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……最早、部屋だな、とのどかは貴弘の部屋についているルーフバルコニーに立ち、思っていた。
白いソファにラタンチェアに大きな観葉植物。
足許はウッドデッキ。
のどかは端まで行き、街を見下ろしてみた。
「征服者になった気がします」
と呟きながら。
街の灯りが近い。
此処からなら、書店でもレストランでも、何処にでも簡単に行けるではないか。
いや、うちからでも行けるが。
『歩いても行ける』のと、『車を出すより歩いていく方が早い』では雲泥の差がある気がする。
「自分の家の中に、本屋さんやレストランやカフェがある感じですね。
こんなところに住む人たちが、ちょっと外れた住宅街にある、その辺に生えているものを揚げたり煮たりして出してるだけのカフェに来たりするでしょうか」
いや、それ以外の場所からも来てくれるだろうが。
この辺りがやはり、一番人口が多そうなので、不安になる。
「どうした。
征服者になってみたり、最初からわかっていたことに今更気づいてみたり」
ほら、と後ろから来た貴弘がグラスを差し出してくる。
高そうなグラスだな、と思いながら、のどかは薄いそのワイングラスを受け取った。
貴弘は横に並んで街を見下ろし、
「でも、俺は悪くないと思ってるんだ、雑草カフェ」
と言い出す。
えっ? とのどかは振り向いた。
「あそこ、オフィス街からも歩いていけないこともないだろ。
そんなところに、懐かしいような古民家があって、常日頃から呑気なお前が、庭先で雑草とって、雑炊作ってくれて。
薬局で買ってきたドクダミ茶を淹れてくれるんだ。
お昼休みとかに、そういうところに行くのって、なんかちょっとホッとするじゃないか」
いや、店始めたら、さすがに呑気にはしてないと思いますけどね……。
そして、ドクダミはちゃんと家のを干して使いますよ。
この間はただ、ちょっとめんどくさかったからですよ、ええ。
まあ、この先もめんどくさくならないという保証はないが、と思いながら、のどかはワインを一口呑んだ。
うん。
渋すぎず、甘すぎず、すっきり呑みやすい、と思いながら、訊いてみた。
「反対なんじゃなかったんですか?
私が雑草カフェをやるの」
「まあ、あんまり、やって欲しくない気はしてるが、今も」
貴弘はバルコニーの柵に背を預け、
「お前が楽しそうだから。
協力するよ」
と微笑みかけてくる。
なんだか無性に申し訳ない気持ちになった。
「わ、私など、戸籍だけの妻で、その辺の通りすがりの人と変わりないのに。
そんな風に言っていただくなんて申し訳ないです」
「いや、さすがに通りすがりの人は妻にしないだろ」
と言ったあとで、貴弘は手にしていたワインを一気に呑み、こちらを見て言ってきた。
「……通りすがりの人じゃなくなればいいんじゃないか?」
えっ? と言ったのどかの両肩に手を置いた貴弘の唇が微かにのどかの唇に触れる。
「駄目ですーっ」
「殺す気かーっ」
反射的に貴弘を突き飛ばしていたのどかは、妻になる前に、殺人者になるところだった。
ルーフバルコニーの柵はもちろん、充分な高さがあるのだが、貴弘の背が高いこともあり、柵の側で派手に突いたら、もちろん、落ちそうになる。
貴弘は再び殺されかけないよう、柵をつかむと、のどかに言ってきた。
「のどか。
そんなに俺が嫌か。
弾みとはいえ、お前もいっしょに、ぐへへへへと笑いながら、婚姻届を出しに行ったのに」
このお洒落な空間で、超イケメンな旦那様に迫られている今このときに、ぐへへへへは聞きたくなかったな、と自分がやったことなのにのどかは思う。
のどかがなにをすると思っているのか、まだ柵をつかんだまま、貴弘は、
「……俺が嫌いだと言うのなら」
と言い出した。
嫌いなら、出て行けって言うよなー、そりゃ、とのどかは大きな窓ガラスの向こうの、モデルルームそのままか、みたいな部屋を少し名残り惜しく見ながら思っていたが。
「此処から出て行かせないぞ」
と貴弘は言った。
は? とのどかは貴弘を見る。
貴弘は、普段の仕事のときの落ち着いた口調とはまったく違う、聞き取れないくらいの早口で言ってきた。
「俺が嫌いだと言う奴をこのまま返したら、戻ってこないかもしれないじゃないか。
せっかく結婚したんだ。
しばらく、此処で夫婦のように暮らしてみようじゃないか。
それで駄目なら、出て行けばいい」
いつも部下に言ってるのにな。
プレゼンのときは、大きな声でハッキリと。
爺さん相手でもちゃんと聞き取れるように。
困った質問をされても、余裕の微笑みを浮かべて、その間に考えろと。
この人、自分のプレゼンは下手なようだ……。
いや、私もなんだが、と思いながら笑ったのどかは、貴弘に言った。
「ちょっとだけ、貴方に親近感が湧いてきました」
「今か」
「はい、今、初めてです」
ふふふ、と笑って、のどかは言う。
なにか文句を言われるかと思ったが。
俯き、……そうか、と言った貴弘は少し照れて見えた。
可愛いではないですかっ、とのどかは衝撃を受ける。
昔、職場で会ってたときは、小生意気そうな若造だと……、失礼、思っていたのに。
いつもなんだか難しいような顔をして、ピリピリしてるし。
それが実生活では、こんな人だったとはっ。
知ってビックリというか。
知りたくなかったと言うか。
なんだか可愛いではないですかっ、とのどかはまた、繰り返し思ってしまう。
今まで、形ばかりの夫婦でありながらも、一応、頻繁に顔を合わせてはいたのだが。
貴弘には、いつも何処か構えたところがあった。
でも、此処が自宅なせいか、今日の貴弘は少し違う、とのどかは感じていた。
知りたくなかったな、とのどかは、また思う。
だって、より緊張してしまうではないですか。
そんな感じに二人で居る間、泰親がまったく姿を現さなかったので、気を利かせているのだろうかと思ったが、違った。
「のどか、見ろっ。
此処の風呂っ、すごいぞっ」
という叫び声が部屋の中から聞こえてくる。
……単に、家中を見て回っていたようだ。
「猫耳、バルコニーに小屋を作ってやるぞ」
と貴弘は中に向かって叫ぶ。
「私は犬じゃないんだぞっ」
と洗面所らしき場所の戸を開け、泰親が顔を覗かせる。
「犬でも猫でもウサギでもいいから、今、邪魔するな~っ」
と貴弘は泰親に叫び返していた。