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「……頑張っているかね」
と着物姿で腕組みした頼久に有生は言われた。
「え?
ああ、夏菜ですか?
はい。
慣れない家事をやったり頑張ってますよ」
「いや、そうではない……」
と言いにくそうに言ったあとで、ずいっ、と頼久は正座したまま前に出てくる。
「まさか一日二人きりでなにもしなかったわけではないだろう」
「……するなとおっしゃったではないですか」
と言って、
「莫迦正直な男だな」
と言われた。
「何処の祖父が、さあ、手をつけなさいと言って、孫娘を送り出すと思うんだ」
「じゃあ、出してもよろしかったんですか?」
そう問うと、頼久は渋い顔をする。
「まあ、嫁入り前にいろいろあるのは好ましくないのだが。
実は夏菜の叔母をちょっと箱入りに育てすぎて、新婚初夜に迫りくる夫を投げ飛ばし、入院させて、相手の家から破談にしてくれと言われる騒ぎがあったのだ」
……お宅の娘さん、いろいろありますね、とこの間聞いた話も思い出しながら、有生は思う。
「それからしばらく、男に近寄られるのすら駄目になっていたんだが。
鍛えて戻ってきた夫に力ずくで押さえ込まれて一緒になった」
「いいんですか? それ」
「少々鍛えたからといって、いきなりあの娘に勝てるわけはないだろう。
娘が押さえ込まれてもよいと思ったから、押さえ込めたんだろう。
日々、せっせと戦いを挑んでくる男の情にほだされたんだろうよ」
どんな格闘技的な愛なんですか……。
そして、お宅の娘さん、どんだけ強いんですか。
まあ、夏菜の叔母だし、かなりの美女なのだろうが。
その旦那さん、根性あるなと思っていた。
そこで、頼久は溜息をついて言う。
「そんなことがあったから、夏菜を強くするつもりはなかったんだが。
此処にいると、どうしてもな。
お前なら強そうだから、夏菜が恥ずかしがって抵抗してきてもどうにかなるかと思ったんだが。
お前、今まで夏菜となにかしたことはあるか」
「あ……はあまあ、少しなら」
「ほう、なにを?」
なにをって、祖父に話すことだろうかなと思いながら、
「……その、キスを少し」
と妙な答え方をしてしまう。
まるで、茶道を少したしなんでいます、というのと変わらぬ感じで。
「ほうっ。
あの夏菜にっ。
じゃあ、大丈夫かもしれんな」
「いや、でもあれは、ちょっと隙をついてしただけなので」
「ほうっ。
隙をついてキスをっ!」
そう改めて言われると、ものすごい卑怯者のようだな……と思いながら、
「いやでもそれは、はじめの頃でしたから。
なんとも思ってなかったので、警戒されることなく、サッとできたのかも」
とうっかりもらして、側に控えていた加藤に、
いや、なんとも思ってないのにするのはまずいと思いますよ……という顔をされてしまった。
話を総合すると、あれか。
俺は夏菜に積極的に手を出していいと言うことか。
キスして褒められたしな。
すると、結婚前になにかあっても、どんどん褒められるということかっ、
と有生が都合よく拡大解釈する横で、夏菜が微笑む。
「美味しかったですね~。
銀次さんちの大根」
加藤が車を出してくれると言ったのを断り、なんとなく二人で歩いて帰っていた。
いや、最初はちょっと歩いてタクシーか電車で帰ろうと思っていたのだが。
夜の庭で銀次の愚痴を聞いているうちに酒が出てきて、二人ともちょっぴりほろ酔いな感じになっていた。
そのせいか、冷たい冬の夜風が頬に心地よく、二人ともどんどん歩いてしまっていたのだ。
見知らぬ住宅街を機嫌よく歩いている夏菜を見ながら、ほろ酔いな有生は思う。
夏菜め。
何故、お前はそんなに、ほにょほにょして、緊張感がなく、可愛らしいのだ。
駄目だろう、そんなことではっ。
何処に俺のような男が居るかわからないのにっ。
よく考えたら、強すぎる夏菜を彼女の同意なしにどうにかするのは、頼久が言う通り難しかったのだが、つい、そんな心配をしてしまう。
そのとき、夏菜が空を見上げ、
「月が綺麗ですね~」
と言ってきた。
なるほど。
夏菜しか見えていなかったが、冬の澄んだ空には、まんまるな白い月が浮いていて、冴え冴えとした光を放っている。
……月が綺麗ですねというのは、貴方が好きですという意味だという俗説があるが。
俺は今、告白されたのだろうか、と更に拡大解釈をする。
それで、
「……そうだな。
このまま何処までも歩いていきたい気分だな」
とこのときは調子良く言ったのだが。
さすがに車でもかなりある距離を往復したら、マンションに着いたときには、どっと疲れていた。
駄目だ。
それでなくとも、夏菜との力の差はほぼないというのに。
これでは押し倒せないっ。
いやいや、夏菜も疲れているはずっ、と思う自分の葛藤など知らない夏菜は鼻歌まじりにエレベーターのボタンを押していた。
すると、すぐに扉が開き、すっと整った顔の若い男が降りてこようとした。
が、夏菜を見て止まる。
夏菜も一瞬、理解ができないように、え……という顔をしていた。
先に叫んだのは男の方だった。
「なっ、夏菜っ」
「お兄様っ。
なんで此処に居るんですかっ。
香港かマカオに高飛びしたんじゃなかったんですかっ?」
「……いや、その二つの選択肢しかないのはお前だろ」
と有生は言ったが。
夏菜がカンフー映画で広東語を覚えたのは、そもそもこの兄を含む道場の人間の影響らしいから。
彼らもそうなのかもしれないが。
「夏菜、お前、こんなところでなにしてるんだ?
うちの部屋は、此処はひとつしかないよな?」
と上を見上げて兄、耕史郎は呟く。
ああ、と夏菜は手を打っていた。
「思い出しました。
此処、うちの所有している部屋があるんでした。
それで見たことあったんですよ、ロビーとか」
「……忘れるな」
と言ったが、どうも、子どもの頃にチラと覗いたことがあるだけだったようだ。
「誰だ、この男」
と耕史郎がこちらをチラと見て、妹に問う。
「あー、今、私が勤めている会社の御坂有生社長です」
と、ちょっと説明に困りながら、夏菜が言うと、
「御坂っ?」
とはっとした耕史郎がこちらを睨んだ。
「そいつ、お前を殺そうとしている御坂の七代目じゃないかっ」
「いや、殺されるところだったのはお兄様ですよ。
お兄様が逃亡したので、私に振り替えられただけなんですけど……」
「待て。
俺は誰も祟り殺す予定はなかったからな」
決定事項のように言うな、お前ら、
と反論する有生を指差しながら、耕史郎が夏菜を責め出した。
「お前、なんでこんな男と居るんだっ!
この男っ、ご先祖様の仇だろうがっ」
「いや、だからそれ、全部、お兄様のせいなんですってばーっ」
と夏菜は叫び、有生は、
「兄でもなんでもいいから、今っ、現れるなーっ」
と叫んでいた。
いや、どのみち、今夜、夏菜をどうこうできる体力はもう残ってはいなかったのだが。
そのあと、夏菜たちは、有生の部屋より三つ下のフロアにある兄の部屋に招かれていた。
ナチュラルテイストな有生の部屋とは違い、アーバンな感じだ。
夏菜はところどころがコンクリート打ちっぱなしになっている広いリビングを見回しながら思っていた。
祟りを恐れて、インドの山奥にでも籠っているか、香港で怪しい占い師のところにでもいるのかと思っていたのに。
こんなところで、こんな小洒落た生活してやがりましたか、と。
デザイナーズマンションなので、各部屋、構造に特徴があって、それぞれ違うので、中に入っても同じマンションだとは気づかなかったようだ。
もっとも、耕史郎は移り住んだあとで、かなり手を入れて自分好みに変えていたようなのだが。
大きな窓だけは有生の部屋と同じだ。
カーテンが閉められていないその窓からバルコニーの向こうの夜景を見ながら夏菜は言った。
「加藤さんはお兄様が此処に潜んでいるのをご存知だったのですね」
だから、有生が此処の住所を渡したとき、えっ? という顔をしたのだ。
耕史郎は誤魔化すように、
「まあ、その話はいいじゃないか」
と言ったあとで、
「呑むか?」
と棚から黒い酒のボトルを出してきた。
「いりません」
「もう呑める年になったんだろう?」
「はい。
お兄様が逃亡されている間に」
と夏菜が嫌味をかますと、耕史郎は有生だけにグラスを渡す。
「呑め」
と言われても、有生はグラスを見たまま黙っていた。
耕史郎は渋い顔をし、有生に言う。
「……なにも盛らないぞ。
お前、俺を祟り殺すわけじゃないんだろうが。
っていうか、俺が逃げたのは、祟り殺されると思ったからじゃなくて、道場とか会社とか継ぐのがめんどくさかったからだからな」
「本当ですか? お兄様」
とまだ警戒するように立ったままの夏菜が身を乗り出し問うと、耕史郎は黙った。
やはり、怖いのもあったんだな……と思う。
「いや、別にお前に押し付けようと思ってたわけじゃないぞ。
本当だ。
だって、お前はどうせ嫁にいくだろうと思って……
って、そうだ。
なんで、こんな男といるんだっ」
と話がようやくそこに戻った。
耕史郎は、赤茶色の革張りのソファに腰掛けた有生を上から下まで見、
「まあ、いい男だから、箱入り娘のお前がフラッといくのもわからなくもないが」
と言い出す。
「わ、私がフラッといって、こうなってるわけじゃありませんっ」
と思わず言い返すと、有生が、
「待て。
それだと俺がフラッといって、こうなったみたいじゃないか」
と言ってくる。
「フラッといってないのか?」
と酒を有生のグラスに注ぎながら耕史郎が訊く。
「……フラッととか言うと、半端な感じなので。
どっちかって言うと、グイッと」
「いや、ぽいっとされましたよ、最初」
「それはお前がペットボトルで俺を撲殺しようと突っ込んで来たからだろうがっ」
と言い合っていると、耕史郎は一人がけの椅子に腰掛けながら、
「まあ、お前たちが仲がいいのはよくわかった」
と不本意なことを言う。
「それにしても、よくじいさんが結婚前に二人で住むとか許したな」
「もともとおじい様が勧められたんです、このお話。
御坂の家と一緒になったら、祟りもなくなると言って」
なるほどな、と呟きながら、耕史郎はおのれのグラスの中を見つめて言った。
「ってことは、俺が家を出てよかったということだな。
俺とこいつじゃ、そういう決着のつけ方はできなかっただろうから。
最初は仇に女にされるとかどうなんだと思ったが、まあよかったじゃないか」
……いや、なにもされてませんからね、まだ、と思いながら、夏菜は訊いた。
「ところで、道場を嫌がって逃げたお兄様は今、一体、なにをされてるんですか?」
兄はソファと揃いの素敵な革張りの椅子で長い脚を組むと、その美しい顔で、うむ、と頷き、言ってきた。
「まったく売れない作家をやっている」
「さっさと帰ったらどうですか、お兄様……」