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一応最終話。
中原中也が、この「白い檻」の鍵を初めて受け取ったのがいつのことだったか。もはや、それを正確に記せる記録はこの世のどこにも存在しない。
彼がこの職業を選択した理由は、極めて単純かつ切実なものだった。かつて、荒ぶる力のみを頼りに生きていた少年だった彼は、ある時、組織から「究極の停滞」という名の報酬を提示されたのである。それは、人間としての老いを放棄し、肉体が最も輝き、精神が最も研ぎ澄まされる十五歳から三十歳までの十五年間を、永遠に繰り返すという契約だった。
手術は、彼の魂を肉体という檻に繋ぎ止めるための、おぞましい儀式であった。脳に直接刻み込まれた術式と、全身の細胞を書き換える魔薬。それ以来、中也の時間は円環を描き始め、直線的に進むことを拒絶した。
「……また、始まったか」
鏡の中に映る自分は、今まさに三十歳の誕生日を迎えようとしている成熟した男の姿である。だが、数時間後には、組織の医療班によって再び十五歳の少年の身体へと巻き戻される。記憶だけを鮮明に残したまま、瑞々しい肌と、制御しきれぬほどの膂力を備えた、あの頃の自分へ。
この十五年という周期の中で、彼は数え切れないほどの太宰を育て、潰してきた。 彼がこの仕事に就いた原因は、その圧倒的な「力」の使い道として、産卵個体の管理という、常人では精神が崩壊するほどに残酷な任務が最も適していると判断されたからだ。
人を愛することを辞め、命を数字として捉え、絶叫を子守唄として聞く。 そんな芸当ができるのは、もはや人間ではない。中也は、自分が「化け物」へと成り果てたことを自覚していた。老いることもできず、死ぬことも許されず、ただひたすらに太宰という名の贄を世話し、その肉を喰らい続ける捕食者。
「……あは、……あはは……。……中也、……大好き……」
昨日、彼がその血肉を胃の腑に収めた先代の太宰の、最期の笑みが脳裏を掠める。 彼女たちが向ける歪な愛情も、自分への盲目的な信頼も、中也にとっては「家畜の鳴き声」と大差ない。それでも、彼はその声を何百年も聞き続けてきた。
手術室の冷たい寝台の上で、中也は意識を失う直前、自嘲気味に口角を上げた。 (……俺は、……いつまでこれを続けるんだろうな) 答えなど、初めから用意されていない。彼もまた、組織という巨大な機構に飼育される、一頭の孤独な獣に過ぎないのだから。
目覚めると、視界は少しだけ低くなっていた。 手首を回せば、若さ特有の鋭い感覚が全身を駆け巡る。十五歳の身体に戻った中也は、新しい黒い帽子を被り、慣れた足取りで地下深くの孵化室へと向かった。
そこには、巨大な真珠色の卵が一つ、淡い光を放ちながら鎮座していた。 パキリ。 静寂を切り裂く、あの聞き慣れた音が響く。
殻の裂け目から、粘液に塗れた白く細い指が溢れ出し、温かな熱と共に、一人の少女が這い出してきた。
「……あ、……あ、……ぁ……」
生まれたばかりの、一点の汚れもない新しい太宰。 彼女は、まだ焦点の定まらない瞳を彷徨わせ、目の前に立つ十五歳の少年に向かって、弱々しく手を伸ばした。
「……ちゅう、……や……?」
初めて見るはずのその名前を、彼女の魂が、あるいは刻み込まれた遺伝子が、甘やかに紡ぎ出す。中也は無言で彼女の元へ歩み寄り、その震える小さな身体を、慈しみと殺意が同居する複雑な眼差しで見つめた。
「あぁ。……俺だ、太宰」
中也はその細い背中に手を回し、タオルで優しく、しかし逃げ場を塞ぐように強く抱き寄せた。 彼女はまた、中也を神と仰ぎ、琥珀色の液を胎内に受け入れ、命懸けで卵を産み、そして最後には、彼の血肉となって消えていくだろう。
中也は、腕の中で「きゅぅ」と愛らしく鳴く新しい個体の温もりを感じながら、冷徹な管理官の顔へと戻っていった。
「さあ、始めようぜ。……お前の、新しい地獄を」
白い檻の中に、新しい生命の産声が響き渡る。 終わりのない円環の、それがまた、最初の第一歩であった。
(完)