テラーノベル
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「ずっと、私のこと、見てくれてたよね? 真田くんのそういう優しいところが……好きです」
目の前で、彼女が浴衣の袖を握りしめている。頭上では花火が続けざまに弾け、境内はお囃子と歓声で埋め尽くされていた。
本来なら、心臓が飛び出るほど嬉しいはずの瞬間だ。僕はずっと、この言葉を待ち望んでいた。
なのに、心はぴくりとも動かなかった。
花火の光に照らされて涙ぐむこの少女が、僕にとって誰なのか。なぜ彼女に惹かれていたのか。もう何ひとつ思い出せない。
僕を僕としてきた記憶は、とうの昔に売り払ってしまった。他人の秘密を知るための、ちっぽけな代償として。
始まりは、数週間前の夏祭りの夜だった。
当時の僕は、ただの高校二年生。クラスの中心で笑い合う連中を遠くに眺めながら、机の木目を睨みつけるだけの毎日を送っていた。特別な才能もなければ、誇れる出来事もない。教室にいても、話しかけてくる人間はいなかった。
その夜も、祭りの喧騒に馴染めず、人混みから逃げるように薄暗い裏路地へ入った。提灯の明かりも届かないその奥に、奇妙な屋台が出ていた。
「一回やるなら、きみの『価値のない、退屈な記憶』を貰うよ」
屋台の奥から、男が声をかけてきた。黒い浴衣を着て、顔の半分は影に隠れている。袖から伸びる指だけが異様に細長く、外灯の下で揺れていた。
男の前には水槽が置かれていたが、金魚は一匹もいない。中身は、ヘドロのように濁った黒い液体だけだった。
「……何だって?」
「一回、すくいをやるかい? 代金はお金じゃない。きみの頭の中にある、どうでもいい退屈な記憶をひとつくれればいい」
男は続けた。
「この水の底には、きみが本当に欲しがっているものが沈んでる。他人と繋がるための、小さな『鍵』さ」
怪しすぎる。いつもならすぐに逃げ出す場面だ。
でも、そのとき僕を支配していたのは、教室での息が詰まるような孤独だった。明日もまた、誰とも口を利かずに一日が終わる。そこから抜け出せるなら何でもいい、と思ってしまった。
「わかった。中学のときの、死ぬほど退屈だった英語の授業をあげるよ。アルファベットの書き取りをさせられただけの一時間だ」
「毎度」
男が呟いた瞬間、頭の奥がふっと軽くなった。何かを引き抜かれたような感覚。
手渡された丸い紙のポイを黒い水に浸すと、紙はすぐに粘り気のある膜に変わった。すくい上げたのは、人間の耳の形をした、手のひらほどの赤黒い肉塊だった。
声を上げそうになったが、肉塊はポイの上で蠢き、僕の脳内に直接語りかけてきた。
『ねえ、知ってる? いつもツンツンしてる隣の席の黒川さん、本当は新しく買った靴で靴擦れがひどくて、今にも泣きそうなのを我慢してるんだよ』
肉塊は水槽の中に溶けて消えた。気づくと、僕の右手には真新しい絆創膏が握られていた。
翌朝の教室。隣の席の黒川さんは、いつも通り不機嫌そうにスマートフォンを睨んでいた。
でも今の僕にはわかる。彼女が時折眉をひそめ、右の踵を庇うような姿勢をとっているのが。
深呼吸をして、絆創膏をそっと彼女の机の端に置いた。
「あ、これ。余ってたから。靴、痛そうだと思って……」
黒川さんは目を丸くして顔を上げた。いつもは挨拶すら交わさない僕からの言葉に驚いたようだったが、すぐに頬を赤くして絆創膏を握りしめた。
「……あ、ありがとう。助かる」
その日を境に、黒川さんは毎朝「おはよう」と声をかけてくれるようになった。灰色だった日常に、少しずつ色がつき始めた気がした。
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