表情をうかがった。
柚乃と戸崎の交際を俺に教えた時の詩乃は、頬に薄い笑みを刻んでいながらも苦しそうだった。
心惹かれていた相手が自分の姉の恋人になり、今夜は彼らと同じ席にいて、二人の仲睦まじげな様を間近に目にしなければならないのだ。平常心でいるのは難しいだろうと、詩乃の心境を想像するだけで、俺の胸も締め付けられるようで、これで俺を見てくれるチャンスができたのだ、などと喜べない。
詩乃のことが気がかりだった。彼女が少しでも楽な気持ちでいられるよう、彼女の心の盾となれるよう、できることなら、俺も食事の席に同席したい。
詩乃の話では、双子の母が今夜の場を率先して設けたようだ。柚乃の恋人となった戸崎という人間を見定めようとしての、食事会なのかもしれない。大げさかもしれないが、そんなことを想像し、そうであれば、部外者の俺がその輪の中に入るべきではないとの結論を出す。詩乃が心配ではあるけれど、今日は帰った方が良さそうだ。
辞書を借りたいと言って俺が来ていることを、柚乃に話してきてほしいと改めて頼もうとするより先に、詩乃は言う。
「仏語の辞書なら、私も持ってるよ。私の、貸そうか。来週の水曜日まで返してもらえればいいし」
俺としては今すぐ借りられるのなら、どちらの物でも構わない。助かると答える俺に笑いかけて、詩乃は二階の自室に向かおうとした。
その時、双子の母親が玄関までやってきた。一緒に食事をして行かないかと俺に声をかけてよこす。
今夜の食事会の趣旨が先ほどの想像通りなら、俺は邪魔者だろう。また、そうでなくても、家に帰ってやらなければならないこともある。
それらを理由に断ったが、双子の母はなおも俺を誘う。
芙月みひろ
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#溺愛
星キラリ

4,716
そして、こういう時助け舟を出してくれるはずの詩乃までもが、一緒に食べて行けと言い出した。
本当にいいのだろうかと俺は迷った。けれどよく見れば、詩乃の顔には、ぜひそうしてほしいと懇願するかのような色がちらついていた。
詩乃がそう望むのなら、頷くしかない。多少なりとも何かしら彼女の助けになれるのであればと、俺は靴を脱いで、よく知る藤川家のダイニングに向かった。