【8年後】
「優お姉さん、あ、違った。香坂店長。今日からよろしくお願いします」
そう言って頭を下げたのは、小学生の頃、いつも高木書店に通ってくれていた鳴海ちゃん。
あのとき、小学5年生だった彼女も、今では大学1年生。保育士を目指して勉強しているそうだ。
そして今日から、うちの本屋でアルバイトすることになっていた。
と言っても、ここはかつての高木書店ではない。
再開発事業は滞りなく進み、当初の予定通り、3年前の5月に着工し、来月早々に、新しい商業施設が完成する運びとなっていた。
そして、やはり商業施設に大型書店が入ることになり、高木書店は80年余りの歴史の幕を閉じることとなった。
結局、祖母は権利を争うことをやめ、閉店する道を選んだ。
解体工事前日。
祖母とわたし、それに玲伊さんと兄の4人で集まり、店の前で記念撮影をして別れを惜しんだ。
「明るく別れを告げる。意地でも涙なんか流さない」と言っていた祖母の目も潤んでゆく。
でもすぐ「鬼の目にも涙だな」と言った兄の尻を思いきりひっぱたいていたのはいかにも祖母らしかったけれど。
わたしの目にも涙が浮かんで頬を伝ってゆく。
それに気づいた玲伊さんが、わたしの肩に腕を回し、優しく包んでくれた。
祖母はパンと手を叩いた。
「さ、湿っぽいのは今日までだ。あたしは新天地で第二の青春を謳歌するからね」
その言葉通り、土地を売った資金で熱海にマンションを買い、現在は春は梅見、夏は花火見物と、悠々自適に暮らしている。
でも高木書店は完全に消えてしまったわけではない。
それから約1年後、玲伊さんは〈リインカネーション〉の1階を改装し、絵本と児童書専門店とサロンの顧客専用である託児施設を兼ねた店舗〈Tall Tree Books〉を開業した。
そこが今、わたしたちがいる店だ。
店舗の|什器《じゅうき》には、高木書店の看板や書棚を修繕して再利用している。
だから、見た目はとってもおしゃれになったけれど、この店には高木書店の魂のようなものが受け継がれている、とわたしはそう思っている。
「鳴海ちゃん、こちらこそよろしく。じゃあ、そこのエプロンをつけてくれる? 仕事については少しずつ説明していくね。まず、そこに出ているおもちゃを片付けてくれるかな」
「はい。店長は座っていてくださいね。わからないことがあれば聞きますから」
「うん、ありがとう。でも大丈夫だよ。体調が悪いときはちゃんと言うからね」
成長した今でも、鳴海ちゃんはこまやかな気配りのできる優しい心の持ち主。
8年前、小さい子たちの世話をしてくれていたときから、まったく変わっていない。気心が知れた彼女にバイトに来てもらえることになって、本当に良かったと思っている。
託児のための保育士は3名雇っていたけれど、書店は今まで、わたしひとりで切り盛りしていた。
けれど、そうも言っていられなくなってきた。赤ちゃんができたからだ。
お腹に命が宿ってそろそろ7カ月。
結婚8年目にして、ようやく授かった待望の第一子だった。
「優お姉さん、お腹に触ってもいい?」
鳴海ちゃんがそっと手を伸ばす。
「いいよ。あ、また蹴ってる。鳴海ちゃんにご挨拶してるのかな」
「こんにちは。早く生まれてきてね。お姉ちゃんが、絵本をたくさん読んであげるからね。あなたのママがしてくれたみたいに」
そう言って、鳴海ちゃんはわたしににこやかに微笑みかけた。
「わたし、優お姉さんに絵本を読んでもらうのが本当に大好きだったの。自分もお姉さんみたいになりたいと思って、保育士を目指すことに決めたんだ」
「鳴海ちゃん……」
思いがけない言葉だった。
あの頃、もがき苦しんでいたわたしを救ってくれたのは、彼女たちの方だったのに。
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