サヴァンにはドロワという広い公園がある。石畳と芝生、落葉樹にベンチで構成された一般的な都市公園だが、一部がジャポンの庭園をイメージした造りになっているのが特徴だ。学園都市であるサヴァンではジャポンからの留学生も多く生活しており、彼らに祖国と同じような気持ちで過ごしてもらいたいと整備されたらしい。春になると「サクラ」という薄いピンクの花が咲いて、それを眺めに来る住民も多い。
ジャポン庭園の近くには、公園のシンボルとも言える樹齢1000年を超える銀杏の木があり、傍に小さな四阿が建てられている。四阿の中には誰でも自由に弾けるピアノが置いてあり、公園の傍を通ると、時折ピアノの音が聴こえてきた。もともとは市内に住んでいた音楽家が所有していたものらしいが、彼が亡くなった際に遺族が市に寄贈したらしい。
そのピアノを彼女が見つけたのは偶然で、弾いてみたいと言ったのも偶然だった。しかし、群を抜いた技量にいつの間にか周囲にはギャラリーができていて、演奏が終わると拍手が沸き起こった。挙句、ギャラリーからリクエストを受けて、その後も何曲か披露する羽目になった。彼女が困るようなら止めに入ろうと思っていたが、ピアノを弾いているときの彼女はとても楽しそうだったので、結局されるままに任せた。
最終的に4曲披露した彼女は、椅子に座ったまま、ギャラリーに礼をして締めた。小柄な彼女にとっては、椅子から降りるのも一苦労だ。手を差し出すと、礼と共に彼女の小さな手がクラピカの掌に載せられた。
「古いけど、良いピアノね。持ち主が大切にしていたことがよくわかるわ」
帽子を目深に被った彼女―――センリツが、ピアノ近くのベンチに腰を下ろした。センリツの演奏が終わったピアノからはギャラリーが退き、間もなく季節を迎える銀杏の葉が周囲を彩っている。
「相変わらず見事だな。念能力を使っていないのに、気分が変わる」
「もともと音楽ってそういうものよ。気分を上げたり、落ち着かせたり。そういう効果が科学的にも証明されているわ」
「それは演奏者の技量や解釈に因るだろう?どんなに素晴らしい曲でも、演奏者の技量と解釈が未熟では、聞いている人間には伝わらない」
マフィアにいたころから、センリツの演奏には心を動かす力があった。そういう念能力ではあるのだが、念を使わなくても幅の広い表現と洗練された技巧には、誰もが感嘆の声を上げるだろう。自分も彼女の演奏と心遣いには、大分助けられた。仲間の眼を取り戻すたび、彼女はそっと自分の傍に寄って、何も言わずにフルートを吹いた。どこかの国の鎮魂歌。全く角のない音は、まるで彼女の人柄をそのまま表したようだった。同胞の魂よりも、きっと自分が慰められていたのだろう。
素直な感想を口にしただけだったのだが、センリツはなぜか呆気にとられた顔をしている。
「……あなた、色々な意味で誤解されやすいから、少し気を付けた方が良いわ」
「?どういう意味だ?」
「ふふ、ありがとう。気にしないで。そうね、あなたはそういうところが良いのよね」
くすくすと笑うセンリツに首を傾げて、クラピカは彼女の隣に腰かけた。
「これが例のものだ。あと、こちらはレオリオから」
データカードとレオリオから預かった菓子折りの袋を渡す。データカードには、サヴァンの音楽学校で教師を務めている人物のデータが入っている。菓子折りの袋にはベルデで購入したナッツオイルも追加した。
センリツがそれらを受けとって、にこりと微笑んだ。
「ありがとう。助かるわ。レオリオにも御礼を言っておいて」
「これで見つかると良いんだが」
「そうね。でも今回で見つからなくても、少しずつ近づいている気はしているから。気長に探すわ」
センリツは今でもノストラード組に所属しながら、闇のソナタを探している。データカードの音楽教師が、闇のソナタと関連している可能性があると知ったのは偶然だった。クラピカは現在は一線を退いたが、元マフィアの若頭・元ブラックリストハンターという経歴がある。その情報網で、稀に警察から協力を求められることがあるのだが、ある事件の捜査をしているときに件の音楽教師が参考人として呼ばれた。その際「楽譜を預かった。ただ絶対に演奏してはいけないと言われている」という証言があった。楽譜は事件とは無関係だが、もしやと思い彼女に連絡をした次第だ。
センリツはデータカードの内容を眺めている。現状捜査でわかった情報に加え、個人的に調べた内容もすべて詰め込んだつもりだ。役に立つと良いのだが。
まるで憎い相手を睨むような表情は、普段の穏やかな彼女からはあまり見られない。何となく見ていられなくて、クラピカは話題を変えた。
「組はどうなっている?」
仲間の眼をすべて取り戻し、裏社会に身を置く必要がなくなったタイミングで、クラピカは若頭を辞した。組の運営は主にリンセンに引継いだ。個人的にはマフィアという存在を好いてはいないが、自分と同じように理由と覚悟を持って裏社会に身を置く同僚が所属する組を潰す気は起きなかった。かといって、一度社会の闇を見た人間が簡単にそこから抜け出せるはずもない。若頭を辞してマフィアの後ろ盾がなくなったのを良いことに、恨みを持つ人間から襲撃されるようになった。自分を殺して、それをノストラード組への脅し土産にするつもりだったのだろう。本来、足を洗った人間には手を出さないのがマフィアの暗黙のルールなのだが、それすら守れないほど切羽詰まった連中らしい。念能力者を雇ってまで、自分を亡き者にしようとするのだから厄介だ。そのおかげで倒れて、ゴンたちに寿命のことがバレたのだが。
データカードから顔を上げたセンリツが、僅かに口元を緩めた。
「特に変わりないわよ。リンセンやバショウも相変わらず。強いて言うなら、ちょっと規模が大きくなったくらい。裏社会の安定を考えるなら、マフィアンコミュニティの勢力図を変える必要があるし、しばらくは水面下で力を蓄えながら様子見といったところね」
「……私にできることはあるか?」
「ない、と言っておくわ。というより、あなたはもうマフィアにかかわる理由はないし、私もあまりかかわらせたくないから」
センリツがデータカードを懐に仕舞う。
「だってあなた今、とても幸せそうだもの」
クラピカが目を瞬くと、センリツは地面に視線を落とした。鮮やかな芝生の上には、微かに黄色に染まった銀杏の葉がそこここに落ちている。もうしばらくすれば、一面が黄色で埋め尽くされるだろう。
「あなたが緋の眼をすべて回収したときの心音、全然嬉しそうじゃなかったわ。それは、そうよね。目的を達成しても、あなたの一族が帰ってくるわけじゃない。過去は取り戻せない。いわば、マイナスが0に近づいただけだもの」
仲間の眼がすべて戻ったとき、ようやくという想いはあった。だが、心は全く晴れなかった。死してなお弄ばれる同胞たちを、下衆な人間から解放しただけ。家族も友人も夢も時間も誇りも、自分が失ったものは何ひとつ戻ってこない。目的の達成は、復讐と緋の眼の回収が本懐となっていた自分にとって、ただ空疎な自らを自覚させるだけだった。広大で荒れた夜の海で、灯台の光が急に消えたように、進むべき道がわからなくなった。
センリツが、そっと目を閉じる。
「本当はね、こうしてあなたに会うたびに、あなたの心音が少しずつ弱くなっていくのを実感して、少し怖くなるわ。でも、同時にあなたの心音は徐々に暖かくなっていくの。前は綺麗だけど冷たくて、酷いときには聞くのも堪えがたいような音をしていたのに」
センリツの言に、クラピカは彼女から目を逸らした。そういえば「もう聞きたくない」と言われたこともあったなと思い出す。ただでさえ毎日雲霞のごとき音を判別し、処理している彼女に余計なストレスを与えた。もしかすると彼女は、心音で自分の寿命の残数を把握しているのかもしれない。おそらく、聞いても答えてはくれないだろうが。
「今の音は弱いけれど暖かくて、穏やかなメロディをしている。私は、この音がとても好きよ。ずっと聞いていたいくらい」
センリツがクラピカに視線を戻して、頬を緩めた。僅かに風が浮き上がって、彼女の髪を揺らす。その表情に、クラピカも自然と笑みが漏れた。
進むべき道は、今でも見えない。ただ、自分に残されたそう多くない時間の中で、どう生きるべきかはわかっている。一度すべてを失って、怒りと憎しみで忘れていた、約束。
「……センリツは、歌を聞けば演奏はできるか?」
「そうね……。よほど長い曲や難しい曲でなければ、一度聞けば大丈夫」
「センリツに、託したい歌がある」
言ってセンリツを見ると、彼女は一度目を瞬いてから「歌ってくれる?」と言った。頷いて、あの歌を歌った。ゴンに教えた子守歌。自分は与えられるばかりで、誰にも与えなかった歌。
さして得手でもない歌が終わると、センリツから小さく拍手が贈られた。
「とても素敵なララバイね。言葉はわからないけれど」
「クルタ語の子守歌だ」
「そう……」
センリツが視線を落とした。僅かに沈んだ表情は、自分に対する気遣いだろう。
「私は、クルタ族最期の生き残りとして、文化も言葉も何も残さないつもりでいた。だが、ゴンが―――大切な友人が、私の大事にしているものを大事にしたいと言ってくれた。だから、この歌だけ残そうと思う」
空を仰ぐと、秋の深い青が目線を吸い込んだ。この空と同じように澄み切った心を持つ友人は、すべてを失った自分に、新しい仲間と自分がすべきことを教えてくれた。何も残さないつもりでいた。それが正しいと思っていた。だがそう考えた自分の愚かさに、気付かせてくれた。
「残すなら……センリツに託すのが最適だと思った」
「……光栄よ、ありがとう」
ふわりと、彼女が微笑む音が聞こえた気がする。組の中で最初に自分の事情を知り、自分に協力してくれた彼女。今でもセンリツは念能力でクラピカを回復させるため、定期的にサヴァンに通ってくれている。正確に言うと、クラピカの治療のためにレオリオが彼女に要請した。レオリオの用意した菓子折りは、その礼だ。
そんな彼女にこの歌を託すのなら、残すことに何の気がかりもない。
「ちょっと演奏してみても良いかしら?」
センリツがフルートを取り出したので「頼む」と頷く。彼女は一度深呼吸してリッププレートに唇を乗せると、ゆっくりと調べを奏でた。音階には一切の狂いがない。かつて聞いた母の歌と同じように、優しく穏やかな音。故郷を忘れる歌なのに、どうしようもなく郷関ばかりが思い浮かぶ。目を閉じると不覚にも目頭が熱くなったので、僅かに唇を噛んで耐えた。
演奏が終わるのと、自分が目を開くのは同時だった。
「……驚いたな。本当に一度聞いただけで演奏できるのか」
「あら?疑ってたの?」
「いや、そういうわけでは」
「ふふ、冗談よ」
クラピカが両手を振って違うと示すと、センリツがくすくすと笑った。
「今のは私の勝手な解釈で演奏したけど、歌詞にどういう意味があるのか、教えてほしいわ。そうすればきっと、あなたの望む残し方ができるから」
センリツの言葉に、クラピカは首を横に振った。なぜなら、望む残し方などないから。
意味は、わからなくて良い。彼女が残したいと思って演奏すれば、きっと彼女の音が素敵だと思った人が続きを紡ぐ。ゴンが大切にしてくれれば、ゴンを大切だと思う人が残していく。自分には、それで十分だ。