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「転生費五百万、ちょうどいただきますね」
静かな石造りの建物――“教会”と呼ばれる場所に、事務的な声が淡々と響いた。
ここは、貴族が生涯の伴侶を得るために必ず通る場所。
血と家柄を守るため、運命の相手を転生させることは義務であり、決まりだった。
白衣を着た職員は、まるで店員のように書類をめくりながら説明を続ける。
「年齢は二十六歳。攻撃性は見られませんので、しつけは比較的容易でしょう。
前世での精神的負担がかなり大きかったようですね。新しい環境に慣れるまでは、優しく接してあげてください」
その言葉を聞きながら――
日向は小さく息を呑み、肩をすくめた。
転生装置の光に包まれてから、まだ時間は経っていない。
心は落ち着かず、人の視線も声も、すべてが怖かった。
そんな日向の前に立っていたのは、一人の青年だった。
早乙女家の長男――早乙女 高人。
高人はじっと日向を見つめると、ゆっくりと歩み寄り、しゃがんで視線を合わせた。
その仕草は驚くほど穏やかで、けれど反論を許さない重みを伴っている。
「俯かなくていいよ。背筋を伸ばして、前を見るんだ。いいね」
その声音は静かで、胸の奥にまで届いた。
日向の体は条件反射のようにびくりと震え、
気づけば言われた通り、背筋を伸ばしていた。
「……はい」
それだけで、高人は満足そうに微笑んだ。
「君、名前は?」
聞かれただけなのに、喉が詰まる。
男の人が怖い――前世で刷り込まれた恐怖が、まだ日向を縛っていた。
それでも、必死に勇気を振り絞る。
「ひ、日向……柊 日向です」
絞り出した声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
高人はその名を一度、ゆっくりと口にし、静かに微笑む。
「俺は高人。早乙女 高人。よろしく」
そして、当たり前のように告げる。
「俺のお嫁さん」
日向の心臓が大きく跳ね、世界が一瞬止まったように感じた。
恐怖のすぐ隣で――
初めて、ほんの少しだけ体が温かくなる。
高人はすっと手を差し出す。
「行こう、日向。今日から君は、俺が守る」
その掌は、信じられないほど優しい温度をしていた。
転生した翌朝。
日向は与えられた部屋の隅で小さく丸まりながら、高人の声を待っていた。
「日向、行くよ」
声をかけられただけで、肩が跳ねる。
その反応を見て、高人は心底心配そうに眉を寄せた。
「……ごめん、驚かせた?」
日向は慌てて首を振る。
「ち、違います……わ、私の、せいです……」
否定するように高人は手を振る。
「そうやって謝らなくていいんだよ。今日は服を買いに行って、それから病院だ。
大丈夫、俺がついてる」
その「ついてる」という言葉さえ、日向には少し怖かった。
木造の天井から柔らかな布が揺れ、店内には少女向けの服が色とりどりに並んでいた。
フリル、リボン、淡い色合い――どれも日向には眩しすぎる。
「す、すみません……あ、あの……な、何を買うんですか……?」
「いちいち謝らなくていいよ。柊さん、君の服を買うんだ」
「い、いえ……今着ているので十分です……」
高人は一瞬きょとんとしたあと、小さくため息をついて微笑んだ。
「それしか服がないじゃないか。他のも買うよ。
服以外にも必要なものは揃える。拒否権はない」
優しいが、逃げ道のない声音。
日向は縮こまりながら、これ以上言ってはいけないのだと悟り――
「……はい。ありがとうございます」
それが、精一杯だった。
⸻
数時間後
紙袋と箱が山のように積み上がり、シュシュの腕は完全に塞がっていた。
「結構買ったね。先に持って帰ってもらおうか」
ぱたぱたと元気な足音。
「シュシュ、お願いできる?」
「わかりました!! 二人とも気をつけてくださいね!」
獣耳がぴょこぴょこ揺れ、尻尾が勢いよく振られる。
十歳ほどの少年――日向の世話係となった獣人のシュシュだ。
「終わったら呼んでくださいねー! お迎えに来ますから!」
馬車は大荷物を載せ、屋敷へと戻っていった。
「さて、俺たちは病院に行こうか」
「……はい……」
日向の声は震え、体も小刻みに揺れていた。
高人はそっと距離を詰める。
「大丈夫。診てくれるのは俺の知人だ。緊張しなくていい」
「……お、女の人……ですか……?」
「そうだよ。嫌なことはされない」
もし男性医師だったなら、日向はきっと立っていられなかっただろう。
高人は、それを理解しているようだった。
ガラガラッ。
診察室の扉が開く音と同時に、高人の声が響いた。
「来たよ」
「おっそい! どこで道草食ってんだ!」
威勢のいい声が飛び、日向はびくりと肩を震わせた。
反射的に身を縮める日向を横目に、高人は小さく笑う。
「柊さん、こいつはノア。これでも腕の立つ医者だよ」
白衣をひるがえし、ノアはにこりと日向を見た。
「……あ、あの……柊 日向です……よ、よろしくお願いします……」
震えながら名乗る日向に、ノアは頷く。
「私はノア。こんな名前だけど日本人だよ。転生前の記憶がなくてね」
その言葉に、日向の表情がわずかに和らいだ。
ノアは続ける。
「転生は珍しくない。でもね、転生されたからって必ず嫁になる義務があるわけじゃない。
選ぶ権利は、本人にあるんだ」
横で高人が苦笑する。
「私だって、嫁を断って医者になったしね」
日向の目が、不安と驚きで揺れた。
ノアは声の調子を落とし、優しく手を差し出す。
「さあ、診察をするよ。こっちおいで。
検査は義務だから、迷惑とかじゃない」
日向は小さく一歩ずつ歩きながら、震える声でぽつりとこぼす。
「……お、男の人が……怖い……です……
じ、自分の意見……言ってはいけないって……ずっと……」
ノアの眉が、静かに動いた。
「そっか……詳しいことは、無理に話さなくていいよ。
でも日向、誰かを頼ることは、少しずつ覚えた方がいいね」
日向は目を伏せる。
その後ろで、高人は二人を心配そうに見つめていた。
(俺の声をかけるだけで、あんなに怯えるなんて……
どうしたら、怖がられずに済むんだ……)
高人は拳を握りしめるしかなかった。
ノアは高人へと視線を移す。
「高人。あんた、もっと優しく声を掛けな。
日向、あんたを見るたびに震えてるよ」
「……わかってる。どうすればいい?」
ノアはクスッと笑った。
「まずは信じてもらうところからだ。
時間はかかると思うけどね」
その夜、日向は静かに目を閉じた。
柔らかな布団の温度を感じたのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、白く濁った蛍光灯の光が視界を支配する。
――カツン。
硬い革靴の足音。
机を叩く衝撃が、心臓の奥を直接殴るように響いた。
「何度言わせるんだよ」
「ほんと使えないやつ」
「お前の代わりなんて、いくらでもいる」
声が重なる。
怒りでも、感情でもない。
ただ切り捨てるような、無関心の声。
そのすべてが、日向の皮膚を刺し、息を奪った。
(……また、ここ……?)
逃げようと足を動かそうとしても、夢の中の身体は鉛のように重い。
呼吸が浅くなり、胸が締めつけられる。
紙を叩きつける音が耳元で炸裂し、そのたびに身体がびくりと跳ねた。
「邪魔なんだよ。いらないんだよ」
「消えてくれた方が楽なんだよ」
声が、音が、次から次へと押し寄せる。
自分が薄い霧のように溶けていく感覚に、日向は必死に手を伸ばした。
(こわい……いやだ……だれか……だれか……)
誰も呼ばない。
誰の声も返らない。
ただ、不要品のように放られる世界だけが広がっていた。
そのとき――。
「日向!!」
鋭い声が、悪夢の膜を引き裂いた。
日向は大きく息を吸い込み、はっと目を開ける。
呼吸は乱れ、涙が止まらず頬を濡らしていた。
「日向、大丈夫か!」
肩を強く抱き寄せる腕。
その温もりは、確かに現実だった。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「日向! 謝らなくていい。もういいんだ」
高人の声は必死で、震えていた。
日向は喉を震わせ、かすれた声で言葉を落とす。
「こわ……かった……音が、声が……
わたし……いらないって……」
途切れながらも搾り出すその姿に、高人は息を呑む。
そして、逃げ道を塞ぐように腕の力を強めた。
それは押しつけではなく、ただ必死な保護だった。
「……誰が、そんなことを言ったんだ」
低い声。
怒りを孕みながらも、それは日向には向いていない。
「二度と言わせない。
日向を傷つけるものは……全部、俺が排除する」
その言葉には、高人自身がまだ気づいていない感情が滲んでいた。
「日向がいらないわけないだろ。
俺には必要なんだ。
他の誰が何を言おうと、関係ない」
日向は高人の胸元を掴み、縋るように身体を預ける。
その細い指を、高人はそっと包み込んだ。
「日向は……俺のものだ。
俺が必要だと思う限り、誰にも奪わせない。
誰にも、触れさせない」
独占にも似た言葉を、日向は理解しきれないまま、ただ震えを止めるために布に顔を埋めた。
高人は日向の頭をゆっくりと撫で、囁く。
「大丈夫だ。
怖い音も、嫌な声も……全部、俺が遮る。
日向の世界に必要なのは、俺ひとりでいい」
その言葉は、慰めであり――
同時に、呪いにも似ていた。
けれどその夜、日向にとってはそれが唯一の救いだった。
そして――
高人の胸の奥に芽生えはじめた独占欲は、まだ彼自身の意識には届かないまま、確かに深く根を張り始めていた。
朝の光が、カーテン越しにやわらかく揺れていた。
その淡い明るさの中で、高人は身支度を整えている。
だが、背後にいる日向をちらりと見るたび、眉が自然と寄った。
「……やっぱり仕事に行かず、今日は一緒にいるか?」
予想もしなかった言葉に、日向は大きく瞬きをする。
胸の奥がひやりと冷え、慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です……。い、行ってらっしゃい……ませ。
わ、私のせいで……迷惑は……」
その言葉を遮るように、高人は静かに首を振る。
否定の仕草は穏やかだが、瞳には消えない不安がにじんでいた。
「わかった。無理はしないでね。
したいと思ったことをして過ごして。
……シュシュもいるから、何かあれば言うんだよ」
「はい!! なんでも言ってください!」
元気な声が横から飛び、シュシュのしっぽが勢いよく振られる。
高人は靴を履きながら、ふと日向の方を振り返った。
日向は不安げな瞳で、ただ高人の背中を見つめている。
「声を出す練習をしてみるのはどうだろう?
そうすれば、時間はすぐに経つかもしれない」
その言葉に、日向は小さく頷いた。
高人は扉の前で一度だけ立ち止まり、何かを言いかける。
しかし結局、言葉を飲み込み、そのまま外へ出ていった。
誰の気配もない、静かな部屋。
その静けさが、逆に胸を締めつける。
(……声、出さないと……)
「お、おはよう……ござい……ます……」
喉がつまる。
誰もいないはずなのに、息が苦しい。
そのとき――。
コン、コン。
ノックの音に、日向は跳ねるように肩を震わせた。
恐る恐る扉を開けると、そこには――
「奥様!! 開けてくれたんですね! ありがとうございます!」
満面の笑みのシュシュが立っていた。
しっぽは勢いよく揺れっぱなしだ。
「次からは、入っていいか声で言ってくれたら嬉しいです!
声の練習にもなりますからね!
僕は様子を見に来ました! 何か困ったことはないですか!?」
「あ、えっと……だ、大丈夫です……」
「本当ですか!?
僕の仕事は奥様のお世話係なので、なんでも言ってください!
お願いですから何かお仕事ください!
一緒にお茶を飲むだけでもいいです!」
あまりに必死な様子に、日向は思わず少しだけ笑いそうになる。
「……ほ、ほんとに……なんでもいいんですか?」
「はいっ!!!」
しっぽがぶんぶんと振られる。
日向は胸の前で両手を握りしめ、小さく勇気を出した。
「な、なら……声を出す練習をしたいので……
す、少し……お話相手になって……くれませんか……?」
シュシュは、太陽みたいにぱぁっと笑った。
「お任せください!! いっぱいお話しましょう!!」
それからしばらく、部屋には明るい声が響き続けた。
日向の声も、ぎこちないながら確かに増えていく。
気づけば、日向の表情には、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。
同じ頃――高人の仕事場
高人は書類を見つめていた。
だが、その目は文字を追っていない。
(……日向、大丈夫だよな?
声、出せてるだろうか。
部屋が静かすぎて、怯えてないだろうか……)
時計を見る。
まだ、数分しか経っていなかった。
その様子に、部下が苦笑する。
「旦那様、今日……そわそわしてません?」
「……してない」
完全にしている。
だが高人は、その自覚がなかった。
胸の奥で、静かに強まっていくもの。
それは心配に近く、しかしそれよりも深い――
無意識の“独占欲”。
(ひとりにさせすぎたかもしれない。
……早く、帰らないと)
仕事は、いつも以上の速度で片付けられていった。
周囲は驚き、そして無言のまま道をあける。
扉の前で、思わず名前を呼びそうになる。
(……日向)
静かに扉を開けると――
ソファに寄り添うように眠る、日向とシュシュの姿があった。
高人の眉が、ぴくりと動く。
「……シュシュ、起きて」
「ひゃっ!? は、はいっ!!」
慌てて起き上がるシュシュに、高人は低い声で告げた。
「日向が起きてしまうから……静かに」
そして眠る日向を、そっと抱き上げる。
温かくて、軽くて、壊れ物みたいで――
胸が締めつけられた。
寝室へ運び、ベッドに寝かせる。
そのまま、そっと頭を撫でる。
「よく……頑張ったね」
その声は、誰にも聞かせないほど、愛しげだった。
廊下で、シュシュが今日の様子を報告していた。
「日向様、とても頑張ってお話してましたよ!
あ、奥様って呼ぶのは、まだ恥ずかしいから……
日向でいいって言われたんです!」
その言葉に、高人は一瞬だけむすっとする。
(……日向“様”。
俺だけ、柊さんのまま……?)
胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さる。
だが、シュシュは気づかないまま続けた。
「でも、今日はすっごく楽しそうでした!」
その一言で、高人の表情はふっと緩んだ。
「……そうか。
なら……本当によかった」
その胸の奥で、
――手放したくない。
――自分だけを見てほしい。
そんな気持ちが、またひとつ、静かに育っていく。
数日後。
高人に付き添われ、病院へ向かう馬車の中で、日向は小さく息を呑んだ。
「緊張してる?」
隣からの優しい問いかけに、日向はこくりと頷く。
診察室に入ると、白衣姿のノアが柔らかく手を振った。
「いらっしゃい。前回との変化を見ていくね」
落ち着いた声で問診が進み、一通り終わったところでノアが言う。
「一回目と二回目は同じ医師じゃないといけないけど、
次回からは変えることもできるよ。どうする?
もちろん、このままでも構わないし」
日向は迷った。
――自分が決めていいことなのだろうか。
ちらりと高人を見る。
その視線を受け止め、高人は穏やかに微笑んだ。
「日向の好きにしていいよ」
その言葉に背中を押され、日向はたどたどしく口を開く。
「め、迷惑にならないのなら……
このまま、ノアさんにお願いしたいです」
ノアはぱっと表情を明るくした。
「全然迷惑なんかじゃないよ。
むしろ選んでくれて嬉しい。ありがとう、日向ちゃん」
診察の結果は、ゆっくりではあるが確実に前に進んでいた。
言葉は以前より詰まらなくなり、声もしっかり出ている。
しかし――ノアは優しく続ける。
「まだ練習は必要だね。
ひとりで練習するより、誰かと会話しながら慣れていく方がいいよ。
それと……外に出る練習も、少しずつ始めていい」
その一言に、高人の眉がぴくりと動いた。
「外に……出る?」
低い声。
そこには、無自覚な独占欲がにじんでいる。
「危なくないか?」
ノアは笑いながら、やんわりと返した。
「無理をしない範囲でね」
日向が少し嬉しそうにしているのを見て、高人はそれ以上の反論を飲み込み、唇を結んだ。
病院を出て、帰り道。
日向は窓の外を眺めながら、小さな声でつぶやく。
「……外、ちょっとだけなら……行ってみたいです」
その瞬間、高人は即答した。
「行くなら俺と。絶対にひとりでは行かないで」
あまりにも早い返事に、日向は思わずくすっと笑う。
「……はい」
高人は日向の手をそっと取り、指を絡める。
温かさが伝わる握り方だった。
「無理はしなくていい。
でも……できることが増えて、俺は嬉しいよ」
その声は優しいのに、どこか強い。
――絶対に手放さない。
そんな響きを秘めていた。
病院から戻ったその日。
高人は日向に向かって、静かに言った。
「ノアが言ってただろ。
誰かと話す練習を続けるといいって」
日向は少し考え、こくりと頷く。
「……は、はい」
「難しく考えなくていい。
質問を交互にしてみようか。
答えられなくなったら、そこでやめればいい」
日向の指先が、ぎゅっと絡む。
それでも逃げず、目を伏せたまま小さく声を出した。
「……わ、わたしから……いいですか……?」
「もちろん」
日向は深呼吸をして、勇気を振り絞る。
「た、高人さんは……
お仕事、す、好きですか……?」
「好きかどうかは分からないけど、責任はあるかな」
即答せず、きちんと考えてから答える声は落ち着いていて、優しい。
それに少し安心したのか、日向は次の質問を口にする。
「……す、好きな……食べ物は……?」
「甘いもの。意外かもしれないけど」
「……ふふ……」
かすかな笑い声。
それだけで、高人の胸は少し軽くなる。
「じゃあ、次は俺から」
日向の肩が、ぴくりと揺れた。
「……大丈夫。答えられなかったら、無理に言わなくていい」
「……はい……」
高人は少し考えてから、何気ない調子で尋ねる。
「日向の誕生日は、いつ?」
その瞬間、日向の動きが止まった。
視線が床に落ち、唇がわずかに震える。
数秒の沈黙のあと、掠れた声が零れた。
「……もう……すぎて、ます……」
高人は言葉を失った。
「……え?」
「……転生して……すぐの頃に……」
それだけ言って、日向は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「……言って、いいものだと……思わなくて……」
胸の奥が、ずしりと重くなる。
――気づけなかった。
――祝うべき日を、何も知らずに過ぎさせてしまった。
「……そうか」
それ以上、言葉が出なかった。
日向は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です……!
ほんとうに……気にして、ないです……」
その必死なフォローが、逆に胸を締めつける。
(気にしてない、じゃない)
(気にすることを、諦めてただけだ)
高人は静かに息を吸い込む。
――これは、俺の落ち度だ。
――埋めなければならない。
その夜、高人の心の中で、
**「何かをしなければならない」**という思いが、
はっきりとした形を持ち始めていた。
その日は、屋敷の空気が朝からどこか違っていた。
廊下を行き交う使用人たちの足取りはいつもより忙しく、花瓶が入れ替えられ、白いクロスが丁寧に広げられていく。
日向はその様子を、自室の扉の隙間からそっと見つめていた。
(……なにか、あるのかな……)
理由は分からない。
けれど胸の奥がざわつき、不安が芽生えかけた、その時だった。
廊下の先で、高人が使用人に指示を出している姿が目に入る。
「花は、日向が驚かない色合いにして。
派手すぎるのはやめてほしい」
「料理は量よりも、食べやすさを優先してくれ。
静かな部屋で、落ち着いて食べられるように」
「音楽はいらない。
あの子、急な音が苦手だから」
一つひとつ、細かく。
まるで当たり前のように、日向のことだけを考えた指示。
それは、屋敷の準備というより――
日向の世界を守るための準備のように見えた。
「……かしこまりました、高人様」
使用人たちは誰ひとり驚かない。
それが“早乙女高人”という人間なのだと、皆が知っているからだ。
やがて日向は、食事室へ案内される。
テーブルの上には、小さなケーキと控えめな料理。
華やかすぎないが、どこか温かい空間だった。
「……これ……」
戸惑う日向に、高人は向かいの席へ腰を下ろし、穏やかに告げる。
「誕生会だよ。遅くなってごめんね」
「え……」
「誕生日のプレゼント、何がいい?
なんでもいいよ」
日向はしばらく黙り込み、それから勇気を振り絞るように口を開いた。
「……なら……
日向、って……名前で……呼んでください……」
一瞬、空気が止まる。
高人は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。
「……いいよ、日向」
その呼び方だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、俺のことも高人って呼んでね。
これじゃ、俺もお願いしたことになっちゃったね」
そう言って、高人は小さな箱を差し出した。
「それでも……俺からは、形に残るものを」
箱を開け、高人は日向の前に立つ。
「……手、貸して」
戸惑いながら差し出された手首を、そっと取る。
力は強くない。けれど、逃げ道を塞ぐように、確かに包み込む仕草だった。
冷たい金属が肌に触れる。
カチリ、と小さな音を立てて、ブレスレットが留められた。
高人は低く穏やかな声で言う。
「これは日向を守ってくれる。
だから、安心して」
日向は目を丸くし、手首を見つめる。
「……ありがとうございます……」
声は、少しだけ震えていた。
けれど高人は、まだ手を離さない。
親指で無意識に手首をなぞりながら、静かに続ける。
「外さなくていい。
俺が、ちゃんと見てるから」
優しいのに、どこか決定事項のような言葉。
日向は深く考えることなく、小さく頷いた。
「……はい……」
守られている、という感覚だけが胸に残る。
その“守る”の中に――
居場所の確認も、声の記録も含まれていることを、日向はまだ知らない。
高人は満足そうに微笑み、ようやくその手を離した。
(これでいい)
(これで、日向は一人にならない)
そう信じて疑わないまま。
誕生日から少し時間が経ち、日向はようやく「外」という場所に慣れ始めていた。
もちろん、ひとりではない。いつも隣には高人がいた。
馬車に乗り、店に入り、道を歩く。
高人の気配がそばにあるだけで、胸の奥のざわめきは不思議と静まった。
――だからこそ、だろうか。
その日は、ふと口にしてしまった。
「……お出かけに、行きたいです」
高人は書類から顔を上げ、すぐに微笑む。
「いいよ。一緒に行こう」
迷いのない返事。
いつも通りの、優しい声。
日向は一瞬だけ息を詰め、それから視線を落とした。
「えっと……ひ、一人で……行きたいです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
「……え?」
低く、短い声。
高人は日向を見つめたまま、動かない。
次に発せられた言葉は、穏やかさを失っていた。
「それは、ダメだ」
理由は告げられない。
だが拒絶だけは、はっきりと伝わる。
日向の喉がきゅっと縮む。
「ひっ……ご、ごめんなさい……」
反射的に謝っていた。
なぜ謝るのか、自分でも分からないまま。
その瞬間、高人の表情が変わる。
何事もなかったかのように、柔らかな微笑みを作った。
「謝らなくていいよ。気にしないで」
そう言って、いつものように日向の手を取る。
声も、仕草も、すべてが“普段通り”。
日向はその温もりに、ほっと息を吐く。
怒られていない。嫌われてもいない。