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#異世界物語
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第301話 近づく匠
【現実世界・クロスゲートテクノロジーズ/過去】
榊原梓が会社から姿を消して、十日ほどが経っていた。
同期開発部門では、最初の数日は「急な休み」と説明されていた。
それが一週間を過ぎた頃には「しばらく休職するらしい」という話に変わり、さらに数日が経つと、人事システム上の表示そのものが書き換わった。
《退職》
理由
《一身上の都合》
一ノ瀬ユナは、その表示を見た時、しばらく画面から目を離せなかった。
「……辞めた?」
隣の社員が振り返る。
「知らなかったの?」
「聞いてません」
「急だったみたいだよ」
「でも、先輩……」
ユナは言いかけて止まった。
数日前まで
榊原は一か月先の開発予定について話していた。
新しい同期処理のレビュー。
外部技術者との打ち合わせ。
ユナへ渡す予定の資料。
机にも私物が残っている。
辞める人間の動きではなかった。
「白峰さん、何か知ってますか?」
ユナが聞くと
少し離れたモニターを見ていた白峰律の手が止まった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「本人の事情です」
「連絡しても返ってこないんです」
「今は連絡を控えてください」
「でも――」
白峰がユナを見る。
強い声ではない。
いつも通りの穏やかな表情だった。
「一ノ瀬さん」
「……はい」
「本人が望んでいます」
それを言われると
ユナはそれ以上聞けなかった。
榊原本人が望んでいる。
白峰にそう言われれば信じるしかない。
「分かりました」
ユナは席へ戻った。
白峰も画面へ視線を戻す。
だが
そこに表示されていたのは
仕事のコードではなかった。
《BODY STATUS・STABLE》
《CONSCIOUSNESS RESPONSE・REMOTE》
《RECONNECTION・FAILED》
榊原梓の身体は
まだ生きている。
意識も
異世界側に残っている。
二つとも存在しているのに戻せない。
白峰は画面を閉じた。
その時、社内連絡が入った。
《外部取材者・来訪》
表示された名前を見て。
白峰の表情から
僅かに色が消えた。
《雲賀匠》
◆ ◆ ◆
【クロスゲートテクノロジーズ/システム運用部門】
「だから、開発の中身までは分かりませんよ」
若い社員が苦笑した。
「俺たちは上から降りてきたものを運用してるだけです」
取材用の小さなレコーダーを机へ置き
雲賀匠はメモを取っていた。
「上というのは、同期開発部門?」
「そうです。そこから仕様が来て、こっちは動作検証とかログ解析とか。根っこの部分は触らせてもらえません」
「白峰律の部署か」
男は一瞬、声を落とす。
「名前は知ってますけど、直接話したことなんてほとんどないです」
匠は頷いた。
「一ノ瀬ユナは?」
「……名前は見たことあります」
「榊原梓」
男は首を傾げた。
「すみません。分からないです」
嘘をついている様子はない。
匠はメモへ書き込む。
《部署間接続・限定》
《上流開発者と運用側の直接接触少》
男の胸元。
社員証。
《日下部奏一》
この時、二人はまだ
後に同じ事件を追うことになるとは知らない。
日下部が聞いた。
「雲賀さん、これって新サービスの記事なんですか?」
「最初はそのつもりだった」
「最初は?」
匠は少し笑った。
「調べ始めると、別のものが出てきた」
日下部の表情が変わる。
「何がです」
「人だよ」
「人?」
「この会社から、何人か消えてる」
日下部は冗談だと思わなかった。
匠の顔が
そういう話をする顔ではなかったからだ。
「退職者じゃなくて?」
「それを調べてる」
匠はレコーダーを止めた。
「悪いな。今日はここまでにする」
「何かあったら連絡しますか?」
「いや」
匠は立ち上がる。
「君は知らない方がいいこともある」
日下部が眉を寄せる。
「取材する側がそれ言います?」
「記者だから言うんだ」
匠は軽く手を上げ。
部屋を出た。
◆ ◆ ◆
【クロスゲートテクノロジーズ/来客用通路】
エレベーターへ向かう途中
匠は足を止めた。
開発フロアへ続く通路。
透明な仕切りの向こうを
白峰律が歩いている。
大学時代から知っている
研究仲間。
友人。
そして、恋人を失ってから
少しずつ遠くなった男。
白峰も匠に気づいた。
二人の間には
透明な扉が一枚。
白峰が開ける。
「久しぶりだな」
「そうでもないだろ」
匠は答えた。
「この前も取材で来た」
「私には会わなかった」
「避けられてたからな」
白峰の表情は変わらない。
「忙しかっただけだ」
「そうか」
匠は
少しの間、白峰を見る。
「社員が辞めたらしいな」
白峰の目が僅かに動いた。
「誰の話だ」
「同期開発の女性」
「この会社では珍しい話じゃない」
「机に私物を残したままでも?」
沈黙。
匠は続ける。
「入館証の返却記録がない」
「社用端末の返却もない」
「退職届の原本管理番号も見つからない」
白峰の目が細くなる。
「どこまで調べた」
「今の質問で、それなりに当たってるって分かった」
匠が言うと。
白峰は小さく息を吐いた。
「昔から変わらないな」
「お前も」
「何が」
「嘘をつく時、説明を増やさない」
白峰は少しだけ笑った。
「それで?」
「本人に会わせろ」
「できない」
即答だった。
匠の顔から笑みが消える。
「なぜ」
「本人が望んでいない」
「どこにいる」
「答える必要はない」
「生きてるのか」
今度は
白峰が答えるまで僅かに時間がかかった。
匠はそれを見逃さなかった。
「律」
声が変わる。
大学時代。
研究室で呼んでいたのと同じ呼び方。
「何をやった」
白峰の目が
一瞬だけ冷たくなる。
「帰れ、匠」
「答えろ」
「君には関係ない」
「人が一人消えてる」
「消えていない」
その言葉が廊下に落ちた。
匠が止まる。
白峰自身も
言った直後に気づいた。
退職した人間について
普通ならそんな言い方はしない。
匠は低く聞く。
「どこにいる」
白峰は。
もう答えなかった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・喫茶店/夜】
「やっぱり、おかしいな」
柏木陽介が資料を見ながら言った。
匠の向かい
テーブルいっぱいに紙が広げられている。
クロスゲート社の公開情報。
社員数の変化。
退職者記録。
開発スケジュール。
取材で得た証言。
そして一人分だけ
不自然に欠けた記録。
柏木が一枚を指した。
「この人、退職したことになってるのに、その翌週の会議予約が残ってる」
「ああ」
「さらに二週間後の開発作業にも担当者として入ってる」
「急に辞めたなら予定を消し忘れたとも考えられる」
「一つならな」
柏木は別の紙を置く。
「社内システムだけじゃない」
外部業者への入館申請。
共同開発先との予定。
機材の貸与。
複数の場所にその人物の痕跡が残っている。
「人事記録だけ先に書き換えた感じだ」
匠が頷く。
「本人を消してから、後追いで周囲を消してる」
柏木は眼鏡を押し上げた。
「それも雑に」
「急いだんだろう」
匠は
昼間の白峰を思い出す。
――消えていない。
「あいつ、知ってる」
「白峰か」
「ああ」
柏木は黙る。
匠と白峰の関係について
ある程度知っている。
だから簡単には口を挟まない。
匠が続けた。
「もっと嫌なのがある」
ログを一枚出す。
完全な復元ではない。
断片。
《SYNC》
《SUBJECT》
《BODY RESPONSE》
《BOUNDARY――》
柏木の表情が変わる。
「被験者?」
「多分な」
「人間を使ってる?」
「まだ断定はできない」
「いつの記録だ」
匠が日付を指す。
柏木は
女性社員が消えた時期と照合した。
近い。
あまりにも。
「偶然と思うか」
匠が聞く。
柏木は首を振った。
「思わない」
「だよな」
短い沈黙。
柏木が尋ねる。
「警察へ出すか」
「まだ弱い」
「じゃあ会社へ?」
「もっと無理だ」
匠は資料をまとめる。
「中にいる」
「誰が」
「記録を消せる人間が」
柏木は黙った。
匠が続ける。
「律一人なのか、それ以外がいるのかは分からない」
「でも」
一度。
言葉を切る。
「こいつらは、人間の意識を使って何か試してる」
◆ ◆ ◆
【現実世界・秘密研究区画】
白峰は
榊原梓のカプセルの前に立っていた。
《BODY STATUS・STABLE》
数値そのものは昨日と変わらない。
生命維持。
正常。
意識反応。
異世界側。
帰還。
未解決。
白峰は匠との会話を何度も思い返していた。
近づいている。
思っていた以上に。
速い。
社員記録。
入退館。
開発予定。
外部業者。
一つの会社の中だけなら消せる。
だが
人間が生きて残した記録は会社の中だけには存在しない。
それは白峰自身が誰より知っている。
恋人を失った時
世界中に残る記録を集めたのだから。
写真。
文章。
声。
他人の記憶。
消したつもりでもどこかに残る。
白峰は
皮肉だと思った。
自分が「人は死んでも情報を残す」と信じたのと同じ理由で
榊原梓を完全には消せない。
端末が鳴る。
異世界側。
白峰が接続する。
カシウスの声が届いた。
『何だ』
「匠が近づいている」
『雲賀匠』
「ああ」
『殺すか?』
白峰の表情が変わった。
「駄目だ」
迷いのない返答。
カシウスは少し黙った。
『友人だからか』
「それだけじゃない」
匠が持つ技術。
補助層。
現実側の記録。
何より白峰自身が
まだ匠を完全な敵だとは考えられない。
「匠は殺さない」
『なら記録を変える』
「それも簡単じゃない」
『理由は』
「柏木がいる」
白峰が答える。
「二人で情報を分けている可能性がある」
一つを消しても、もう一方に残る。
紙。
端末。
人間の記憶。
複数の場所。
カシウスが言う。
『では、問題は女の身体か』
白峰はカプセルを見る。
梓。
異世界側には意識。
現実側には身体。
匠がここまで来ればすべてが露見する。
実験。
意識転送。
戻せないこと。
そして。
榊原本人に重大な危険を伝えていなかったことまで。
『移せ』
カシウスが言った。
「どこへ」
『こちらで預かる』
白峰は眉を寄せる。
「異世界へ身体を送る技術はない」
『今はな』
その言葉に
白峰が黙った。
カシウスは続ける。
『意識だけは送れた』
『次は身体も送る』
「実験段階だ」
『だから試す』
「誰で」
短い沈黙。
そしてカシウスは
当たり前のことを言うように答えた。
『私だ』
白峰の目が細くなる。
「何?」
『私自身を現実へ送る』
梓の時とは違う。
意識だけではない。
身体。
意識。
名前。
記憶。
すべてを一つのまま。
世界の境界を越える。
白峰は
カプセルの中の梓を見る。
もし成功すれば
カシウスが現実側へ来られる。
そして梓の身体を
匠の手が届かない場所へ移せるかもしれない。
だが、それは同時に
今まで開けたことのない
さらに大きな門を開くことになる。
白峰が低く言う。
「失敗すれば、今度はお前が戻れなくなる」
カシウスの声は少しも揺れなかった。
『なら成功させろ』
白峰は答えない。
『お前は彼女を戻したい』
『私は、世界を修正したい』
『どちらにも必要な実験だ』
その言葉に白峰は目を閉じた。
始まりはーー
一人を戻すためだった。
事故で失った
たった一人を。
それが、いつの間にか。
異世界へ届き。
人間の意識を送り。
戻せなくなった女性を隠し。
今。
別世界の人間を
身体ごと現実へ呼ぼうとしている。
それでも
白峰は止まらなかった。
止まれば。
榊原梓を、本当に失う。
そう思っていた。
「条件を洗う」
白峰が言った。
「オルガに座標解析をさせろ」
『分かった』
「ヴァルドには、身体を通せる幅まで境界を安定させてもらう」
『ああ』
「現実側の受け入れ座標は、私が作る」
通信の向こう
カシウスが静かに答えた。
『それでいい』
接続が切れる。
白峰はカプセルへ手を置いた。
「もう少しです」
中の梓には聞こえない。
それでも
白峰は言った。
「必ず戻します」
その時。
秘密研究区画のさらに外。
通常のネットワークでは切り離されているはずの監視端末に。
一瞬だけ
アクセス記録が残った。
発信元。
不明。
閲覧時間。
二秒以下。
開かれた項目。
《生命維持設備・消費電力》
《秘密区画・継続稼働》
そして。
その記録を。
数時間後。
雲賀匠が見つけることになる。
コメント
1件
第301話、読んだわ。匠と白峰の会話が静かで重くてすごく良かった。「消えていない」って言葉、あれ匠には一発でバレるやつだよな……。互いをよく知ってるからこその読み合いがスリリングだった。最後の監視端末の痕跡、匠が見つけるんだろうな。カシウスが自分の身体ごと現実へ来ようとしてるのも気になる。梓を戻すための道がどんどん歪んでく感じがたまらん。続きが気になる🔥