テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「……あ、あああああ!」
奈緒の叫びは、もはや人間の言葉ではなかった。
九条が手錠をかけようとしたその刹那
彼女は袖口に隠していた小型の果物ナイフを、獣のような素早さで振り下ろした。
「ぐっ……!」
九条の腕から鮮血が飛び散り、アパートの安っぽい壁を汚す。
理系刑事として常に冷静沈着だった彼の顔が、痛みと屈辱で歪んだ。
「奈緒、貴様……!」
「触らないで!誰も信じない、あんたも、美波も、栞も! 私は私のために生きるのよ!」
奈緒は狂ったようにナイフを振り回し、後退りする。
その背後、窓の外にはスマホのライトを掲げた群衆が、まるで地獄の亡者のようにひしめき合っていた。
その時、私のスマホが地鳴りのような振動を起こした。
『パンドラ』からの強制通知。
それは私だけでなく、アパートを取り囲む野次馬たち全員の端末にも同時に届いていた。
【緊急ミッション:悪の隔離】
偽善の刑事と、裏切りの女を逃がしてはなりません。
アパートの出入り口をすべて封鎖し、彼らを「真実の檻」に閉じ込めなさい。
※達成した者には、街の富を分配します。
「……何だと?」
九条が窓の外を見て絶句する。
一瞬前まで「正義」の名の下に撮影していた群衆が
パンドラの甘い誘惑に突き動かされ、一斉にアパートの階段や非常口へと押し寄せた。
ガチャン、ガチャンと
外側から扉が塞がれていく音が、静まり返った部屋に響き渡る。
「閉じ込められた……?私たちが?」
奈緒がナイフを落とし、膝をつく。
外からは「逃がすな!」「真実を話せ!」という怒号が、物理的な圧力となって壁を揺らしている。
私は、ホワイトボードにゆっくりと文字を書いた。
『九条さん。これが、あなたが10年前に守ろうとした“秩序”の成れの果てだよ』
九条は血の流れる腕を抑えながら、私を睨みつけた。
「…栞さん、君は最初からこれを知っていたのか…っ?結衣という女と組んで、僕たちをここに……」
私は首を振った。
私もまた、この狂気の観客の一人に過ぎない。
ただ、他の人たちと違うのは、私はもう「声」を失う恐怖を知っているということだけ。
スマホの画面が切り替わり、結衣の顔が映し出される。
『いい眺めね。刑事、情報屋、そして被害者。三人が一つの密室で、自分たちの罪を食らい合う……。さあ、夜はまだ長いわ。誰が最初に、自分の“本当の喉”を焼き切るのかしら?』
結衣の冷たい笑い声がスピーカーから漏れる。
その瞬間、部屋の電気が一斉に消えた。
暗闇の中、奈緒の荒い呼吸音と、九条が銃に手をかけるカチリという金属音だけが聞こえる。
そして、パンドラから最後の「ルール」が提示された。
【パンドラの夜】
この部屋から出られるのは、一人だけです。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
深冬芽以