「結葉、まさか僕に隠れて彼とうちで密会してたわけじゃないよね?」
あの男からの話を信じるならば、想と結葉が水道管のことで話をしていたのは一階の共有ロビーで、ここに二人でいたのは結葉が途中で体調を崩したから、ということだった。
それを鵜呑みにしてもいいのか?という意味を込めて問いかけたら、結葉が消え入りそうな声で「密会なんて……してません。そ、それに……家の中にも入れたり、してません。……こ、コンシェルジュさんたちに聞いて下さっても……構わ、ない。だから……お願い、信じてっ……」と涙目になる。
偉央だって鬼じゃない。
こんな、今にも倒れてしまいそうな雰囲気の結葉に無体なことをする気はさらさらなかった。
さっき想に牽制された言葉が心の中に引っかかっていて、誰か第三者に結葉のことをどうこうされるくらいなら、自分が頼ってもらえるように結葉に信頼されたい、とも思っていて。
「――分かった。信じよう」
いつになく寛大な気持ちでそう言って、さっき床に置いた箱を取り上げると、結葉に手渡す。
「随分前に約束したのにキミのご両親の海外赴任やなんかであやふやになってしまって。遅くなって悪かったね。――開けてごらん?」
となるべく優しく声を掛けた。
結葉はそんな偉央をオロオロとした目で見上げて。
そうして、恐る恐る箱のふたを開けた。
「ハム、スター……?」
小さくつぶやく声に、偉央が頷く。
「うちのスタッフのところで生まれたのを一匹もらえるよう頼んでたんだ。今日もらう約束になってたんだけどね、この雪だし延期かなって思って。――期待させといて連れ帰れなかったらガッカリさせるだろう? だから今朝、キミには言わずに出たんだ」
そう前置きをして偉央が続ける。
「けど案外律儀な子でさ、ちゃんと約束通り連れてきてくれてね。すぐ結葉に見せてやりたかったんだけどこの雪だ。足元も悪いし、キミに連れにおいでとは言えなかった」
だから、自分がほんのちょっと職場を抜ける形で連れ帰ってきたのだと言う。
「猫や犬も考えたけど……やっぱり飼い慣れた生き物の方がいいだろう?」
偉央のその声に、結葉は無言で福助に似たゴールデンハムスターの子供を見詰める。
福助が死んでしまってから、確かに結葉は寂しくてたまらなかった。
けれど、彼女がその穴を埋めるために本心から望んだのは猫でも犬でも……ましてやハムスターでもなかったから。
偉央との赤ちゃんを希望して拒絶されたことを思い出した結葉は、何も言えなくなってしまう。
こうやって、偉央はまた結葉の本心なんて全部まるっと置き去りにしてしまうんだと思ったら、悲しくてたまらなかった。
「結葉? 嬉しくないの?」
何も言わなかったから、偉央を不審がらせてしまったらしい。
結葉は慌てて「ううん、ちょっとびっくりしただけ」と取り繕ってから、色んな気持ちを押し殺してただ一言、「可愛い」と付け加えた。
自分をキョトンとした顔で見上げてくるハムスターには何の罪もない。
「福助が使っていたケージや道具、リビングにまだそのままだったよね?」
何となく片付けるのが辛くて……。でも、だからと言って空っぽのケージを見るのは悲しくて。
福助がいなくなって大分経つけれど、偉央が言うように福助が使っていたケージは、綺麗に掃除をしてから、布を掛けてリビングにそのまま置いてある。
「床材や餌も一緒に持って帰ってきてるから」
とりあえずケージに移してやろうか、と偉央に言われて、結葉は小さく頷いた。
「って思ったけど――。結葉、キミは調子悪そうだし、寝室で寝んでおいで? 僕がやっとくから」
言って、偉央は結葉の手からハムスターの入った箱を取り上げると、再度床に置く。
そうして、今にも倒れてしまいそうな結葉を気遣いながら一旦寝室へと向かった。
***
「部屋、暖房入れるから。暖かくなったらパジャマに……」
そこまで言って、ベッドに腰掛けさせた結葉を心配そうに見下ろすと、偉央が「一人で着替えられそう?」と問いかけてきた。
何だか今日の偉央はとても優しくて。
まるで新婚当初の彼に戻ったかのような〝錯覚〟を結葉に与える。
きっと想にアレコレ言われたことが影響しているんだろうな、と漠然と思った結葉だったけれど、何だかいつもの癖で「反動が怖い」とも思ってしまった。
偉央との付き合いも長い。
彼が長年かけて自分にしてきた支配と抑圧は、ほんの少し優しくされたくらいではそんなに簡単に結葉の緊張を解きはしなかったし、逆に〝嵐の前の静けさ〟なのではないかと警戒心さえ引き起こして。
何か些細なきっかけがあったら、きっと偉央は想とのことも相まって、いつも以上に自分に酷いことをする気がして仕方のない結葉だ。
「だ、大、丈夫です……」
どこか怯えを含んだ震え声で「自分で着替えられる」と小さく答えた結葉を見て、偉央は溜め息をつきたい衝動を必死に抑えた。
結葉がこんな風に自分の一挙手一投足にビクビクするのは、自分がこれまで結葉にしてきたことを思えば当然の〝報い〟だと思ったし、一度植え付けてしまったそういう感情が、今日や明日ほんの少し優しくしたくらいで拭えるはずがないことも、偉央自身ちゃんと分かっているつもりだ。
「……着替え、出してくる」
だからあからさまにガッカリしている顔を結葉に見せたくなくて、偉央は結葉に背中を向けると、彼女の箪笥から寝巻きを出してやりに行く。
「あの、偉央さん、私……」
結葉は偉央から手渡されたパジャマを受け取りながら、甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれる偉央に、申し訳なくて堪らなくなる。
思わず、「寝込むほど体調、悪くないんです」と言おうとして、偉央に「ん?」と聞かれた途端、言葉に詰まった。
馬鹿正直に「そんなに辛くないの」と告げてしまったら、「じゃあ何で幼馴染みの彼に玄関先まで付き添ってもらったの?」と聞かれてしまうと思い至ったからだ。
言えるわけない、と先の言葉を飲みこんだ結葉は、
「……ごめんなさい」
と、自分の仮病に振り回されてしまっている偉央に、謝罪の言葉を述べるだけに留めた。
そもそも、いま偉央は診察時間のはずなのだ。
こんなところで結葉相手に油を売っている場合ではないのでは?
そう思ってソワソワと偉央を見つめたら、
「仕事のことを気にしてくれてる?」
ふっと柔らかく、偉央に笑いかけられた。
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